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高木治江著『谷崎家の思い出』

出会い

私が高木治江著『谷崎家の思い出』に出会ったのは、私が出版社に勤めていた頃。会社の帰りに寄った古書店でした。この時期に出会った本が、その後を決めたと言ってもいいかもしれません。谷崎を研究するならまず最初に読みたい本です。

※2022-09-03
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歴代の妻が登場

この本は、谷崎の2番目の妻になった丁未子さんのお友達だった著者が、病による死を前にして、当時のことを思い出して書かれたものです。谷崎の最初の妻千代夫人から、3番目の妻松子夫人まで岡本の家を舞台に登場する時期の谷崎家の様子を描いた貴重な記録です。

後の研究に役立つことがさらりと

さらっと書かれているので一度読んだだけでは気付かないのですが、当時は知られていなかったことにきちんと触れられています。たとえば千代夫人が佐藤春夫と結婚する前に別の人と結婚することになっていたことなど、後に谷崎の末弟終平さんの著書『懐しき人々―兄潤一郎とその周辺』によって明かされましたが、その相手の存在について、名前は無しで、軽く触れられています。

※2022-09-03
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また、昭和4年の6月末あたりに食用蛙の話を使って千代夫人の不在がほのめかされているのですが、これは大変重要です。これまた後に終平さんが千代夫人が子供を中絶したことを暴露しているのですが、時期ははっきりしませんが、その時期に相当するであろうことは前後の関係からわかります。
千代夫人が結婚するはずだった相手は、後の大坪砂男なのですが、その弟子に都筑道夫がいます。大坪砂男はなぜか都筑道夫を大変可愛がったようですが、ただ一度だけ、強く叱られたことがあるそうで、そのことが都筑道夫著『推理作家の出来るまで』に書かれています。

「きみ、そんな無責任なことを、いうもんじゃない。奥さんにも感情もあれば、意志もある。悩みもするんだ」
(中略)
大坪さんに、つよい調子で叱られたのは、あとにも先にもそのときだけだから、いまでも思い出す。

都筑道夫著『推理作家の出来るまで』

※2022-09-03
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誰のことを言っているのか、わかりすぎるほどわかる言葉です。
このことについては、ラブレターズ鼻たれ天狗―『瘋癲老人日記』解釈の過程から―という記事で詳しく書いています。
中絶したのだから、都筑道夫がその子ということはないとは思いますが、大坪砂男はもしかしたら千代夫人の子のつもりで面倒を見ていたのかもしれません。それ以外にも、この時期、谷崎の周辺では子供が多く生まれていますので、そのあたり非常に興味深いところです。
また、今回この記事を書くに際してチラと捲っていたところ、妹末子さんの夫になった人についても、ものすごくさりげなく、チラと触れられているのにも気付きましたが、これらはよほどしっかりと、目を皿にして読まないと気づきません(^^;
2021-07-20 お春どんも見つけましたよ(^^)

この他にもまだまだこの本にはまだ知られていない秘密が埋まっているかもしれません。

『蘆刈』の舞台と東京との繋がり

それらの中でも注目しているのが、千代夫人との離婚後、谷崎が月の美しい夜に伯母に当たる人から譲られた紫の衣を捧げ持っているシーンです。最初に読んだ時には、この伯母については谷崎の『幼少時代』に触れられていないものですから、いったいどの人のことかと首を捻ってしまったのですが、谷崎の父の長兄の妻で、小中村清矩の三女であるお晉さんだということが後にわかりました(この方は、大正天皇の乳人として明宮御殿に上がりました)。このことは『蘆刈』の舞台の描き方の意味を理解するうえで大変重要でした。

※2022-09-03
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小中村清矩の生母と継母の実家の本拠地が岩淵なのですが、『蘆刈の舞台との共通点を強く感じます。また、小中村家の出自は石清水八幡宮の神職とのことで、『蘆刈』執筆に際して、小中村清矩の娘から譲られた衣を捧げ持つ理由がここにあるのではないかと思われます。
ちなみに、岩淵は後深草院二条著『とはずがたり』で、遊女のすみかと書かれています。
このあたりについては谷崎潤一郎研究のつぶやきWeb『蘆刈』文学散歩(2)に書いていますので、よろしければご覧ください。岩淵で丸眞正宗という看板を掲げた酒造会社を見つけました。残念ながら昨年2月に廃業されたようです

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荒川中州にて、岩淵側から川口を望む

こちらは岩淵の中州です。

参考に、『蘆刈』の一節を引用しておきます。

わたしは提げてきた正宗の罎を口につけて喇叭飲みしながら潯陽江頭夜送レ客、楓葉荻花秋瑟々と酔いの発するまゝにこえを挙げて吟じた。そして吟じながらふとかんがえたことゝいうのはこの蘆荻の生いしげるあたりにも嘗ては白楽天の琵琶行に似たような情景がいくたびか演ぜられたであろうという一事であった。江口や神崎が此の川下のちかいところにあったとすればさだめしちいさな葦分け舟をあやつりながらこゝらあたりを俳徊した遊女も少くなかったであろう。

谷崎潤一郎著『蘆刈』

執筆半ばで力尽きたが

谷崎と丁未子夫人が高野山を下り、松子夫人の家の離れ座敷に暫時住ませてもらうことになったというところで、残念ながら著者が亡くなりました。
それでもその終わり方がまた強く印象に残ります。

十一月に入って、日常生活がもう堪えられなくなった先生は、根津家の離れ座敷に暫時住ませてもらうことにし、風呂、食事の苦労から丁未子さんを解放し、これで女神の如く彼女に仕えられると一と安心した。丁未子さんも雀躍りして喜んだ。――が、この離れを借りる約束が松子夫人と何日どこで二人の間で交されたのか、丁未子さんには事後報告であったが、彼女は例の調子でなんの疑いもなく、すんなりと居を移し、嬉し涙をたたえて私に松子夫人への感謝の気持ちを伝えた。

高木治江著『谷崎家の思い出』

その後の波乱は秦恒平著『神と玩具との間』等に詳しく書かれていますが、この著者ならではの事実がその後もちりばめられていったであろうことが想像されます。

あとがきを友人が書かれています。その中に次の一節があります。

それからあなたの原稿には間に合わなかった武市遊亀子さんの亡くなられたときのこと。

高木治江著『谷崎家の思い出』

丁未子夫人との離婚交渉から松子夫人の前夫との離婚、谷崎と松子夫人との結婚に至る間の壮絶なやり取りの間の丁未子夫人の友人である著者の視点についてはもちろんですが、『卍』のお手伝いの前任者、武市遊亀子さん死のことが間に合わなかったことは残念です。今、この人のことが非常に知りたいのですが、なかなか資料が見つかりません。

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