褐色細胞腫闘病記 第40回「13年ぶりの再発」
今日は「私のところに来るのは一番最後でいい」という言葉をかけてくださった夫の勤務先の村上先輩の家に行く日だ。
そのご好意に甘えさせていただいていた御礼にと、私はせめてもの心遣いとして、すべての紙幣を新札に替えた。お好きだとうかがっていた和菓子も携えて、きちんと髪を整えた。
「ご無沙汰しております。この度は大変ご迷惑をおかけしました…遅くなってしまって…本当に申し訳ございませんでした」
緊張しながらたどたどしい口調で謝罪を述べると、ご夫婦は「大変ご苦労されましたね」とすかさず労ってくれる。
ずっと頭を下げる私を制したのは、村上先輩の奥様だ。
「こうこさん、お体は大丈夫ですか」
細い指が私の肩に置かれる。
奥様も確か抗がん剤治療をしていたはずだ。
私にかける声もか細くて、佇まいすら消え入りそうだ。慈愛に満ちた優しい顔。この方は病をまっすぐに受け容れている方に違いない。
夫は「家を新築するのにあと200万円ほど頭金が足りない」というなんだかよくわからない嘘の理由で先輩に無心したらしい。大した追及もせず快く差し出された200万円。村上氏のご好意の塊がいったいどこに消えたのか、情けないことに私には一切わかっていない。
先輩の村上氏が夫の筆跡の借用書を見せる。
これは確かに夫の字だ。癖のある右上がりの細い筆跡。
え、でもなんなんだこの立派な大きな大きな印影は。
「なんか、象牙の印鑑を特注であつらえたんだって言ってましたよ。"先輩への借用書に三文判では申し訳が立たないから" と言ってましたね」
え、ということは村上先輩に借用書を書くためにわざわざ高価な印鑑を買ったのか。なんだそれは。なんなのその馬鹿な理由は。いったいどこまで無駄な見栄を張るの。借金するというのに、こんな立派な印鑑を買うなんて呆れてものが言えない。それにこんな印鑑、私は見たことがない。夫はすぐに捨ててしまったのだろうか。
夫のその愚かさが悲しすぎて、憐れすぎて、そしてあまりに情けなさ過ぎて、私は言葉を失い呆然とする。
懸命に貯めた200万円を差し出す。
誰の力も借りず、自分の力だけで貯めた血汗の結晶だ。
「こうこさん、確かに受け取りました」
ご夫婦から受け取った受領書と完済証明書を手にした途端、一気に体の力が抜けて意図せず涙が出てしまう。
あああ、これで一息つける。もうお世話になった人たちに恩は返せた。心の荷物が下りた安堵で涙が止まらない。
奥様が何も言わずに私の背中をそっと撫でてくれる。
「失礼ですがあとどのくらい残っているのですか」奥様が尋ねる。
「サラ金には債務整理して2年ほどで返しました。お世話になった方々にもお返し出来ました。あとはクレジット会社に150万円ほどです」
村上先輩が柔らかな笑顔を見せて言う。
「では、この200万で返済してしまってはどうでしょう。私のところには利息はかかりませんから。今日、お約束の日までにこうしていらしていただいたのは、そのつもりでいたからです」
私は驚いてご夫婦の顔を見る。
「もっと早くに言えばよかったんでしょうけれど、このご提案を最初に話しても、義理堅いこうこさんはきっと受け容れてくださらないと思ったので」
奥様が優しさに満ちた表情で笑いかける。
「こうして今日、きちんと完済していただいた。そのお気持ちはしかと受け取りました。これで十分です。このお金で他を綺麗にしてしまってください。残りの50万も、野乃子ちゃんにいろいろかかるでしょう」
なんて人たちだ。この世にこんな人たちがいるなんて。
私は感激して涙が止まらない。何度も何度も頭を下げ、今度は私の名前で新たに借用書を書いた。
200万のうち150万円をクレジット会社に返し、残った50万でようやく中古のピアノを買った。商売道具が手に入ったので、私は脇目もふらずに過去の生徒たちに手紙を書いて紹介の依頼をした。
すると、20代の頃に教えていた生徒から親子2代で通えるなんて嬉しいという言葉と共に「自分の子どもを習わせたい」という申し出が次々と届いた。
かつての生徒の子供なら私も安心だ。
一気に生徒が増えると、あとはクチコミからクチコミが増え、ピアノを購入してからさして時を経ず、20人もの生徒が集まった。これは幸運としか言いようがない。
そして新たにもっと時間の融通が利く昼間の仕事を探した。
調剤薬局のアシスタントの仕事をみつけて、面談と筆記試験をかいくぐり、応募者30人の中から合格を勝ち取り、今までよりずっと時給の良い仕事場に採用された。一日でも早く村上夫婦に返済しなければならない。これからも頑張って働くんだ。
野乃子は短大生なった。
私は相変わらずつましい節約を続けていた。
野乃子は学校に届けを出し、アルバイト許可書をもらって来た。
「ママ、私のことはいいからね」と明るく言いつつ、吉野家で働き始め、教科書代や、中学から続けていた卓球の道具自分で調達していた。
「ママ、お金を稼ぐってこんなにしんどいんだね。私、ママがどれだけ大変かよーくわかったよ。今までありがとね」
野乃子はこういうことを照れずに言える子だ。
でも、私は妙に照れて上手く言い返せず、ただ曖昧に笑うだけだ。
「牛丼のにおいが取れないよお」と言いつつ髪を洗う野乃子とは、あれ以来、たった一度もパパの話をしていない。
私は8時から16時まで調剤薬局で働き、その後ピアノと英語の仕事をし、毎日12時間~13時間労働を続けていた。日曜日は楽器店のイベントの手伝いをした。
疲れたなどと言ってる暇はなかった。なんとか野乃子が高校卒業するまでに借金を返し、そして進学費用も貯めなければならない。
そう、そんな時だった。
いつもの定期検査。いつもの外来診察。いつもの佐々木先生。
でも、ひとつだけいつもと違うことがあった。
「三島さん、残念ですが肝臓に3センチ大の再発が見られます」
それは、実に13年ぶりの褐色細胞腫の再発の宣告だった。