8K×文化財のデザイン、なにが面白かったか
ここ数年「8K×文化財」というテーマでコンテンツ開発に携わっていた。一区切りついたので、感じていたことをざっくり思い出して書いてみる。
開発したコンテンツは、東京国立博物館にて「未来の博物館」というテーマで展示された。
2つのコンテンツがあり、ひとつは「茶碗を鑑賞する」、ひとつは「仏像を鑑賞する」というもの。
どんなものかは以下の紹介ムービー(70秒)を参照のこと。
暴くことの暴力性*1
業務では、何十時間と仏像と向き合っていた
画面内の仏像を回したり、LED調の光を当てまくっていた
あるときふと「ほとけ様にこんなことしていいんだっけ?」と思う瞬間があった
強い光を照らす=神秘や権威で守られているベールを剥がし、暴くこと
そこにある種の暴力性を感じとった
信仰心がないので、物質としてフラットに仏像を見ている自覚があった
にもかかわらず、こんな気持ちが湧いたことに少し驚いたのを覚えている
暴くことで親しみやすくなる
茶碗のコンテンツも「暴く」側面がある
限られた人しか触れない道具を一般人の手に持たせ、秘密をばらす面白さ
茶碗は否応でも茶道という“権威づけられた”世界を思わせる
神秘や権威があるものを暴くから面白い
権威づけられたものを、触らせることで民主化したと言えるかもしれない
42行聖書とまでは言わないけれど、似たような役割は果たしている
コンテンツを説明するときに、ずっと「ガラスケースに阻まれて見えなかったものが見えるようになる体験です」と言ってきた
ガラスケースはもちろん、光学的・物理的な壁として説明している
いま振り返ると、ガラスケースは文化財の持つ権威・知識の壁を暗喩していたのかもしれない
あるいは、ガラスケースは来館者が自ら生み出した苦手意識の壁かもしれない
研究員・デザイナーの相性はすごくいい
プロジェクトでは、研究員(学芸員)の方々と議論を深めながらコンテンツを作っていた
メンバー内で「茶道の経験が長ければ長いほど、茶碗を自由に回すことに抵抗感を覚えるかも」と話していた
そう言いながら、デザイナーも研究員もそこに忌避感はなかった
中立的な視点に立ち、人や物を観察する点が二つの職業に共通しているからだと思う
そもそも|驚異の部屋《Wunderkammer》を始まりとした博物館自体がそういう性格を持っている
物をひたすら陳列する
そこに作家性だったり、特定の流派・宗教への忖度は薄い
作家性の強い館とのプロジェクトだと、話はもう少し通じにくかったのでは*2
感覚を微分する
「このコンテンツ、デジタルでやる意味ある?」
デジタルコンテンツの話になると必ずついて回る話
ありえる指摘としては、「わざわざセンサーと8Kモニターを使わずとも、色と素材を完全再現したレプリカがあればいいのでは?」がある
個人的には、それだと体験の質が下がると思う
「実物を見る」というより「コピー品を見る」という意識が強くなる
実物とレプリカが同じ三次元空間上にあることがマイナスに働く
実物と写し、という主従関係が生まれる
否応なく「私はいまコピーを触っている」と意識してしまう
茶碗のコンテンツはディスプレイを通して実物にアクセスしている、という構造がよかったのだと思う
3次元の実物から、触覚的特徴は3次元のまま、視覚的特徴だけを2次元に微分するのはいい選択だった
モニターは「情報を見る」というシグニファイアがあり、おあつらえむき
また、3次元の本物と並列で比較されないので、色味や質感に対する忠実度のオーダーが広くなる
ここに、単なるレプリカを使わないメリットがある
視覚と触覚を分ける=情報処理のスイッチングを助ける
プロジェクト開始当時、茶碗をどう鑑賞したらいいか全くわからなかった
研究員の話を聞きながら、プロがどこを見ているのか理解していった
質感、色、使われている技法、重さ、形……
視覚、触覚、両方に見るべきポイントがある
素人がそれを意識して見ることは難しい
白いレプリカ(触覚)と8Kモニター(視覚)に感覚を分けることで、鑑賞を補佐できる
「まずは8Kモニターで色合いを見てみよう」→「一旦、色合いを見るのはやめて、手元で重さや手触りを感じてみよう」
どこを見るか視点を意識的にスイッチすることができる
困難は分割せよ
重量は感覚のストレージとして機能する
「実物の茶碗と同じ大きさ・重さのレプリカ」
重さと大きさを感じられるのがいいことだと思う
破れたり欠けたりしない限り、重さは数百年変わらない
数百年前から変わらないものを持っている、すなわち今ここで触っている感覚と、数百年前に触っている感覚に大きな差がないということ
絵画や書は温湿度や紫外線による劣化の影響を受けやすい
一概には言えないが今回のケースでは、触覚的情報は視覚的情報より時間耐久性があった
つまり、繊細な修復処理や複雑な色彩の再現シミュレーションといったコストがかからないということ
触覚刺激の共感力、親密性
身体的な刺激・接触は親密さを感じさせる
特に手は機能的/社会的、両面で強い役割を持っている
ペンフィールドのホムンクルスはその分かりやすい視覚化
「この器は信長の弟が持っていたらしい」「彼もこの茶碗を持ったとき同じ気持ちを抱いたかも」
時を隔てた人間とのコミュニケーション手段、そのインターフェースとして茶碗が機能しているといえる
「現実でできないことができる」シグニファイア
デザイナーは体験の軸を「現実ではできないことを体験できる」としていた
繰り返し言い続け、技術者と研究員にもこの思想を刷り込むことができた
「現実ではできないこと」=鑑賞者が人生で経験したことのない行為
すなわち鑑賞者側にメンタルモデルがない
茶碗をコントローラーにしたことのある人は少ない
仏像に懐中電灯をびかびか当てたことのある人は少ない
だからこそこの特異な行為を強く促す必要がある
GUIで操作方法を示していたが、足りなかった
展示造作込みできちんと誘導すべきだった
空間デザインの担当者をしっかりディレクションすべきだった
仏像コンテンツは画面内と画面外(空間)が乖離していた
仏像コンテンツは、画面の内外をもっと調和させるべきだった
グッドデザイン賞の審査員コメントが頭に残っている
まさしくこれが目指す体験であり、実証実験でも重視したことだった
しかし展示では「明るい会場に120インチの窓が置いてある」という印象
空間デザインでもアフォーダンスを強化すべきだった
「会場が暗いから、この懐中電灯を持って照らしてみよう」が理想*4
プロジェクトが始まった1,2年前、最初に描いたアイデアスケッチはそういうものだった
明るい場所で懐中電灯を使う人はいない
画面の中は暗かったけど、それは窓の向こう側が暗いだけ
会場全体を暗くすることで、画面の中の暗さを現実世界に拡張させることができたはず
画面の中と外の境界を融かすことができたはず
結局は体験としての新しさ勝負になる
8Kがコモディティ化している中、今後どんなコンテンツが受け入れられるのか*5
当初は8Kが目新しく、メーカー×博物館という構図も目を引いた
それも今は昔
平面的な文化財をただ8Kモニターに写すだけならやる価値はない
ではどうすればいいのか
A. 視覚的なオーダーを大きくする?
画素数を上げて超拡大できるようにする
e.g. Mauritshuis × Hirox Europeによる真珠の耳飾りの少女
サイズを上げて身体感覚を超える
e.g. Immersives exhibitions - Gianfranco Iannuzzi
B. 視覚以外の感覚を使う?
茶碗は8Kに触覚を足した
e.g. Follow your nose - Museum Ulm
特定の感覚を足したり、分解能やリミットを上げただけで本質ではない
結局は、コンセプトが面白いかどうか、それが全てという当たり前の話になる
問いの重要性
面白いコンセプトをどう立てたらいいのか
プロジェクトのスタート地点で適切な問いを設定した方がいい
「本来は持って使う道具なのに、鑑賞中は眺めることしかできない」
素朴な違和感、問いがよかった
「じゃ実際に触らせればいいじゃん」
問いに対するこのシンプルで力強い答えもばっちりはまっていた
加えて、心構えとして「それデジタルでやる意味ある?」を念頭に置くべき
さらに「それ8Kでやる意味ある?」というのも考えてみる
メーカーの立場上難しいことだけれど、誰かがプロジェクトの枠の外から俯瞰して見てあげないといけない*6
おわり