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母とは違う道を行く。

 私は母を否定しません。
 でも私は母とは違う生き方を作っていきたいと思っています。

 私は私で母では無いから、それでいいと思っています。

 私は自分を縛ってきたものから、放たれたいと思って頑張ってきました。
 これからも多分同じだと思います。

 周りの人がわかってくれてもくれなくても、私はその道を歩くことに決めています。

 私が歩いているうちに、わかってくれる人が現れてくれば良いのだから最初から理解者を求めようとは思いません。

 私が歩いて行くうちに、私の道のようなものができて、その道を理解してくれる人が現れれば良いそう思っています。

 いろんな人がいろんなようにいろんなことを考えて、いろいろに受け止めて、生きているのだと思います、
 私もその中の1人です。
 それはきっとみんな同じです。
 だからわかり合うことができたり助け合うことができるんだと思います。
 そのことをプラスに活用することができれば、たくさんの人の努力が良い形で報われて、さらにたくさんの人たちが助かっていくはずです。

 だから私は自分の信じた道をあきらめないで歩いていこうと思っています。

 でも実際に歩いてみると、その道のりはとても厳しく苦しいことの連続です。
 だけど不思議なことに、その道のりが苦しければ苦しいほど、私は更にその道をひたむきに歩かなくてはいけないと思ってしまうのです。

 それがどうしてなのかなんて自分にもわかりません。
 私のもともとの性格がそうさせているのか、状況に対する私なりの生きていくための努力なのか、それとももっと違う意味があるのか、もっともっと別の意味があるのか、なんだかよくわからないまま私はその道を歩き続けています。

 予定調和の中に新しいものは見つけることが難しいような気がします。

 ただひたむきに歩いている間に知らないうちに出会ったり見つかったりするような気がだんだんしてきました。

 今私が働いている場所も思いがけない偶然が重なって見つかりました。

 初めはとても難しくできなかったことがだんだん自然にできるようになってきて、周りのことも私なりに見えてきて、そのことで絶望したりそのことで今まで不思議だと思っていたことがどうしてなのかがわかったり、生きていく上で必要なことを学んでいる途中のような気がしています。

 いくつになっても勉強。
 102歳で亡くなった。私の祖母は生きている間、ずっと何かを学んだり行動したりし続けていました。

 彼女は私にとってとても大きな指針です。

 幼い頃、私は彼女が嫌いでした。
 私が生まれて3歳まで育った家の人たちは彼女とは考え方が全く違っていました。

 どちらがいいのか悪いのか、私にはわかりません。

 でも今は彼女が決めて歩いた道が間違っていなかったことを強く感じています。

 祖母と母は親子でしたが、考え方はかなり違っていました。
 だから私が自分の母と全然考え方が違っていて、違う生き方を選んでも当たり前だと思っています。
 
 親子でも別々の個人なのだから、考えていることも行動も違って当たり前です。

 私は母とは違う考え方で全然別の生き方を選び続けてきました。
 それは多分これからもずっと同じだと思います。

 そういう中でとても苦しんだことがあったので、自分の子供には同じ思いをさせたくなくて、自分から自由にさせてあげたいと最初から思っていました。

 そのために長い間コツコツと時間をかけてお金を貯めて、子供に少しでも自由な人生を歩んでもらえるように努力してきました。

 そして今、私は自分が働いて自活しながら夢を叶えて新しい生活を作って、子供とは別に独立した自分になっていく努力を続けています。

 最初からそうしたかったわけでは無いけれど、戻ることができないのなら前に進んでいくしかないではありませんか。

 そしてその進んだ先が自分にとっても周りにとっても素敵なものであったなら、今の苦しみが良い形で壊れていくきっかけになると考えて、前向きでいようと思っています。

 今まで何回もどうしようもない理由で自分が頑張ってきたことが報われないまま終わってしまったことがありました。

 その時にどうしようもなく、動けなくなってしまったこともたくさんあります。

 そんな時、実家の庭に植えられていた椿の木に真っ赤な花が咲いているのを見て、私は自分がその時の今を生きていないと言うことを言葉ではなくはっきりと自覚したことがあり、その経験が私をその後別の行動につなげてくれて、今があるのではないかと考えることがあります。

 濃い緑の葉が茂る中に咲いたばかりの真っ赤な花がくっきりと浮かんでいました。

 私はその光景をずっと忘れていましたが最近YouTubeで聞いた椿の花が出てくる歌に触発されて思い出すことができました。

 その花を私が見たとき、もう一度生き直したいと思ったのは予定調和の中にはなかったことだと思います。

 その後の道よりも、自分では思いをしないようなこの連続で、それまでの自分には想像できないものでした。

 その中でいろいろな出来事や人に出会い、いろいろなことがあり、私は変わり続けてきました。

 それはこれからもずっと同じことでしょう。

 そうして状況がどんどん変わっていく中で、私はその時々をどんなふうに思うのか感じるのか、それはもう本当にその時にならないとわからないはずです。

 だからこそ生きていることは面白いし価値があるような気がしています。
 生きてることって、行動することって、何かに向かっていくことってとにかく面白いです。

 苦しくても、辛くても、生きていることは楽しいです。

 それは自分以外の人が自分をどう思うかということよりも、自分が何をどう感じてどう思ってどう行動するかに自分の心が向いているからだと思います。

 だからいつでも何か自分にとってしあわせだと思えることを見つけてしまうんだと思います。

 私がしあわせだと思っていることを不幸だと感じる人もいれば、最悪だと思う人もいるはずです。

 それはみんな一人一人感じ方も受け止め方も違うから。
 そのことがその人の尊厳の大きな元になっているのであれば、他の人がそのことに口出しはできません。

 だから自分次第。
 自分がどう感じて受け止めてどう行動するか、そのことで何もかもが変わってしまうはずです。

 だから私はできる限り、いろいろなことを前向きに受け止めて、いつでも何か自分のことをしあわせだと感じ続けていたいのです。

 しあわせも不幸も突き詰めてみればその人の思い込みです。

 だから良いように思い込んだ方がいいと思って、私はそうしているし、自分を不幸だと思い込む方が良いと思っている人がいることもわかって、それに対して何かを言うと言う気持ちは特にないです。

 それはその人の問題で、私にはどうすることもできないからです。

 私は母と違う道を違う気持ちで歩いて行こうと思っています。

 それでいいんだと思っています。

 
 


 


 

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竹原なつ美
ありがとうございます。 嬉しいです。 みなさまにもいいことがたくさんたくさんありますように。