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どうしようもなく冴えない生を、今日も生きている

部屋の模様替えをした。とは言っても決して広いとは言えない1Kの部屋なので、できることは限られている。ベッドを動かし、テーブルを動かし、棚を動かしたらあらかた完了してしまう。でもコンセントの場所の関係で、いくつかのものたちは場所を移動することになった。そのうちのさらにいくつかは、いまだに床の上に転がっている。はやく居場所を見つけてやらなければ。

今回模様替えをしようと思ったのは、ベッドが窓際にあると冬は寒すぎるのと、部屋の真ん中に陣取っていたギターをうっかり蹴飛ばしてしまったからだ。幸いギターにも僕にも被害はなかったけれど、お互いの幸福のためにも然るべき場所に移動してもらわないといけないと思ったのだ。

上でも書いたけれど、一人暮らしの部屋なんていくら家具の配置を変えても広く見えたりはしない。インスタで見かけるようなモテ部屋100日チャレンジをするには、そもそも家具を買い替えて本を断捨離しないといけない。僕はあまり物欲がないから物はそこまで多くないのだが、本は人より多い自覚がある。断捨離しようとしても、手放す本を選んでいるうちに「この本どんな話だったっけ」と、気がつけば読み耽ってしまうのがオチだ。

掃除をしたり配置を考えて実際に動かしたりと、労力はそれなりにかかるのにそれに変化量が見合っていない。それでも定期的な模様替えは、部屋にとっても僕にとっても必要な作業だと思う。これまで家具で隠れていた部分に日の光をあて、注意深く見守ってあげること。こうした行為は単なるお手入れの域を超えて、僕と部屋との間に愛着という絆を形成してくれる。



ハン・ガンさんの『菜食主義者』を読んだ。3つのパートに分かれていて、同じ出来事を3人の視点から事件を眺めていくという構成だった。

ごく平凡な女だったはずの妻・ヨンヘが、ある日突然肉食を拒否し、日に日にやせ細っていく姿を見つめる夫(「菜食主義者」)、ヨンヘを芸術的・性的対象として狂おしいほど求め、あるイメージの虜となってゆく義兄(「蒙古斑」)、変わり果てた妹、家を去った夫、幼い息子……脆くも崩れ始めた日常の中で、もがきながら進もうとする姉・インへ(「木の花火」)ー3人の目を通して語られる連作小説集。


僕は本の感想を書くのが苦手だ。興味惹かれるところとか、心に残った部分について語ることは大好きだけど、全体として「〇〇の物語」とか「〇〇に向けて〇〇を示唆する物語」みたいなことを一言で表すのが苦手だ。だからこの本についても、端的に感想を述べることはしない。

それでもこの本には魅力的な言葉がたくさんあって、個人的に心に残ったのは、最後のパートに出てくるこの一言だ。

「なぜ、死んではいけないの?」

世間的に理解されにくいなにかしらの主義主張を持っている人にとって、生きることはすなわち地獄にもなりうる。もっと言ってしまえば、人は一人一人違うわけだし、誰かのマジョリティが誰かにとってはマイノリティだと考えると、人は誰しもがマイノリティーなのかもしれない。

この世は苦しみに満ちた地獄なのだろうか。そしてその苦しみに満ちた我々の生でさえ、もっと多くの他の動物たちの苦しみの上に成り立っているのだろうか。

いろいろなものごとに対する責任をどこまで引き受けるかで答えは変わりそうだけど、僕の答えはイエスだ。漠然と、この世は天国よりも地獄の方が相応しいのではないかと考える。いろいろな宗教で、地獄の描写はすごく生々しいのに、天国の描写はどこかふわふわしているのは、「現世はしょうもないけどこれより酷い地獄ってところがあるんだ。それに比べたらまだ今の方がマシじゃないか。」と思わせるためなのかもしれないとも思う。

けれど、この世は地獄だとわかっているにも関わらず、このどうしようもない生を手放す気になれないのが僕という人間の弱さでもあり、強さだ。しょうもない肉体としょうもない精神を抱えて、しょうもない国のしょうもない街のしょうもない部屋の中で、せっせと模様替えに勤しんでいる。宇宙規模からどんどんクローズアップされて、微生物の10,000分の1くらいのサイズの僕がいる。なんだかなあ。なんとも冴えないけれど、どうしようもない。今日も生きている。


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