本「映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形」|映画を誤読する自由を
ネタバレを観てから映画を鑑賞するほうが失敗せずに楽しめる,らしい.
以前話題になったあの本を今更読んだ.
刺激的なタイトルが故に,元ネタとなった記事などなどは結構炎上したらしい.しかし,内容自体は的を射ている部分もあり,興味深かった.
筆者によると早送りで視聴するなどコンテンツを高速で消化するスタイルはすべての世代で浸透しつつあり,いずれ普通の視聴スタイルとして定着するかもしれないとのこと.技術の発展とともに,あらゆる生活スタイルが変わってきたのと同様に,映画の楽しみ方も変わっていくのだろう.
刺さった文章
本書の文中にもあるように,映画には「誤読する自由がある」.100%解釈しきれない余白があるからこそ,想像をしたり,何度も繰り返し見て自分なりの誤読をする楽しさがあるのだろう.ネットを調べれば頭の良い方のスパッと簡潔な気持ちの良い”答え”が見れるとしても,足りない頭で一生懸命考えて咀嚼した”誤答”のほうも同じくらいに大事にしていきたいと思う.すべてのカットに意味がある・きっと意図があるという前提で作品を楽しんだほうがどっちに転んでもお得だな.
何か物事を解釈するときには,それまでの経験則に当てはめようとするのが最初のアプローチとなる場合が多い.それまで抽象絵画をたくさん見てきた人であれば,これまでの経験則を活かし,どういう風に楽しもうとすれば抽象絵画を理解できるかを知っている.だから,楽しむことができる.二郎系ラーメンに行ったことがない人が最初にいく時に,カスタムが分からずにあたふたしてしまうのも結局は同じ理屈だ.
もちろん,怖いから二郎系ラーメンを食べない選択肢もある.食べ慣れてきたカップラーメンをコンビニで買って食べ続ける人生も決して間違っていない.ただ,一つ思うのは,あたふたしながら食べる二郎系ラーメンはそれはそれで美味しいという話だ.不慣れな場面を何度も何度も繰り返すことで自分の領域が広がっていき,知らないジャンルのものも楽しめる余裕を作っていくような人生も悪くないんじゃない.
共感できない価値観に向き合い理解に務めることに,なぜ,コスパが悪いと感じてしまうのか.それは,映画の中のキャラクターだからというのも1つの理由かもしれない.とっても仲の良い友人の知られざる一面を知った時に,理解できないからといって,突き放す人はそう多くないはず.きっと自分の理解できる範囲で歩み寄ろうとするのではないだろうか.
現実はそうするけど,映画鑑賞ではそうしない.なぜなら,限りあるエネルギーをそこに注ぐ暇がないからだ.言葉を選ばずに言えば,所詮,創作の登場人物に歩み寄るためのエネルギーがあれば,ほかのことに使ったほうが有意義に過ごすことができるからだ.
これも結局,映画を観る行為があらゆるものの中で優先順位がそう高くない,シンプルな娯楽のひとつの「コンテンツ」として楽しんでいる人が多いからかもしれない.Tik tokのショート動画を100%真剣に集中して観ている人がそう多くないのと結局は同じ.正座して集中してみている人がいたらごめんなさい.
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