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『性暴力の加害者となった君よ、すぐに許されると思うなかれ』by 斉藤章佳&にのみやさをり 

私とにのみやさをりさんの出会いや、彼女が「加害者と対話したい」と初めて私に話したときの心情はかつてここで書いたことがある。私は彼女がこの活動を始めると最初に聞いたとき、本人に向けて遠慮なく難色を示した人間である。

さらにここにも記したが、夫の死を悼めない自分に苛まれていた時、私の心を慰撫してくれたのは性暴力被害者の彼女だった。だが、あの時「性暴力に遭った彼女」だから私を救ってくれたのではなく「彼女の裡に彼女たらしめる深い包容があった」からだったんだと、知り合って十数年経った今になって改めて実感している。
そして、この本を読み終えてその想いは確信となって心の真ん中に据え置かれた。

『性暴力の加害者となった君よ、すぐに許されると思うなかれ』
非常にインパクトがあり目を引き付けずにはおられないこのタイトル。
性加害の経験者は、これを見て思わず目を逸らしてしまうかもしれない。
比して、性被害に遭った人たちは、このタイトルを見て思わず快哉を叫び、私の代弁者がここにいるとにんまりとするだろうか。いや、逆にトラウマを惹起して避けてしまうだうか。自分は加害者でも被害者でもないし関係ないわ、と思っている人たちも、この強いタイトルを見たら、心の奥底にゆらゆらと小さな波が湧き立つのを自覚するはずだ。
メインタイトルだけでこれだけ様々な感情が湧き起こり揺らされる、ある意味、素晴らしいタイトル。だが、右上に書いてあるサブタイトル『被害者と加害者が、往復書簡を続ける理由』に目に留めた途端、私たちは一気に戸惑うことになる。

「は? 性暴力の加害者と被害者が手紙のやり取り? 少し盛ってない?」
「そんなバカなことが」「そんな人がいるの」「そもそも往復書簡ってどういうことよ?」「被害を受けた人が、加害した人とやり取りをするなんて本当かしら」「何それ」「少しおかしいんじゃない?」いろいろな声が聴こえてくるように感じる。表紙ひとつでこれだけ揺らされるのである。
では中身はどんなだろうとページを繰っていくと「これは生半可な気持ちで読み飛ばしてはいけない本だ」とほんの数ページで思い知らされることになる。

「私は加害者と対話したいのです」
そう言って彼女がまずコンタクトを取ったのが、この本の共著者である斉藤章佳先生だ。
加害者が再犯防止に取り組む ”加害者臨床”に長年携わっている斉藤先生ですら、最初は彼女からの唐突な申し出にかなり驚いたとある。
しかし、その申し出はすぐに「まずはやってみましょう」と受容され、やがて”対話プログラム”の構築者として、二人はこのプロジェクトにおいて二人三脚を始めていく。
おそらく、これは私が知る限り日本では初めての試みだ。
そして「にのみやさんが辛い、無理だとなったら、その時点でやめましょう」という斉藤先生からの優しい提案のもと始まったこのプログラムは、実に七年間もの間、一度も休むことなく続けられてきたとある。しかも、ほぼボランティアだ。
それだけでも賞賛に値するが、彼女と加害者が交わしてきた往復書簡を読み進めるにつれ、どれほどの真摯な想いが長年の間交錯していたかが、じわじわと心に滲んでくる。彼女の「少しでもわかりあいたい」という心からの叫びがあちこちから零れ出て、胸を熱くせずにいられない。

数年前、にのみやさんとカフェで待ち合わせをしたとき、少し遅れて店に入った私の目に飛び込んできたのは、私に気づかず膨大な数の手紙に一心に目を落としている彼女の真剣な表情だった。
加害者との往復書簡をしていることは知っていたので、きっとそれだろうなと思いながら近づくと、彼女はフっと我に返り「あ、ごめんごめん、気づかなかった」と言いつつ、さっと手紙を片づけた。でも、その扱い方が実に丁寧だったのだ。一連の所作を一瞥して「ああ、とってもこの手紙を大切にしているのだな」とすぐにわかった。
が、その時は敢えて手紙の話題は逸らした。私が気軽に立ち入ってはいけない聖域のように感じたからだ。
その時の答え合わせがすべて、この一冊の本に凝縮している。

「性加害をするような人たちがマトモな文章なんて書けるのかしら」
正直、その頃の私はそんな偏見も多少なりともあった。
だが、本書を読み進めるにつけ、性暴力・性加害をする人たちは、決して特殊な人ではない、根っからのウツケ者でも阿呆でもない、性欲が人一倍強い、獣のようなひとばかりではないということが分かってくる。
にのみやさんと加害者たちが交し合う手紙の内容は、実に率直で、正直で、そしてある種の静けさが漂うように私には感じる。
もちろん、加害者がこんなふうに素直に自分自身に向き合えるようになるまでには、幾多の彼女からの誠意と熱意あるアプローチと、斉藤氏の適切で親身な導きがあってこそ成し得た功績だと思う。
しかし、誰も踏み入れたことのない道を分け入っていくことに、胸の裡にはどれほどの決意と逡巡が在っただろう。気の遠くなる想いである。


《そこにいるのは、確かに加害者と被害者です。にのみやさんは被害当事者として、加害者に知ってほしいことを彼らに語り、知りたいことを彼らに問います。それと同時に、被害者としての立場を降りて、一人の”ひと”として彼らに対峙し、言葉を届けようとしているのがわかります。にのみやさんは、”ひと”と”ひと”して話したいのでしょう。》(斉藤章佳氏言、本書9ページより抜粋)

本書に出てくる加害者たちの手紙のやり取りでは、彼らは最初の頃はテンプレートをなぞったような言葉しか綴らない。自分の犯した行為を過小評価しようとする。だが、彼女と斉藤氏は実に根気強く慎重に、訥々と語りかけていく。

(以下にのみや氏言。往復書簡含む。ランダム抜粋)
「なぜ加害の記憶は忘却され、被害の記憶はずっと続くのでしょうか」
「みなさんが、みなさんの被害者に対して持っている、あるいは持っていた不平不満を、思う存分吐き出してほしいんです」
「みなさんはどうして、加害行為を行うことができたのでしょう。どなたかおっしゃっていましたね、被害者を人間だと思わなかった、モノだと見做していた、と。あなたにとって人間をモノ化する瞬間はどんなときですか」
その答えはさまざまである。ここに書き出すのはやめておくが、実に興味深い回答が並んでいる。

彼女は複数回の性暴力被害者である。二十七年以上経過した今も、様々な精神的症状に苦しんでいる。
私は、彼女が私の目の前で解離してしまい、どこか遠くに行ってしまった瞬間にも幾度か遭遇している。さっきまで私の眼前で笑顔で語っていた友人が、唐突に記憶を失い、目の前にいるはずの彼女が彼女ではなくなる。私から遠くに行ってしまうのである。その時、対峙している私に為す術はない。彼女のこれまでの過程や、解離について少なからず識っていたはずの私も、かなり動揺するものだ。

にのみやさんに会った人は殆どの人が「思っていたより快活で元気そう」「誰とでもすぐ打ち解けて物怖じしない」「いつも堂々としていて覇気がある」そんな印象を抱くという。現に、私も彼女に初めて会ったときは、大きな声で元気一杯で喋る彼女に「ずいぶん思っていたイメージと違うなぁ」と思ったのをはっきりと憶えている。

しかし。彼女はこの激烈な解離発作をどんな思いで毎日手なずけながら生きてきたのか。毎日、どんな気持ちで記憶の喪失を受け容れ抑制しながら生活を営んできたのだろうと想像しただけで震えた。胸が痛くなり、言葉が出なくなった。そして私は彼女をこんなふうにした加害者に対して、抑えがたい猛烈な怒りを覚えた。

「解離」は被害者のみならず、加害者にも同様のことが起こることを本書では実に詳らかに言及している。しかし、私個人は正直、人権を蹂躙した加害者にそんな生易しいことを言わせてどうするよ、とも思った。
「にのみやさんは、解離して階段から落ち死にかけたこともあったんだ。解離を手なずけるのにどれほど苦汁を飲んだかこいつらは本当に理解しているのか、誰がそうさせたんだ馬鹿野郎が」と内心ギリギリしながら、私は本書の加害者たちの解離についての手紙を読んだ。自分を納得させるのに時間を要したことも正直に書き記しておこう。
そう、私はまだまだこのように未熟なのである。

にのみやさんと出会うまで、私は性加害をする奴は全員伏して謝罪するべき、幼児に対して性加害した者は問答無用に死ぬべきである、くらいには思っていたし「なんの罪もない女性をモノとして扱い、一時の性欲に負ける奴らはヒトではない」くらいに憎んでいた。私も幼少時に大人から嫌な思いをさせられてきたということも大きい。
しかし、にのみやさんは「謝罪」がどれほど虚しいことか、実際に彼女に加害した者からの謝罪を受けてから痛感したとこの本にはある。そして、加害者が加害行為をする理由に「性欲」はあまり関係がないこともこの本では教えてくれる。加害者の認知の歪みは、そんな単純なことでは全くなかったことに気づく。
それでも「謝れやこの野郎」と、まだ私の中に加害者たちを唾棄し侮蔑したいという欲求があるのは否めない。
私は「怒って」しまうのだ。どうしようもなく。それはにのみやさんが友人だからではない。私の中にひっそりと巣食うであろう「嗜虐の快感」がそうさせているのだ。そうと認めるまでに、とても時間がかかったけれど。

しかし、当事者の彼女が、こうして加害者の言葉をまっすぐに拾い受け止め、彼らの中に鎮座する「認識の歪み」を根気よくほぐしていこうと努めているのだ。
この本からはどこから読んでも、その想いがしっかりと読み取れる。どれほどの決意のもと為しているのだろう。そして、この行為がどんなに意味のあることなのか、意義のあることなのかと私は感嘆する。
が、彼女にとっては「意味・意義」など、そんなことはどうでもよいのであろう。
「修復的対話」を選んだ彼女が真に為したいことは、私のような浅はかな感情的な加害者叩きではないことは明らかだ。

私がにのみやさんと話していてハッとさせられた言葉がいくつかある。
「被害者は、被害者だということだけで意図せず ”上” に立ってしまうのよ」
「 ”被害者様” になってはいけないと思っているの」
「誰だって明日被害者になるかもしれない、加害者になるかもしれない。他人事ではないのよ」

私事ではあるが、私はヘルプマークを携帯する難病患者である。
でも、赤いヘルプマークを身に着けるとき、自分は今いったいどんな気持ちでいるのか、どんな心持ちでいるべきかを考えるようになった。そして、病気を持っていることで「優先されて当たり前」だと思っている自分がどこかにいやしないか、病気を理由に何かから逃げていることはいないだろうか、病気を振りかざして人に傲慢な態度を取ってはいないだろうか、そして病気を "権利" だと勘違いした行動を取ってはいまいかと、常に意識するように変わっていった。
もし私がにのみやさんと出会っていなかったら、私は ”難病サバイバー様” として偉そうにモノを言っていたかもしれない。自分より軽症な病気の人を軽んじたかもしれない。なんなら、特権意識を持っていたかもしれない。
考えるだに恐ろしいことだ。

「にのみやさんは被害を受けてから月日が経っているから達観できるんでしょう」と誰かに言われたことがあると聞く。でも、彼女の解離症状を一度でも見た人なら、達観などという言葉は口が裂けても言えないだろう。
でも、彼女は頤を上げてキッパリとこう言うのだ。
「加害者を断罪するだけでは何も変わらないのよ。だから私は加害者と対話したいの」と。
そんな彼女に対して、
「あなたは加害者の肩を持つのか」
「加害者の気持ちを推し量るなど偽善もいいところ」
「あなたは結婚して子供もいる。もう被害者ではなく、ある意味加害者なのよ」…などという暴言をぶつけてくる人たちも少なからずいるらしいが、そんな人たちにこそ、この本を隅から隅まで読んでほしいと心から思う。
彼女がどれほどの意志を持ち、名前と顔を出しリスクを負いながらも加害者たちと関わっているのか。どうか最後まで一文字も漏らさずに読んでほしい。

そして、性加害がやめられずに悩んでいる人、性被害のトラウマを抱えている人にこそ、ぜひ本書を手に取ってほしい。
本書のタイトルには「許されると思うなかれ」とあるが、彼女の想いは、もちろんそこにとどまり続けているわけではない。
加害者にも、そして被害者にも「その先に在るもの」を目指して歩んでほしいと痛切に願っている。それが何かは、ぜひ本書を手に取ってあなたの目で確かめてほしい。

本書は、人が罪を背負うこと、罪を認めること、そして罪を贖うことの意味を、とことん考えさせられる、非常に稀有な良書である。

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『性暴力の加害者となった君よ、すぐに許されると思うなかれ」
斉藤 章佳 にのみやさをり 共著
ブックマン社刊













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