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今年の最後にダラダラ書いてみた、たのしについて。

 noteで、自分の事ってあまり書いたことがないので、特に何も考えず、これまでの自分をダラダラと書いて行こうと思います。多分、飛び飛びになったりする可能性があります。なので、たのしはこんな人なんだなっと、テレビのCMの間にでも読んでやって下さい。
 たのしってペンネームなのですが、自分は小さな頃から楽しい事が大好き少年でした。人を笑わせるのが好きで、授業中もふざけていたので、通知表には毎回の様に「落ち着きがない」って書かれてました。
 そんな自分の生い立ちですが、九州の超田舎で、住民より鶏の数が多いそんな村に住んでいました。小学校は全校生徒が15人の小さな学校に入学し、1.2年生が1つの教室で学んで皆兄弟の様に暮らしていました。
 その後、両親の仕事の都合で、都会に引っ越します。もちろん、小学校もマンモス校です。ビクビクしました。同じ歳の子に囲まれるのが初めてだったからです。沢山の女の子に囲まれるのも初めてです。村にはほぼおばあちゃんだからです。
 でも、すぐに馴染めました。流石自分!凄いぞって時々思い出しては過去の自分を褒めてやってます。
 そのまま、すくすくと成長し、高校を卒業して、大学に入ります。ここまでは、ただ楽しさを追い求めて、何不自由なく過ごせました。大体の事は笑って過ごせていたと思います。
 しかし、大学に入り、すぐ、父が亡くなりました。突然の事でした。助走がない悲しみは初めは逆に笑えました。現実的じゃないからです。嘘つけよってなりました。朝、元気に行って来ますをしたのにその日の夕方には亡くなってたからです。そして、1個1個現実を知ります。そして、自分は少し壊れました。
 そんな自分に更に現実が突きつけられました。働かなくてはならなくなったからです。そして大学を辞めて造船所の営業職で働き始めました。
 父の49日がくる前には働き始めていて、心が回復する間もなく、仕事場で罵声を毎日の様に食らってました。
 でも、かあさんとばあちゃんと姉と友達に凄く支えられました。仕事で疲れて帰ると誰かしら友達が自分の部屋にいて、愚痴を聞いてくれました。ばあちゃんは頭をなでてくれて、かあさんと姉は自分より仕事を頑張ってくれました。
 周りに凄く支えられました。
 弱い自分ってのに、初めて触れた瞬間でした。
 そして、悲しみが心に溶け込んだ頃には仕事にもなれ、だんだん後輩を指導できる様になります。少しづつやりがいが見えて来ました。
 でも、会社が倒産します。25歳くらいだったでしょうか。
 えー?ってなりました。聞いた時は笑えましたね!若いってのがあったからだと思います。将来に悲観する事なくマジ?マジ?って同僚に聞きまくっていましたね。
 そして、そのまま退職しました。
 次、どんな仕事をしようかと、ハローワークに通っていたある日、求人票をポチポチ、流し読みしていた際に、一つの求人に目が止まります。
 納棺師でした。
 自分は父が亡くなった時、これと言って何もしてあげれませんでした。ただただ泣き喚くだけでした。それから、数年、その時の自分に対して後悔の様な物を持っていました。もっとこうしてあげたかった。あーしてあげたかった。そんな気持ちがモヤモヤとあったのかもしれません。
 自分は未経験で納棺師になりました。
 初めての現場は怖かったです。始めて棺に入る前の親族以外のご遺体を見るのですから。その時は何も出来ませんでした。手を触る事も出来ず固まっていました。
 でも、それから父にしてあげたかった、あーしてあげたい。こーしてあげたい。家族にこう言ってあげたいを故人様、ご遺族にしました。
 毎日、家に帰ると、ベランダでタバコを吸いながらその日の故人様、ご遺族の方の事を思い出していました。
 それから、がむしゃらに働きました。今、これを読んでる方が想像する亡くなり方の現場は一通り経験していると思います。
 そして、数年後には責任者にもなります。
 ホスピス病棟の看護師に死化粧の講習もしていました。
 責任者の立場上、会社を支えるためには数字を追わなきゃいけない事は倒産した会社にいたので、痛いほど分かっていましたし、その為にがむしゃらに働きました。
 でも、ある日、その糸がプツリと切れました。
 月末処理の書類をまとめている時、その月は件数も多く、売り上げが予想以上に大きく、その報告を上司にメールでしました。数分後、その上司からチャリンっと返事が返って来ました。
 そして、その文章を見た時、自分は反射的にフッと笑ってしまってたのです。
 同時にあーしてあげたい。こーしてあげたい。って誓った当時の自分との乖離に驚き、ブラックアウトした自分の汚い表情に情けなさと申し訳なさが襲って来ました。
 この数字は悲しみの上になっているのに。
 あまりにも染まり過ぎてました。
 毎日毎日亡くなった方を相手にすると、慣れてしまうのです。
 夜、ベランダでタバコを吸いながら、今どの辺にいるのだろう?って考えてた頃の自分が羨ましくなりました。
 そして、切れた糸は結び直せず退職しました。最後の日、自分が8年間で4931人の故人様に携わった事を確認しました。一件一件は覚えていません。本当に申し訳ないと思ってます。だから、4931件の数字は忘れずに生きて行こうと決めています。
 それから、訳もわからず、マレーシアに移住します。理由は日本人が移住しやすい国No.1ってのをネットで見たからです。
 ただただそれだけの理由です。
 当時の事を思い出すと、色々疲れてたんだと思います。英語も話せないままマレーシアですから。
 マレーシアの事はまた今度、他の記事で書こうと思います。
 そして、日本にはコロナと同時に帰って来ました。
 色んな意味で日本は恵まれているなとマレーシアでの経験で学びました。それと、かあさんのご飯が世界一美味い事を知ります。これは、今でも変わりません。
 そして、noteに出会います。
 自分はそれまで、SNSと言うものをやった事がありませんでした。facebookも旧Twitterもmixiもやってませんでした。
 初めは、ただただ自分がこれまで感じた事を書き連ねた記事でした。
 これまでの溜まりに溜まった人生を吐露した記事です。
 でも、ある日、小説を書いてみようと思いました。本は小さい頃、小学校の図書館が娯楽のない田舎の楽しみの一つで読んでいて、ずっと支えになっていたからです。
 だからやってみようって書いてみました。そしたら凄く面白くてはまってしまいました。
 スキにコメントにフォローに沢山の反応が嬉しくて、ガツガツ書いたり読みに行ってはスゲーって唸ったりしてました。
 書いたり唸ったりしていたそんなnoteで自分は1つの夢が出来ました。
 誰かの箸休めになれる様な作品を書きたい。
 そう思って毎回書いております(たまによく分からない記事を投稿しておりますが笑)
 最後に脱線に脱線を繰り返し、山手線の様に初めの「たのし」ってペンネームの由来に戻るのですが、自分は人生は死に向かうあみだくじだと、思ってます。
 物騒な表現だと思うでしょうが、自分は自分の歩んで来たあみだくじの中で、沢山転んで、沢山幸せでした。ゴールは決まって死なのですが、その間に見つけた綺麗な花や転けた段差を小説を通して、誰かの心に楽しいを植え付けて行きたいと思っています。だから、「たのし」にしました。
 来年は妄想の中に実体験のスパイスをいれた小説にも挑戦して行こうと思いますので、たまーに読んで頂けると幸いです。
 これまで、noteで出会った方、これから出会う方、どーぞ、宜しくお願いします。
 とりあえず明日は神社を3軒ハシゴしようと思います。
 皆様に良いお年を。そして、良い来年を。


おしまい。

tano 

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たのし
読んで頂きありがとうございます🙇サポート頂いた金額に関しましては、お菓子おじさんの活動に使います!お菓子おじさんとは?と思われた方はnoteに説明ありますので、合わせて読んで頂けたらと思います🙇

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