毎日短歌を100日やってみて
100日。というと結構続けてきたなあという思いもありますが、感覚的には「気がついたら」という感じです。この先も変わらずに詠んでいこうと思ってはいますがこういう節目を逃すと書く機会もなくなるので、現在の気持ちとか分かった(つもりになっている)ことを書いていきます。
短歌と他の表現との違い
小説、詩、俳句、映画、ドラマ、漫画、絵画、能、歌舞伎などなど。表現する手段は数多くあります。これまでは表現する側でなくもっぱら視聴する側だったので特に意識もしていませんでしたが、表現にはそれぞれに得意分野があるようです。小説や漫画だったら伏線を用い終盤一気に回収するとか、絵画や音楽であれば一瞬で相手を取り込む速度とか。わたしは学生時代から漫画とテレビドラマをよく見てきましたので、ともするとその面白さを短歌でも表現したくなります。漫画の劇的な展開(セリフ)やテレビドラマの情熱的なシーンとか。しかしまあ、うまくいきません。漫画やテレビドラマは時間をかけ読者に世界観を浸透させますが短歌はそれができません。短歌の得意分野は別にあるようです。
※でも、負け惜しみでなくこの試み自体は決してダメなことではないと思います。短歌でそんなことをしてはいけないなんてことはないです(そんなこと書くと熟練の方々に怒られるかもしれませんが)。何を表現するのも自由だと思います。だから楽しいし、どこまでもいける(気がします)。
短歌の得意分野
では短歌の得意分野は何なのでしょう。大学の頃先生が教えてくれた言葉があります。まあその先生は詩人だったので短歌ではなく詩について言及したことだったのですが。
「詩は、霧に満ちた視界を一瞬だけ貫いて先の先まで見ることができる」
短歌も同じ力を持っていると思います。詠むことで、読むことでそのままでは見づらい世界に風穴を開ける行為。一瞬だから、それは明確な回答でもアクションプランでもないけれども確かに世界を貫ける、他に類のない表現方法。
全部を語ることでなく説明をするということでなく、比喩や隠喩を駆使し一瞬の切り取り方で勝負する表現には他の表現方法ではなし得ない世界の晴らし方があるということです。
短歌はサッカーと似ている
短歌の作り方として前々から思っていた世迷言を書かせていただきます。短歌の創作とサッカーは似ています(自分でも何を書いているかわからないです)。
創作の方法は人それぞれ違うと思いますし、また同じ人でもその時によって方法を変えたり、急に頭にフレーズが降りてくるということもあるかもしれません。今回はまず5・7・5(上句)のフレーズが頭に浮かんだ場合の話です。
すごく、ものすごーーく良い上句が浮かんだ、これはサッカーで言うペナルティエリアにボールを持ち込んだ状態です。ゴールは目の前、あとはキーパーを残すのみ。おそらく撃てば入ります。ここでいう撃つ=シュート=7・7(下句)です(いよいよ何を言っているのでしょうね)。ここで焦って撃つ、勢いのままで方向を定めず撃ってしまうとえてしてキーパーの真正面、止められます。つまりせっかくの良質な上句が、ありきたりな下句によって台無しになってしまうのです。ではキーパーの届かない隅を狙いますが、狙いすぎてゴールを外してしまうこともあります。つまり奇をてらった(または自分の思いを込めすぎた)下句により読み手にまったく伝わらなくなってしまうわけです。
大切なのは、ペナルティエリアにボールを持ち込みキーパーと1対1(何度もいいますが良い上句ができた)時点で決して慌てないことです(余談ですが全盛期の香川真司選手のペナルティエリアでの落ち着き具合にわたしは興奮しきりでした。あれが理想です)。落ち着き、まず選択肢を考えられるだけ考える。コースはどこを狙うべきか、キーパーの動きは、ホイッスルは鳴らないか(?)。そして狙いすましたシュートが見事ゴールに突き刺さるとき、素晴らしい短歌ができるのではないでしょうか(できませんね)。
自分でも驚くほどに脱線してしまいましたが最後に。短歌を詠むことは楽しいです。自分がやっていることでこれだけ無条件に人にお勧めできるものは本当に珍しいかと思います。毎日短歌だけでなく初心者が短歌をやっているなかで気づきや日常生活に及ぼす好影響についても発信できればなあと思っています。ちなみサッカーはしたことありません。