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馬鹿が作った日本史(33)「大政奉還」「王政復古」の真実

イシ: では、赤松小三郎が松平春嶽に議会制民主主義体制を提言する建白書を提出した慶応3(1867)年5月から続けよう。ここからは1日単位で、ますますめまぐるしく動いていくよ。

  • 5月18日(1867/6/20) 京都東山の料亭で土佐藩・板垣退助福岡孝弟たかちか中岡慎太郎と広島藩・船越洋之助が会見し、武力討幕を密談。

  • 5月21日(6/23) 中岡慎太郎の仲介で薩摩の小松帯刀の家にて薩摩の小松、西郷、吉井幸輔らと、土佐の板垣、谷干城、毛利恭助、中岡慎太郎らが武力討幕を目指す薩土倒幕の密約を交わす。

  • 5月22日(6/24) 板垣が山内容堂に薩土で討幕の密約を結んだことを事後報告。容堂は驚いたが、これを咎めず、武器調達と軍制改革を板垣へ指示。

板垣(乾)退助(1837-1919)
土佐藩士。武力討幕派の筆頭。「今や幕府の罪悪は天下に充満している。もはや断固討幕するしかない。いたずらに言論のみを用いて将軍職を退かせようとするのは馬鹿げている」と檄を飛ばし、大政奉還を進言する山内容堂を差し置いて土佐藩内で武力討伐を訴え、中岡慎太郎らと共謀し、薩摩の西郷、小松らと薩土倒幕の密約を結ぶ。 明治政府では、朝鮮を武力制圧する「征韓論」を主張するが、欧米視察から戻った岩倉具視らによりはね返され、西郷と共に下野。西郷・板垣に続けと辞職する官僚が600名あまりにも上り、世論もこれを支持した(明治六年の政変)。その後、板垣は辞職した土佐派官僚らと、地元土佐で自由民権運動を始め、自由党を結成。自由党は議会内で孤立したが、第2次伊藤博文内閣では板垣は内務大臣として入閣。大正8(1919)年、肺炎で死去。満82歳没。
福岡孝弟(1835-1919)
土佐藩士。後藤象二郎、岩崎弥太郎らと共に吉田東洋に師事。山内容堂・豊範に仕える。板垣・中岡らの武力討幕派との政争に巻き込まれながらも、幕府中心の公議政体論公武合体運動に尽力。明治政府では越前藩の由利公正と共に五箇条の御誓文を起草。元老院議官、文部卿、参議、枢密顧問官、宮中顧問官などの要職を歴任。84歳の長寿をまっとう。
  • 5月24日(6/26) 徳川慶喜、兵庫開港の勅許を得る。

  • 5月25日(6/27) 四侯会議での慶喜の態度に憤慨した久光は、薩土討幕の密約も知り、武力倒幕の路線に切り替える。

  • 5月27日(6/29) 土佐では板垣が中岡に武器調達を指示。中岡は大坂でベルギー製ライフル銃300挺を購入。

  • 6月22日(7/23) 京都の料亭において、土佐の寺村道成(日野春章)、後藤象二郎、福岡孝弟、中岡慎太郎、坂本龍馬が、薩摩の小松、大久保、西郷に大政奉還を進める案を提示し、薩摩も同意する(薩土盟約)。(板垣らが勝手に結んだ「薩土倒幕の密約」とはまったくの別物なので注意)

  • 6月26日(7/27) 薩土盟約に、長州藩の隣の安芸藩も加わり、薩土芸三藩約定書を結ぶが、武力討幕を強行しようとしている板垣退助には盟約のことが伏せられた。


凡太: あれ? この時点では西郷さんらはまだ何がなんでも武力で幕府を倒すという考えではなかったんですか?

イシ: そう思えるね。というのも、西郷はこれに先立つ5月12日に久光に建白書を提出しているんだけれど、そこには「徳川は政権を一旦天皇に返上して、一大名として諸侯と共に朝廷を補佐しながら政治を行うべき」という論が書かれている。
 6月の薩土盟約のときも、基本的にはそうした考えが根底にあったと思うよ。ただ、幕府が大政奉還を拒否する場合は武力に訴えることもあり得る、という姿勢ではあっただろうね。
 それがわずか3か月後の8月には、薩長で具体的な挙兵計画が立てられている。
 内容は、京都にいる薩摩藩兵1000人を3つの部隊に編成し、御所の守衛を襲撃、天皇を拉致して京都南部の男山に移送し、会津藩邸と幕府兵詰め所を焼き討ち。「討将軍」の布告を発して大坂城を急襲、奪取。大阪湾に停泊している幕府の艦隊も砲撃して粉砕……というような大胆すぎるものだ。

凡太: ええ~? 天皇を拉致? なんでそんなことを考え始めるんですか?

イシ: 不思議だろう? ここは幕末史最大の謎ともいえるんだけれど、どうやら裏にアーネスト・サトウがいるんだよ。

 サトウの日記というものが残されているんだけれど、日本では戦後まではほぼ禁書扱いで読めなかった。
 そこに書かれていることによると、7月28日にサトウは西郷と会っている。その際、西郷はサトウに「徳川の専制政治に代わって国民議会ともいえる「議事院」を樹立すべきだ、というようなことを語ったそうだ。
 しかし、それに対してサトウは「これは私には狂気じみた考えのように思われた」と書いている。
 同時に、反幕府勢力の中でも、こうした考えがどんどん主流になっていることを警戒している。
 言い換えれば、サトウは日本の政体が民主的に改革されることを恐れ、なんとしてでも薩長を利用して倒幕したいと考えていたようなんだ。
 翌8月には、サトウはパークスと一緒に土佐にも行っている。このときはイギリスの水夫2名が長崎で斬殺されたイカルス号事件の犯人が海援隊ではないかと言って、容堂と後藤象二郎を相手に話をつけるためということになっているんだけれど、これも穿った見方をすれば、真の目的は土佐藩に武力倒幕をけしかけることだったんじゃないかとも疑える。実際、イカルス号事件に海援隊や土佐藩は関係がなかったと後で分かる。

 ただし、薩長土佐を武力倒幕に向かわせるというのはあくまでもサトウの考えで、上司であるイギリス公使のパークスの考えとは違ったと思うよ。
 実はこれに先立つ4月に、パークスは慶喜と会って、慶喜をすっかり気に入っている。そのときも、イギリスが親幕府になるのではないかと畏れて、西郷はサトウに会いに行っているんだが、そのときのことをサトウはこう書いている。

西郷らは、われわれと将軍との接近について、大いに不満であった。私は革命の機会がなくなったわけではないことを、それとなく西郷に言った。しかし、兵庫が一旦開港されるとなると、そのときこそ、大名は革命の好機を逸することになるだろう。
(『一外交官の見た明治維新』)

 パークスは内戦なしで日本の政体が民主化されるなら、それがいちばんいいと考えていたようだ。日本の経済基盤をなるべく損なわずに完全に開国させられれば、そこからは世界の盟主たるイギリスがどうにもで主導していけるという自信があったんだろう。パークスは慶喜のことを「話せば何でも分かる一流の知性の持ち主」と評価していたようだからね。幕府の専制体制を弱めるために薩長を道具として使うことは考えていただろうけれど、それを無理矢理武力行使でやるのは下手な策だと思っていたはずだ。
 しかし、サトウは違った。やり手の官僚を多く抱える幕府は完全に排除して、政治手腕のない薩長の過激派に政権をとらせたほうがずっと操りやすいと踏んでいたんじゃないかな。
 これに対して西郷は大久保に書き送った手紙の中で、「サトウは、幕府がフランスと組んで3年以内に軍備を整え、薩長を粉砕するつもりだから、薩長も武力で対抗すべきで、イギリスはそれに対して軍事支援をする用意があると言っている。しかし自分(西郷)は、外国に助けてもらうようでは日本の面目が立たないと伝えた」と書いている。

凡太: アーネスト・サトウという人はものすごく危険な人だったんですね。

イシ: パークスの比じゃなく怖ろしい人物だったと思うよ。
 西郷が武力倒幕に固執し始めたのはこの頃だ。裏にサトウやグラバーがいたことで武力倒幕に舵を切ったとも思える。グラバーが裏にいるということは、小松帯刀や坂本龍馬もいる。
 そしてこのタイミングで赤松が薩摩によって暗殺されている。

  • 9月3日(9/30) 赤松小三郎が京都で薩摩藩の中村半次郎らに斬り殺される。

  • 9月18日(10/15) 長州藩主・毛利敬親、討幕挙兵を決断し、大久保利通(一蔵)に実行を命じる。(薩土盟約の解消

  • 10月3日(10/29) 土佐藩主・山内豊範、大政奉還の建白書を徳川慶喜に提出。

  • 10月6日(11/2) 薩摩の大久保長州の品川弥二郎が、岩倉具視に幕府との戦に備えて錦旗の偽造製作を指示。

品川弥二郎(1843-1900)
長州藩の足軽の息子として生まれる。吉田松陰門下生。高杉晋作と共に英国公使館焼き討ちなど攘夷テロを繰り返す。禁門の変では八幡隊長として参戦。佐久間象山暗殺にも、最終実行犯ではないものの、京都で戦の準備をしていた過激攘夷派グループの一人として関与。後日、佐久間象山暗殺時のことを回想し、 「象山を殺したという知らせが我々のいる天王山へ届いたときは、一同「斬奸!斬奸!愉快!愉快!」と絶叫したが、今から思うと大変なことをしでかしたものだ(現代語訳)」と述べている(『品川弥二郎談話筆記』東京大学史料編纂所データベース) 戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀。明治になって英独に6年留学し、明治政府では宮内省御料局長、枢密顧問官、内務大臣などを歴任。明治25(1892)年の第2回衆議院議員総選挙において、内務次官の白根専一と共に、地方の有力知事や警察を動かして大規模な選挙干渉を行い、民権派各党を妨害、死者25名を出したことで引責辞任。以後、西郷従道と共に政治団体・国民協会を組織。 明治33(1900)年、満56歳で病没。

凡太: 倒幕の準備がどんどん進められていますね。板垣さんがそこまで過激な動きをしていたことは知りませんでした。

イシ:  暗殺しようとした暴漢に向かって「板垣死すとも自由は死せず」という名言を吐いたとか、私たちの世代では100円札の肖像画でもお馴染みの人だからね。幕末に西郷にも劣らぬほどの過激派だったという事実は伏せられがちなのかな。

 ともかく、孝明天皇がいなくなって、いろんなことが一気に動き出した感じだね。
 教科書では「頑固な攘夷論者であるが公武合体論者でもあった孝明天皇が急死し、幕府は政治的に大きな打撃を受けた」(山川出版社 新日本史B 229ページ)とあるけれど、孝明天皇という障壁がなくなったことで、慶喜が一旦は気合いを入れ直して、徳川をトップにした新体制を作ろうとしたようにも思える。
 諸外国の公使と次々に会見したときは、いよいよこれから本格的に開国して新体制を作るという思いだったんじゃないかな。慶喜に直接会った諸外国の公使や側近たちが書き残している慶喜評も概ね良好なものだ。
 ただ、内政をまとめあげるという点ではやり方が下手すぎた。四侯会議を見下したような振る舞いで、あっという間に機能不全にし、久光を倒幕に転向させてしまうし、幕臣たちへの対応もその場しのぎの無責任な態度が目立った。薩長が手を組んだことや、イギリスの動向もしっかり掴んでいなかったんだろうね。
 その間、薩摩の西郷と大久保が中心になって、過激派公卿らと共に、一気に倒幕に突き進んでいた。
 それを知っていた土佐は、慶喜に、薩長との武力衝突を避けるために政権を朝廷に返上(大政奉還)することを進言し、慶喜がこれを受け入れた。
 しかし、同じ日に、朝廷からは薩摩と長州に「討幕の密勅」が出された。

  • 10月14日(11/9) 徳川慶喜、政権返上を明治天皇に上奏(大政奉還)。

  • 10月14日(11/9) 岩倉具視中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之と画策して「討幕の密勅」を薩摩藩と長州藩に下す。


イシ: いわゆる「討幕の密勅」というものは、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之の3名の署名により、薩摩と長州に出されたもので、内容はこうだ。

みことのり(命令)を下す。
源慶喜(徳川慶喜)は、歴代将軍の権威と強大な武力という威を借り、善良な人々を殺傷してきた。ついには先帝(孝明天皇)の命令を無視し、人々を苦しませて反省もしないという神をも畏れぬ悪行を重ねた。このままでは日本は滅びる。
今こそ民の父母である私(明治天皇)がこの賊を討つことで、先帝の霊に謝罪し、人民の深い恨みに報いなければならない。私のこの憤りを察して、おまえたちは賊臣慶喜を殺し、時世を一気に転回させて人々の平穏を取り戻せ。これは私のたっての願いであるから、一切の迷いを捨ててこの命令を実行せよ。(現代語意訳)

凡太: これは明治天皇が出したものなんですか?

イシ: そんなわけはない。天皇はこのときまだ満15歳だ。天皇が若年のときは摂政が補佐をするという摂政制度がまだ廃止されていなかったときで、このときの摂政は孝明天皇の信任が厚く、関白を務めた佐幕派の二条斉敬なりゆきだが、二条の署名もない。
 正式な勅許は、草案の年月日の横に天皇が直接「可」の字を記入する「御画可」や、天皇御璽(印鑑)が必要だが、それもない。堂々たる偽物、いわゆる偽勅だ。

討幕の密勅。御画可、御璽がなく、太政官の主要構成員の署名もない、明らかな偽勅。

 筆跡を鑑定すると、岩倉具視の秘書・玉松操と正親町三条実愛、御門経之のものだとされている。そこから、この討幕の密勅は岩倉具視が主導して中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之らと共謀して急遽作成したと推定できる。
 岩倉は過激派公卿とはいえ、当初は公武合体論だったはずなんだが、ここにきて一気に武力倒幕に突き進み、持ち前の悪知恵を大胆に発揮するんだね。偽の「錦の御旗」作りも行っている。
 言ってみれば、大久保や岩倉はこのとき偽天皇になったんだな。

凡太: 徳川慶喜さんがあっさりと政権を朝廷に返すと決めたのはなぜですか?

イシ: 土佐を通じて、薩長と倒幕派公卿が、若い明治天皇を操って討幕の密勅を出そうとしているという情報が入ったからじゃないかな。そんなことをされたら大変なことになるから、先手を打って大政奉還してしまえば、倒すべき幕府がなくなるわけだから密勅も意味をなさないだろうと。
 しかし、討幕派は強引だった。偽勅は作るし、偽の錦の御旗も発注済み。慶喜と討幕一派の1分1秒を争うような駆け引きがあったんだね。

 慶喜が大政奉還を決断したことについて、坂本龍馬は「よくぞ決断された。かくなる上は私も命がけであたる」と語り(渋沢栄一『徳川慶喜公伝』)、英国公使パークスは「今や日本人は国の憲法の一大変革──国家組織をすっかり改める革命ともいうべきものを、平和的方法で成し遂げようとしているように見える。もしこれが成就したら、日本人は高く賞賛されねばならぬ。大君は、権力を犠牲にして、見事な模範を示した。諸大名もその列にならわねばならぬであろう。その場合には、強力な中央政府が生まれて日本全国を管轄し、諸大名に正当な権利を譲渡すると同時に、彼らを統制できるようになってもらいたいものである」(高梨健吉・訳『パークス伝』平凡社 より)と述べている。
 百戦錬磨の強硬派パークスとしても、このまま内戦が起きずに日本の政体が移行するなら何よりだと、一瞬ホッとした様子が窺えるね。

 大政奉還を受けた朝廷は、薩長に倒幕延期の沙汰書を下した。

凡太: ぎりぎりのところでうまく進んだんですね。

イシ: ところがねえ……薩摩の西郷は簡単には引かない。そのまま終わったら、武力倒幕を叫び続けていた自分の首が飛ぶからね。幕府を挑発して戦争に持ち込む作戦に出る。
 西郷は、土佐の板垣(乾)退助が藩主に無断で江戸築地の土佐藩邸に匿っていた過激尊攘派の相楽総三(後の赤報隊隊長)、中村勇吉(元天狗党)らを引き取る形で江戸の薩摩藩邸に置いて、薩摩藩士の益満休之助ますみつ きゅうのすけ伊牟田尚平いむだ しょうへいらと共に、江戸市中で商家などの放火、掠奪、暴行などを執拗に繰り返させた。つまり、西郷は幕府を挑発するために、一般の江戸市民相手に辻斬り、強盗、放火、強姦など、大々的な無差別テロ活動を展開させたんだ。江戸城にも3度放火して、なんとか幕府側に武力行使をさせようと仕掛けた。
 テロや武力蜂起は江戸だけに留まらず、関東一円に及んだ。取り締まる江戸警護担当の庄内藩や新徴組らが迫ると、ササッと薩摩藩邸に逃げ込む。人々は彼らテロリストを「薩摩御用盗」と呼んで震え上がった。

凡太: 一般市民を相手に……許せないですね。

イシ: そう。私はこの件だけでも、西郷という人間を絶対に許容することはできないよ。テロの中でももっとも卑劣なやり方だ。歴史上の「偉人」などという扱いは論外だ。
 ちなみにこのテロ活動の中心にいた薩摩の益満と伊牟田は、ヒュースケン殺害テロの実行犯でもある。西郷はもちろんそのことを知っていて、彼らの暴力性を利用したんだ。

 幕府側はこうしたテロが薩摩の挑発だと分かっているから、なんとか実行犯を捕縛して収束させようとするんだが、最後は薩摩藩邸に逃げ込んでしまうのでなかなか捕らえられない。薩摩が放ったテロリストたちはそれをいいことにどんどんエスカレートする。取り締まる新徴組や庄内藩の詰め所に鉄砲を撃ち込んで、被害者も出る。そんなことが続いて、ついに警護担当の庄内藩は我慢しきれず、薩摩藩邸に犯人引き渡しを迫る。
 このときはすでに、引き渡しを拒絶することは明白なので、その場合は討ち入って捕らえるという前提で、庄内藩だけでなく、上山藩、鯖江藩、岩槻藩、出羽松山藩(庄内藩の支藩)も参加して総勢1000人近くが薩摩藩邸を取り囲んだ。
 ただ、薩摩側が完全に逃げ場を失うと何をしでかすか分からないと考え、わざと西門付近だけは開けておいた。
 薩摩は想定通り犯人たちの引き渡しを拒絶し、江戸警護の諸藩兵との戦闘が開始され、薩摩藩邸は焼失。
 記録によれば、この戦闘での死者は、薩摩藩邸側が64人、江戸警護側は上山藩9人、庄内藩2人の計11人、捕縛された浪士たちは112人だったそうだ。薩摩藩邸内にいた浪士はおよそ200人だったそうだから、一部は逃げおおせた。相楽総三もその逃亡成功組に入っている。

 このあたりから慶喜は急速にやる気を失っていった感じだね。

  • 10月24日(11/19) 徳川慶喜、征夷大将軍辞職を申し出るが、朝廷が認可せず。

  • 11月15日(12/10) 坂本龍馬、中岡慎太郎が京都・近江屋で暗殺される。

  • 11月18日(12/13) 長州藩世子・毛利広封が薩摩藩主・島津茂久、西郷と武力討幕の挙兵を決める。

  • 11月22日(12/17) 長州の木戸孝允、品川弥二郎宛て書簡に「甘くうまぎょくを我方へ抱き奉り候御儀、千載の大事」と書く。



凡太: 「玉」というのは天皇のことですか?

イシ: そう。まだ子供の明治天皇を自分たちのほうに抱き込むことが何より重要だ」と言っているんだね。尊皇も勤王もない。天皇を利用することだけを考えているわけだ。

  • 12月9日(1868/1/3) 岩倉具視、薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の五藩に「王政復古」への協力を求める。朝廷は長州の藩主父子(毛利敬親・定広)の官位復旧と入京許可、岩倉具視、三条実美ら追放されていた公卿の赦免を決定。

  • 12月9日(1/3) 薩摩・土佐・安芸・尾張・越前の五藩の兵が御所を固め、摂政・二条斉敬や朝彦親王ら佐幕派公卿を参内禁止。岩倉具視らが参内し、「王政復古の大号令」を発す。



凡太: 王政復古、というのは、具体的には政権を天皇に返す、ということですよね? それって、大政奉還で終わっていたんじゃないんですか?

イシ: いい質問だね。
 学校の授業では、大政奉還の後に王政復古の大号令があって、徳川政権は消滅したように教えられるかもしれないけれど、それはちょっと違う。はっきり言えば「王政復古の大号令」なるクーデターは失敗したんだ。

凡太: え? どういうことですか?

イシ: まず、慶喜が行った「大政奉還」は、まだ少年の天皇を利用して幕府を潰そうとしている薩長の計画を潰すための作戦で、名目上、朝廷に政権を返上するとはいっても、朝廷に政治能力はまったくないから、実質的には徳川が主導する体制は続くと踏んでいたし、実際に諸藩の間でもそういう空気ができあがっていた。慶喜に大政奉還という奥の手を進言した土佐の山内容堂などもそのつもりだった。

大政奉還後の政局は、武力による政体変革をめざす薩長両藩の武力討幕派と平和的な政体変革をめざす土佐藩などの公議政体派が対抗しあった。武力討幕派は政局の主導権を握るため、薩長両藩兵を動員して1867(慶應3)年12月9日に政変を決行し、王政復古の大号令を発した
(山川出版社 新日本史B 231ページ)


 ……と、教科書にもこう書いてある。
「政変を決行し」とあるけれど、分かりやすく言えば、つまり、武力を背景に京都から徳川の勢力を一掃し、討幕派のための政権を打ち立てるというクーデターだね。


 大政奉還によって討幕の密勅の正当性を失った西郷ら討幕派は、慶喜がそれ以上動く前に、急いで天皇を担ぎ上げた政治体制を作る必要があったんだ。
 そこで、慶喜の将軍職辞職、江戸幕府の廃止、京都守護職・京都所司代の廃止、摂政・関白の廃止、代わりに総裁・議定・参与の三職を新たに設置、という内容。もちろん天皇は関与してなくて、岩倉らが好き勝手にやっていることは言うまでもない。
 総裁には親長州派で孝明天皇から嫌われた有栖川宮熾仁ありすがわのみやたるひと親王が就任。
 議定に松平春嶽、山内容堂、島津茂久、徳川慶勝(尾張藩)、中山忠能、正親町三条実愛ら10名(公卿5名、薩摩・尾張・芸州・越前・土佐の諸藩から1名ずつ)。
 参与には岩倉具視、後藤象二郎、福岡孝弟、西郷隆盛、大久保利通、中根雪江など20名(公卿5名、薩摩・尾張・芸州・越前・土佐の諸藩から3名ずつ)が就任した。

 その日のうちに御所内の小御所で明治天皇も臨席で三職会議が開かれた(小御所会議)。

 しかし、この会議がなかなかまとまらなかった。
 慶喜に進言した大政奉還が受け入れられた山内容堂らは、慶喜不在の会議は意味をなさないので慶喜を出席させるべきだと強く主張。しかし、岩倉らは慶喜を排除するのが目的だから、慶喜の官位を剥奪し、徳川家の所有地をすべて朝廷に返すこと(辞官納地)を主張。岩倉らが押され気味のまま、一旦中断され、休憩に入った。
 このとき西郷は小御所の外で警護にあたっていたんだけれど、会議の紛糾が伝えられると「ただ、ひと匕首あいくち(=短刀)あるのみ」と答えた。つまり、反対する者は殺してしまえ、というわけだ。

凡太: この時期の西郷って、どこまでもテロ思考なんですね。そういう人だったんだ。

イシ: とんでもない輩だよ。
 で、西郷のその言葉が口づてに容堂の耳にも入り、容堂は命の危険を感じて、再開された会議では沈黙。劣勢だった岩倉が主導権を握り、慶喜の辞官納地が決まってしまった。最後に春嶽が粘って、徳川の所有地返納はすべてではなく半分の200万石になったものの、岩倉らの主張が通ったことで、以後、容堂や春嶽はすっかりおとなしくなり、薩長と岩倉らが主導する政権が成立する流れができたかに思われた。

  • 12月10日(1868/1/4) 長州軍の本隊が京都に入る。

  • 12月10日(1/4) 慶喜は自分の呼称を今後は「上様」とすると表明。

  • 12月12日(1/6) 徳川慶喜、二条城を退去。翌日、大坂城に入る。


凡太: 慶喜が京都から追い出されて、これでクーデター成功ですか。

イシ: いや、そうスンナリとはいかなかった。
 京都にいた諸藩は薩摩・西郷の強引な姿勢に反発し、12日には肥後藩・筑前藩・阿波藩などが、薩摩軍を御所から引揚げるよう要求。薩摩藩内部からも大久保・西郷の強硬路線に反発の声が上がった。
 松平春嶽は「なにもかも、薩摩の大久保、西郷、岩下佐次右衛門ら奸士が悪い。かくなる上は土佐・安芸・尾張・越前藩が尽力して、早くまともな議会にしたい」と、松平茂昭宛の書簡に書いている。

  • 12月13日(1/7) 岩倉・西郷らが、諸藩の反発を抑えるため、慶喜が辞官納地に応じれば、慶喜を議定に任命し、「前内大臣」としての待遇を認めるとする妥協案を出す。

  • 12月14日(1/8) 議定の一人・仁和寺宮嘉彰親王が、岩倉、西郷、大久保ら身分が低い者の強硬意見を抑えるようにという意見書を提出。

  • 12月16日(1/10) 慶喜が大坂城に、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ・イタリア・プロシアの6カ国公使を呼び、「政権が正式に定まるまでは、自分が諸外国との条約を守るので、内政には干渉しないでくれ」と表明。6か国もそれを承諾。

  • 12月19日(1/13) 大久保利通がアーネスト・サトウらと協議し、新政権からの諸外国への通達詔書案を作成。しかし、春嶽、容堂らは、小御所会議は数藩の代表しか集まっていない非公式会議で「列藩会議」とはいえないとして反発。

  • 12月19日(1/13) 慶喜、総裁・有栖川宮に「公明正大な議論を尽くして正義を貫き、奸の者たちを排除せよ。そうでないなら王政復古の大号令を取消すべきと要求。

  • 12月22日(1/19) 朝廷は「内大臣・慶喜は国内の形勢を察して大政奉還するにあたり、私利私欲を入れず、広く天下の公儀をとって、徳川祖先が行ってきた政治のよいところはそのまま生かしていけばよい。これは天皇のご意志でもあるので、諸藩はそのことをしっかり心にとめた上で、忌憚なき意見を述べ、日本国がこの地球上で傑出した国になるよう努力せよ(現代語意訳)」といった内容の告諭を出す。

  • 12月24日(1/21) さらに、徳川家の納地は「政府之御用途」のため供するという表現になって、慶喜への処分という意味合いは消された。返納する土地の規模も諸侯会議で議論して改めて決める、とした。


凡太: 揉めに揉めたんですね。この場面でも、慶喜はあくまでも話し合いで新体制を作ろうとしているように思えます。

イシ: その通りだね。もともと慶喜は尊皇思想で、あれだけ頑固に攘夷を訴えた孝明天皇に対しても、なんとか説得して勅許を得ようとしていたからね。
 しかし、西郷や大久保らはそうした平和路線は絶対に許せない。なにがなんでも武力倒幕を決行したいから、慶喜が留守にしている江戸でのテロ活動をエスカレートさせ続けていた。
 そしてついに、

  • 12月25日(1/22) 江戸市中での薩摩藩による度重なるテロ活動に対し、庄内藩を中心とした江戸警護担当部隊が薩摩藩江戸藩邸を取り囲み、テロ犯引き渡しを要求。決裂して討ち入りに。

  • 12月28日(1/25) 徳川慶喜が辞官納地を承認。朝廷は慶喜を議定に任じることを決定し、大坂城にいた慶喜に上洛を命じる。


凡太: ここでも慶喜は徹底して朝廷を立てた形の話し合いで新政権を作ろうとしているのに対して、薩摩の西郷や大久保がなんとしてでも平和的移行はさせない、武力で幕府を潰すんだ、という抗争が続いているんですね。

イシ: というか、幕府というのは大政奉還の時点ですでに存在していないといえるね。慶喜は幕府の専制体制をやめて、連合政権の一員として加わると表明しているわけだから。
 ちなみに私は「薩摩藩邸焼き討ち事件」という呼び方にも違和感を覚えている。せめて「討ち入り」だろう? 罠を仕掛けたのは薩摩藩なんだから。

 で、大坂城に薩摩藩邸討ち入り経緯が伝わると、幕府の中でも「薩摩討つべし」の声が上がる。薩摩藩の穏健派も、藩邸が幕府によって焼き討ちされたという知らせだけを聞かされ、やはり幕府とは戦うしかないと、西郷の下に結集する。
 これは西郷にとっては思うつぼだね。西郷は隆盛が土佐藩・谷干城へ薩・長・芸の三藩へはすでに討幕の勅命が下ったと伝え、薩土討幕の密約に基づき、板垣退助を大将として国元の土佐藩兵を京都に向かわせ、参戦することを促した。

 こうして、本来まったく必要のない戊辰戦争というものが始まってしまうことになる。

 さすがに長くなったので、ここから先の惨劇、悲劇については、回を改めよう。


※「馬鹿が作った日本史」(仮)として書籍化を考えています。出版関係者からのご連絡をお待ちしています。(たくき)



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