【俳句】春の句をよむ
だんだんと暖かくなり、春を実感できる日が増えてきました。花は咲き、草々は芽吹き、虫を目にすることも多々あります。雨が降れば山々は潤い、盆地では田畑の準備が着々と進んでいます。
万葉集の”石ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも”と詠まれたように、山滴る時へむかう躍動感ある季節です。
本稿では、春の句をいくつか紹介し、私なりの感想を述べたいと思います。解釈が本筋から外れていることもあるかもしれません。ご参考程度にお読みくだされば幸いです。
周囲を見渡すと、どこも記憶にある景色です。変わったものもあれば、変わらないものもあるでしょうか。
葱の先、玉のような花は、親しみをこめて”葱坊主”と呼ばれています。句の一般的な読解としては、葱坊主の直後で切れているのですが、いろんな方向にかたむく葱坊主をみていると、どこをふり向いても故郷である、と作者の思いに通じ合っているようです。
木々は芽吹き、その生命力あふれる空間をぬける風。燈台の白さが強調されるようです。実際は、燈台がパタパタと”はためく”ことはないのですが、木々、新緑、風、海、太陽が、そのようにみせているのでしょうか。
色鮮やかで爽やかな一句です。
春の日にすかしながら選ぶ手漉和紙はどれも美しい。繊細な和紙が、やさしい春の光に包まれています。手漉和紙の真の価値は、人口的な光ではなく春の日でなければ、と思えてきます。
和紙を選んでいる人の顔姿もみえてくるようです。
季語が”春光”と”茶”のふたつありますが、本句ではどちらも必要という印象です。一面に広がる茶畑の淡い黄緑。鮮烈な夏の茶畑とは違う優しい情趣”さゞなみのごと”なのでしょう。
捨てられたもの、朽ち行くものに美を見出す感性です。冬の冷たい雨ではなく、春の雨であることが作者の優しさでしょうか。春の雨が打ち捨てられた鍬をゆっくりと潤していきます。
げんげ(レンゲソウ)の咲き誇る野原を、馬と共に歩みます。悲しくも、馬市の競りにかけられる運命なのです。
げんげ野を進む足取りに”ふたり”の思い出が立ち上がるようです。