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2-4 三者面談,どうする?

-初!三者面談の実際-

今の高校では,秋に三者面談があります。はじめておこなう,生徒との本格的な進路の面談。一体どんなカンジで進めていけばいいのかな?迷ったときは,やっぱり原則に立ち返る。指針となる言葉をもう一度読むに限ります。紹介するのは,生徒との面談について語っている小原茂巳さんの座談会での言葉。

小原: 進路に関する生徒との面談の時の僕の第一声は「どうしようか?」です。オレからワーワー話していくんじゃなくてね。「どうしようか?」「先生,オレ,この高校受けてみたいんだよ」「オー,見つけてきたのか。いいねー。この高校のどんなところが気に入ったの」「こういうところが気に入った」というじゃない。そしたら「おー,いいねー,ぜひがんばってね」って励ます。それから「受かりそうかな」という現実的なことも2人で調べあいます。「一緒に調べようや」とテスト業者のデータなどをオープンに机にひろげて2人で見ていく。で,後はやってみるかどうかは本人の決めることだね。
板倉 そのときに,「おまえ,絶対に受からないよ」とか,「おまえの学力ではもったいないよ」とかね,そんなことをいう必要がどうしてあるのか。


(『たのしい授業』no.104 人生は転んでもシメタ -座談会「楽しい進路指導」-)

ボクの三者面談の印象は「親と生徒が話し合う場」。そして,ほぼ強制的に保護者に学校に来てもらう機会(しかも平日の夕方なんて時間帯に…)。だから,「わざわざ来てもらってどうも」という切り口の後,「進路やそれ以外も含めて,何か気になっている,話しておきたいことありますか?」と保護者に聞くようにしました。そのあと,進路希望調査の紙をもとに,「お子さんはこう考えているみたいだけど・・・お母さんはどう?」「先月書いてくれた進路希望調査から気持ちの変化はあったりする?」と親,子それぞれ聞くようにしたのでした(いわゆる<共通理解ができているかの確認>ってヤツかな?)。

 一方,地域の特性もあるのか,今の勤務校では毎年,学年の約半数の子が奨学金を借ります。ボクのクラスも15人の子が奨学金を考えていました。けれど,奨学金は,わかりやすく言えば「借金」。上級学校卒業後に何年もかけて返さなくてはいけない。借りる金額も,保護者と相談して決めるわけで,そのイメージを持ってもらうために,「仮想,上級学校生活プラン」を考えてもらうようにしました。授業料はいくらで,アルバイトは時給いくらで・・・。週何回入って・・・。就職して一人暮らししたら,こんなところに住んで,何年ぐらいで返す・・・みたいな質問を繰り返します。

もちろんそこに正確性も計画性もいりません。「お金を出してくれる保護者の前で試しに1回考えてみる」ということをしてもらっても良いかなと思ったのでした。

※こんなことを考えてもらっている一方で,ボク自身は貯金がいくらとか,月にクレジットカードをどれぐらい使ってるか,なんてことはさっぱり。(ボクは奨学金を借りずに大学に行かせてもらったので,今返却しているわけではない)。自分の親に感謝するとともに,たとえ生徒たちがとんちんかんなシミュレーションをしたとしても,「そうか,よく自分の頭で考えたね」と言うようにしています。少なくとも「全然違う!親に出してもらうんだからちゃんと調べろ!」なんて声かけはしないように(というか,自分も疎いからあまりエラそうに言えないだけ)。

●3年生に入る前に

 面談後,2年生最後の試験,後期期末考査を受ける時のことです。今の学校は,例年,半分以上の子が学校推薦(指定校,公募)で大学,専門学校を受けるみたい。推薦ということは,「評定平均(1年生の頃からの全科目成績の平均値)」によって,推薦をもらえたり,合格率が変わったりします。けれども,生徒たちは「自分の評定平均」を知りません。秘密にしているわけではないけれど,伝える場面がきちんとは用意されてないのです。なので,評定平均が関わってくる生徒には,「今の値がいくつで,次にこれぐらいがんばるとこれぐらい上がる」という資料を渡すようにしました。

「成績だけが生徒のよしあしを図るものさしではない」と考えつつも,入試を受ける大きな判断材料になってしまっているので,まぁそこは仕方がありません。伝えた後,どれぐらい頑張るかは生徒次第。「わかった!来週のテストがんばる!」となる子もいれば,「私,評定平均を気にするのはもういいや!一般入試でチャレンジしまーす」という子もいたり。そのためにできる限りの情報は与えてあげます。

●自分の尺度ではかる
仮説実験授業をやると,なぜ子どもたちはこのような評価活動をやるようになるのでしょうか。それは,きっとこの授業では,「教師が子どもに評価を押しつけない」からだろうと,私は思っています。この授業での子どもたちの評価の基準,それは実験の結果と,友だちの考えと,自分とにしかありません。自分の予想やその底にある考えがあっているかどうかは,実験の結果が教えてくれます。それが自分にとって満足すべきものであったかどうかは,自分自身の気持ちが教えてくれます。自分の出した考えがどれほど説得的であったかということは,友だちが判断してくれます。なにも教師が口出しする必要はないし,口出ししないからこそ,子どもが各自勝手に評価活動をするのです。
 それは,もともと人間が<評価する動物>だからでしょう。教師が一つの評価を決めてくれれば,何も自分で評価する必要はなくなります。自分でも評価して,それが先生の評価とくい違ったりすると,いきおい先生に反発したりして,思わしいことにならないので,先生が評価を押しつけてくるときには,あまり自分で自分の評価などしないほうがよいのです。しかし,先生が評価をしてくれないとなったら,自分で評価しないわけにはいきません。自分のやりたいことをやるのだったら,自分自身でも評価できますし,評価したくもなります。そこで,仮説実験授業では,自分で評価するようになるのだと思うのです。
 自分で評価することのよいところは,自分自身で納得のいくような評価基準をたてられることです。「この問題はできなくてもいいや」と思ったときと,「この問題はぜったいあってみせる」と思ったときとでは,それぞれ評価を変えてもいいのです。「一人一人が自分自身の活動を自分自身の尺度ではかって,自分の成長を確認しながら、着実に進歩する」-これはすばらしいことではないでしょうか。    

 (『教育評価論』板倉聖宣著・仮説社)

そんな三者面談も無事終わりました。進路についてまだバシっと決まらない子もいたけれど,「考えてみたけど,オレはまだ決まらないなぁ」ということを,生徒本人にも,家庭内でも,共有できていればそれでいいかな。三者面談が,そんな「考えるきっかけの場」であったらいいな。

※ ボクの高校時代を振り返ると,当時のボクは「指定校推薦なんて邪道だ!一般入試で頑張る事こそ意味がある!」という謎の信念を持ち,指定校推薦の枠などまったく見ず,部活が終わったら予備校に通う生活がスタート。一般入試にこだわりました。3年生の秋以降は「受験科目以外の学校の勉強は捨てる(ひたすら受験科目の勉強を内職する)」という方針に走り,2年生の時に5だった化学や生物の成績が急に2に急降下(汗)。若干の罪悪感は今でもあるけれど,そういう意味も含めて,悪くない経験だったと思っています。授業で受験科目を必死に内職する子がいても,その気持ちがとてもわかるのですから・・・。ボクが高校時代に戻ってまた大学受験をするとしたら,どっちを選ぶかな?




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