才能は適材適所 篇
人材という文字が部品的で非人道的だということで、「人財」という字に置き換えられることが多い。しかし元来、「材」の字はそれのみで才能の意味を持つので、この置き換えにはあまり意味がないように思える。
人材の育成や発見、その用い方について『論語』で孔子は次のように述べている。
君子は小さな仕事を卒なくこなすことはできないが、大きな任務を引き受けることができる。逆に小人は大きな任務は引き受けられないが、小さな仕事はコツコツとやり遂げることができる。
この文意を額面どおりに受け取ると「あいつに、この仕事を任せるのはまだ早い」、もしくは「そろそろ、あいつにもこの仕事を任せる時期だろう」といった仕事や人生のステージが成長していくという考え方は神話のような空想の産物の可能性がある。
もちろん、人は成長する生き物なので、三国志演義の中で魯粛がずっと馬鹿にしていた呂蒙に会ったときに、呂蒙が言い放った「男子、三日会わざれば刮目してみよ」(正確には「士別れて三日すれば、即ち更に刮目して相待すべし」)ということもあるかもしれない。
しかし、ある時点においては できる人はできるし、できない人はできない、ということが真理なのだろう。
晋の宰相となった王衍(おうえん)の話が『世説新語』の中にある。王衍は若い頃から老荘思想に傾倒し、老荘虚無をベースとした清談に情熱を傾けていた。
まだ王衍が童髪を結っていた頃、王衍の父は晋の将軍であった。このとき、公務上における不祥事の疑いがあって、王衍の父は使者をやり、朝廷で無実を論証させたが、誤解が晴れることはなかった。すると年少の王衍は馬車に乗って都へゆき、大臣2人に面会を求め、事件の経緯を明快に説いた。一人はひどく感心して、王衍が去ってゆくとき、見送ったほどであった。
「子どもを持つとしたら、ああいう子がいいなぁ」
と呟くと、もう一人の大臣が言った。
「天下を乱すものは、必ずあの子だろう」
王衍は後に晋の宰相になったが、位人臣を極めてもなお清談に明け暮れ、虚無思想を貫いた。清貧は王衍の品格を極度に高めたが、それがゆえに政治に情熱を注ぐことはなく、最後は晋を滅亡寸前に追い込み、自らは敵将の手によって殺された。
王衍は老荘に耽って君子を気取っていたが、小知はできても大受はできなかった。つまり小人に過ぎなかったのである。
反対に、人材を見抜くのも用いるのも最高に上手かったのがチンギス・カンである。
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