【短歌】誠の言の葉と詩情
詩を論ずるは神を論ずるに等しく危険である。持論はみんなドグマである。(西脇順三郎著『超現実主義持論』より)
事件的真実と「詩」とは本来別次元のものである。「詩」はいつでも純粋に、個々の要素に従って真実でなくてはならない。
(秋葉四郎著『完本 歌人佐藤佐太郎』より)
本稿は、歌人の佐藤佐太郎氏に師事した文学博士・歌人、秋葉四郎氏の論考(戦時下の光と影―第三歌集『しろたへ』論)をもとに、短歌を一流から二流、三流へと落としてしまう一要因を私なりに述べたものである。秋葉四郎氏の論考の上書きであるため、それらの紹介程度の内容と見做してお読みくだされば幸いである。
また、冒頭の西脇順三郎氏の言葉より、詩(短歌)の良し悪しを論じることは独善的な行為であるかもしれない。ただし、他を批難する意図がなく、詩の探究を目的とするものであれば、それなりの意義はあるのではないかと考えている。そして、浅学非才の私の論じる内容が、短歌の全てではない点をお含みおき願いたい。
短歌に感銘し、歌を詠みたい(つくりたい)と、歌人を志したとき、誰しも、とある疑問が湧いてくるのではないか。それは、実体験ではない知識から創作した歌は、果たして「真実」なのか否かである。誰しも、仕事や家庭はあり、そうそう出掛けてもいられない。実体験をもとに歌を詠むことは理想である。日常の些事を拾い上げて詩に昇華させられるか否かは誠に重要だが、言うは易く行うは難しである。それは、ミニマリズムやライトヴァースと呼ばれる専門用語が生まれるほどに確立した一様式である。
文学や歴史、時事に詳しいほど、知識から歌を詠むことは可能である。その歌に、ご丁寧に「知識からの創作です」とは書かないのだから、構わないのではないか。しかし、何やら気持ちの悪い思いがする。小説は完全なる自由な世界であるが、短詩型文学の世界で同じことをすると、どうもいけないことをしている心持ちさえするのである。
したがって、常にアンテナを張り巡らせ、詩の種を探し、自己の感性と技術で表現する。演出は少々、完全なる創作は戒める。私はそのような考え方で歌と向き合っている。しかし、それが正しいかどうかはわからない。次に述べる内容から、皆様はどのように考えるだろうか。
佐藤佐太郎氏の歌を第三歌集『しろたへ』より引用する。いずれも、太平洋戦争下に詠まれた歌である。
(一)遁れむとせし敵艦をまたたくま爆撃したりこの浄き火よ
(二)デエゴスワレズに敵を撃ちたり海軍の無辺勝利のつらなりにして
(三)絶待の犠牲をたたえいふ声にかなしみきこゆ殷々として
それぞれの歌の「違い」は何だろうか。一首目の大意は、隠れようとしている敵艦を瞬く間に爆撃し、撃沈させたこの浄化の火よ、といったところである。立ち上がる景は、鮮烈だ。爆撃音が衝撃波として伝わり、黒煙と燃え盛る炎が天を焦がすかの如くである。この劇的な短歌をプロの歌人はどのようにみるのだろうか。
「海戦」の中の一首は、戦いの歌の持つ非詩性を多く思わせる。この歌では「またたくま爆撃したり」が見るべきを見、表現が鮮やかなところである。しかし、この歌は映画などによる間接体験である。「またたくま爆撃したり」は真実の描写であるかどうか。そこに映画製作者の意図がすでに介在してしまっているのではないだろうか。もし臨場して歌えばそこには大変な攻防があった筈である。即ち「またたくま爆撃したり」には贔屓目、思い入れがすでにある。そして「浄き火よ」も確かに映像はそんな感じを与えただろうし、時代の人々に共感をもたれるニュアンスが具備していただろう。しかし、実相を捉えた表現とは言い難い。むしろ美化しようとする意図が出てしまっている。
(秋葉四郎著『完本 歌人佐藤佐太郎』より)
私は大いに同感する。特に「浄き火よ」は、戦争美化の意思を強く感じる。「聖戦」に近い感覚である。当時の社会の雰囲気において、反戦を訴えることは難しかったに違いなく、忖度ある演出をせざるを得なかったのだろう。歌壇の先頭を走る氏は、戦争からの影響を避けることはできなかったのである。
二首目の大意は、南洋のデエゴスワレズ(地名)において敵艦を撃沈させた、我が日本国海軍は無辺勝利の連続である、といったところだろうか。秋葉四郎氏は「無辺勝利」の言葉は造語であり、先の歌同様に、戦争美化の意図がみえると鑑賞している。「無辺」は”果てしない”に近い意味である。勝利を過度に装飾しているようで、当時の日本海軍の威勢に通じているとさえ思えてくる。
ただし、以上の装飾、演出が決して悪いわけではない。主情的である分、読者の心をゆさぶるエネルギーは高く、戦の不安を払拭し、鼓舞する働きは感じられる。しかし同時に、「冷静」な読者にとっては冷ややかに映るだろう(息まいてる、格好をつけていると興ざめしてしまうだろうか)。時代を越えて普遍性を備えているかどうかは疑問である。いずれにしても、短歌の世界において、過度な演出は、詩情から遠ざかる可能性が高いと私は考えている。
佐藤佐太郎は生前『しろたへ』にこだわり「具合の悪い歌がある」と何度か語っている。(中略)その「具合の悪い歌」は『しろたへ』の戦いの歌の全てを指しているのではない。「写生」から逸脱し、「純粋」から遠ざかり、二流となった作品について自ら反省して言ったのであったろう。(秋葉四郎著『完本 歌人佐藤佐太郎』より)
最後に三首目をみてゆく。本歌は前掲歌二首と異なり、過度な装飾のない歌である。心を種とした誠の言の葉といって良いだろう。
再掲
(三)絶待の犠牲をたたえいふ声にかなしみきこゆ殷々(いんいん)として
歌の大意は次の通りである。他と類することのできない程の(絶対的な)犠牲を褒め称える声々に悲しみが聞こえる。殷々として(大きな音が鳴り響くように)。本歌も「絶待」「殷々」と、主観の強さにおいては同様であるが、戦争を経験した一市民の魂の慟哭が胸に迫ってくる。命の絶待なる犠牲は、戦勝国、敗戦国の次元を超えて、悲しみの声を轟かせているのである。英霊として讃えつつも、決して美化することのできない犠牲である。市井の人、遺族にとっては英雄的な歴史ではなく、只々悲しみに暮れる現実である。そこに、戦争美化の意図はないだろう。また、「短歌らしさ」のみに囚われ、徒に装飾する本心の偽りも感じられない。「写生」「純粋」を遍く立ち上げる名歌であるといえるだろう。
一首一首の歌にこもる思いは、時代の空気を反映しつつも、悲しい挽歌である。「讃歌」は不穏当な用語ともいえるが、この一連の底を流れている心情は、非常時下にあって「絶待の犠牲」に甘んじた、若き兵士らへの悼歌であり、慟哭である。古往今来に二度とあってはならない体験者の声である。(秋葉四郎著『完本 歌人佐藤佐太郎』より)
以上、佐藤佐太郎短歌より、短歌の一側面を紹介した。偉大な歌人の「具合の悪い歌」を題材に述べてきたことは、心苦しい限りであるが、氏自身のあえて遺した勇気(歌人の一分)に心より感謝を申し上げたい。
最後に、『しろたへ』における氏の名歌を一部紹介する。選が私個人の独断と偏見である点はご容赦願いたい。
静かなるしろき光は中空の月より来るあふぎて立てば 佐藤佐太郎
青波は日に澄みとほる束の間をとどめし得ねばまなく乱るる 同
しろたへの砂みえそむる暁に靄うごかして海中の波 同
榛の木のしたに影する山葵田はつめたき山の水がやしなふ 同
みたまらの終のいのちは水のうへ浅夜の月の清きころほひ 同
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?