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石川悌二著『近代作家の基礎的研究』(5)―樋口一葉と谷崎周辺(その1) 和田重雄

樋口一葉に割かれているページは他の作家に比較してかなり多く、注目すべきところが多いので何回かに分けたいと思います。
今回はその第1回として、一葉に歌を教えた人物として「一葉の教育 和田重雄と中島歌子」と題したいところだったのですが、和田重雄で思わぬ長さになってしまったため、とりあえず今回は和田重雄について、まだ推測の域を出ないながら書いてみます。

この本には、一葉の教育については小学校の頃からかなり細かく記載されていますが、そこに登場する人脈には小中村清矩や谷崎家周辺と通じるものを見ることができます。

和田重雄については次のような履歴書とその後の辞職願が掲載されています。

            浜松県士族
                和田 重雄
             当亥十月七十年十ヶ月
明治五壬申年六月廿八日
一、神田神社祠掌拝命
 同七年九月
一、芝大神宮祠掌
 同八年二月
一、訓導拝命
 同八年七月
一、権少講義拝命
  右之通御座候也。
  明治八年十月
     第一区十小区鉄砲洲湊町三十番地寄留
                和田 重雄

この後明治十五年にいたって、次の辞職願を提出しています。

 私儀去ル明治七年九月芝大神宮祠掌拝命仕難有仕合奉存候。然ル処追々老年ニ及神勤難相成候ニ付辞職相願申度、此段奉願候也。
   明治十五年八月八日
       京橋区新湊町八番地寄留
           静岡県士族  和田 重雄

この後、次のように書かれています。
 当時、神田神社は東京府社として格式が高かったし、芝大神宮はいわゆる尊王教化の大本山として威令を発していたところであり、和田重雄も相当の格式をもつ神職者だったわけだが、残念ながらこれより以前の経歴はつかめない。だが浜松県士族、もしくは静岡県士族と名乗る人々が、かつての幕臣で、維新後徳川氏の駿府移封に従い彼地に移住したことだけは明らかで、従って和田重雄ももとは徳川の直参武士で、ある期間は新政府に仕えるのを好まず都落ちをした人であろう。同じ静岡県士族でも、明治元年八月徳川亀之助の移住と一緒に行った人もあり、またその二年なり三年なり経ってから、東京での生活が成り立たずに旧主にすがって行った人々もあったが、和田が少なくとも明治元年末までは東京に居たということは次のような私学開学願の一節で推定される。
南八丁堀三丁目十二番地
        鈴木学校
            鈴木 耕水
安政六年三月より明治元年十一月迄拾ヶ年間浜松県士族和田重雄え従学支那学修業……。

 この願書の鈴木学校は、東京でも屈指に古かった寺子屋雲龍堂(寛永八年開業)の後身であった。この鈴木耕水の住所が南八丁堀であり、かつ和田重雄の住所も鉄砲洲湊町である関連から、彼は元八丁堀の組屋敷に住んでいた与力か同心ではないかとも思われる。(一葉の父樋口則義も同心として八丁堀の組屋敷に住んでいた時期がある。)
 しかし町奉行所の与力や同心だった者が、一転して神主になるということも疑問が多いのである。もちろん、武鑑や町鑑によって、和田重雄の前身をずいぶん洗ってはみたが、町奉行所の与力同心に和田重雄(通称清三郎)という名前はなかった。履歴書の年齢から逆算して、彼の壮年時代は文政から天保にいたるころであるが、いかなる身分の武士であったか不明である。

この本に登場する作家に共通する地名として「芝」を挙げてきましたが、「芝大神宮はいわゆる尊王教化の大本山として威令を発していたところであり」というところで合点が行きました。ここがこの本に登場する作家たちの親族が集結したところと思われます。七軒町(江戸切絵図が開きます)は『小中村清矩日記』にたびたび登場する、親族が住む地域です。芝高輪地域(江戸切絵図が開きます)には有馬家の屋敷が3個所もあるのも目を引きます。
それから、八丁堀も興味深いです。谷崎が幼少時代に住んだ南茅場町、祖父の父が酒屋をしていた富島町、渋沢ビルの連なるところ、谷崎の伯母が結婚する時にその結婚相手に与えられた真鶴館が集まる地域(江戸切絵図が開きます)です。
この地域については、東京と印刷工業組合日本橋支部のサイトに日本橋❝町❞物語~江戸・明治から平成の歴史~というページがありました。とても勉強になります。
また、和田姓と清三郎という通称も興味深いです。
細君譲渡事件で佐藤春夫に譲る前に千代夫人を譲るはずだった和田六郎(後の大坪砂男)の父が和田維四郎という人なのですが、さらにその父の和田耘甫について、Wikipediaでは次のように書かれています。

小浜藩士の長谷川伝右衛門久徳の三男で、和田家へ婿養子として入って和田逸五郎義質と称し、小浜藩の公用人兼帯として知行200石取りであった。

小浜藩酒井家! 紅葉が住んでいた牛込矢来町等、泉鏡花のところで触れています。

長谷川姓だったのですね。長谷川姓で清三郎という名前ならば谷崎の母の弟にいます。生まれた年が大きく異なりますので当然別人ですが、これは興味深いものがあります。
さらに親族の中でも興味深い人物が見られますので挙げてみます。
和田義比 綱四郎の兄。工部省の官僚で歌人です。朧月集という歌集があり、その子供の和田義正が出版しています。
和田信二郎 維四郎の甥、つまり大坪砂男の従兄。この方は小中村清矩と國學院、古事類苑で接点があります。
和田義正 上記の『朧月集』の出版の他、下記の情報を見つけました。
岡山アーカイブ5(PDFです)
目次だけ確認していますが、明治の書簡のところに書簡が8通掲載されています。

まだまだ調べなくてはならないところがありますが、次に引用する谷崎終平著『懐しき人々』の記述で見えるような必然的な出会いからも、和田重雄という人物はそのあたりに繋がるのではないかと考えています。

ここで私は奇人に会う事になる。それは、東京薬学専門学校の詰襟を着た学生で、二十一歳の美青年であった。
私は先ず、その博覧強記に敬服してしまった。第一に語ってくれたのが、アルセーヌ・ルパンの「水晶の栓(クリスタル・ストッパー)」であった。長い話を少しも淀みなく、延々と一時間の余もかけて話したのである。――これが前年、兄達が箱根で一緒だったという和田一家の六郎君であった。今回は彼一人で現れたのである。
私に万葉集を教えて呉れたのも彼であった。「天飛や軽の道は吾妹子の……」と人麻呂の長歌を息もつかず暗唱してみせて驚かした。それからドストエフスキーの「罪と罰」のストーリーを精細に語ってくれた。私はそれからというもの、ドストエフスキーに夢中になり、全集を読破したが、まだ「カラマゾフの兄弟」などは本当に判りはしなかった。
この奇人は右眼は密かに怒りを隠している様な処があり、左眼はまた私かに悲しみを抱いていた。自説に反対されると明らかに厭な顔を剥き出しにするお坊っちゃんであった。
この人の身分は私は大冊の彼の二巻本の全集の月報に書いてしまったので、彼が後年大坪砂男というペンネームを持つ推理作家になった事を知っている人は、家系の事も知ってい るかと思う 。

『懐しき人々―兄潤一郎とその周辺』

『夢の浮橋』に登場させる予定だった作品名が出てきますね。伊吹和子著『われよりほかに』では、そこで糺という主人公が読むには『罪と罰』では暗すぎるからと『アンナ・カレーニナ』になったわけですが(そのため、武が遣られたところは黒田村だけではだめで、黒田村の芹生(せりょう)でなくてはなりません)。『大坪砂男全集』の月報もチェックしないといけませんね。調べてみたら、何と渋沢竜彦都筑道夫 編集となっています。渋沢龍彦についてはWikipediaで次のように書かれています。

東京市芝区車町(現在の東京都港区高輪)に澁澤武・節子の子として生まれ、埼玉県川越市、東京市滝野川区中里(現在の東京都北区中里)に育つ。父の武(1895年 - 1954年)は銀行員。母の節子(1906年 - ?)は実業家で政治家の磯部保次長女。渋沢栄一は龍彥の高祖父・三代目宗助(徳厚)の甥にあたる[注 3]。龍彥の幼少時、渋沢栄一はまだ存命で同じ滝野川に住んでおり、赤子の龍彥は栄一翁に抱かれて小便を洩らしたことがあると伝えられている。なお澁澤家は、指揮者尾高尚忠や競馬評論家大川慶次郎とも親類に当たる。

ここに、『夢の浮橋』の一節を引用します。

私は一昨年、大学を卒えると、父が重役をしていた銀行の行員に雇って貰ったが、その後考えるところがあって、去年の春妻を離別した。その際妻の実家からいろ/\面倒な条件を持ち出されたのを、結局先方の云うがまゝに承諾せざるを得なかったいきさつは、あまり面白くもない事件だから書き記す気にもならない。私は離縁を決行すると同時に、楽しい思い出や悲しい思い出の数々をとゞめている五位庵をも人に譲って、鹿ケ谷の法然院のほとりにさゝやかな一戸を構えた。そして黒田村の芹生にいた武を、当人もなか/\帰りたがらず、里親も離したがらないのを強いて連れ戻して、一緒に暮らすことにした。私は又、故郷の長浜で安らかな餘生を送っている今年六十五歳の乳母に、せめて武が十ぐらいになるまで面倒を見てくれるように頼んだところ、まだ幸いに腰も曲らず、孫子の世話をしていた彼女は、「そう云うことなら、もう一度ちっさいぼんちゃんのお相手をさせて戴きましょう」と、お神輿を上げて出て来てくれた。

『夢の浮橋』

都筑道夫についてはこれまでもtwitter等で触れています。この一事で「チェックしないと」から「必読」となりました。

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