見出し画像

『坂道と転び方』 -2- 正しくも正常ですらない生きる美しさ (2/4章) / 小説 【#創作大賞2024】 《完結》

【あらすじ】
「よろしい、今日から君は私の理学療法士りがくりょうほうしだ。私の・・・理学療法士だ」
 彼女である小桜こざくら みさきは僕である藤森ふじもり 誠也せいやに言った。
 緩やかに始まった坂道が支配する僕たちが生まれ育った街で、光からも遠い場所で僕たちの日々は始まる。
 僕たちは寄り添い、そして少しずつ立ち上がる。ただ岬が僕に歩き方を見せることは決してなかった。
 現職の理学療法士が記す、人生における転倒かた立ち上がるための本格リハビリテーション小説。
 僕と岬はまだ知らない。再び前に進むために傷跡を互いに知らない。

【目次】
-1- 「世界から逸脱した暗い部屋」
-2- 「正しくも正常ですらない生きる美しさ」
-3- 「些細で深刻な生涯を縛る傷跡」
-4- 「私を呪った坂道と私を救った転び方」
《書き下ろし》「呪われた私と、私が呪った理学療法士」

-2-「正しくも正常ですらない生きる美しさ」

 僕がみさきの家に通う日々が始まってしばらく経った。母に事情を説明すると、どこか安心した表情で目尻を和らげた。

「よかったね」

 母は僕に一言だけ言うと、軽い足取りでキッチンへと消えていった。

 礼子れいこが受傷した腰椎ようつい圧迫骨折あっぱくこっせつの多くは尻餅しりもちをついて脊椎せきついを構成する円形の椎骨ついこつ、骨が潰れてしまう。

 潰れ方の程度によっては保存療法で治療は進む。胸から腹部へと伸びる硬いコルセットを装着して、痛みに合わせて車椅子へと起きる練習から始まる。経過が良ければすぐに歩ける人だっている。しかし年齢を重ねれば重ねるほど歩くことが難しくなるのは変わらない。

 母の勤める地元の小さな病院に入院した礼子は、徐々に痛みは治まってきており車椅子で食事を取っているとのことだった。

「落ち着いたら坂ノ上病院さかのうえびょういんに転院するんだって。もう転けないように足腰を強くしないとって、礼子さんもやる気なの」

 病院で見聞きしたリハビリの経過を母はおかしそうに話していた。僕はとりあえずホッと胸をなでおろす。現在は急性期の治療が終わると、より積極的なリハビリを行う回復期病院かいふくきびょういん、もしくは地域包括ちいきほうかつケアユニットと呼ばれる地域に根ざした場所でのリハビリが進む。

 ひとまずは安心だろう。

 玄関に置かれた大きなプラスチックの容器と紙袋を持ち、僕は玄関のドアを開ける。

「それじゃぁ。行ってきます。礼子さんに岬は元気だよって伝えてね」

 玄関先まで見送りに来た母は、エプロンで手を拭きながらうなずく。

「岬ちゃんのことをよろしくね。ちゃんと食べるように伝えておいて」

「岬はいつも感謝しているよ。申しわけないとも言ってた」

 なにを! と母は腰に手を当て破顔はがんする。

「礼子さんと岬ちゃんにはずっと誠也のお世話をしてもらったからね! 迷惑かけちゃダメだよ?」

 わかったよ。と僕は玄関の扉を開ける。まるで小さな頃に戻ったみたいだと差し込む太陽の光に、僕は目を細めた。

 新しく始まった日課は同じように始まる。母の作ったお弁当、多くは夕飯の残りであったけど、ひとりで食べるには多すぎるほどの量が入ったプラスチックの容器と紙袋を持って坂道を登る。

 途中、学校に向かうランドセルを背負った子供たちとすれ違った。心地よい春先の空気。大きく息を吸い込むと、花の甘い香りが鼻腔を満たした。

 長い坂道を登り岬の家にたどり着く、インターホンを押すと、はーい。と声がして玄関の隣にある窓が開いた。開かれた窓から岬が頭をかきながら、目覚めきれない顔を出す。置かれたベッドの上から身を乗り出して頬杖ほおつづえをついた。手作りの縁側えんがわ朝露あさつゆで濡れたままだった。

「いつもいつも真面目だねぇ。私もすっかりと健康になりそうだ」

 朝日が辛いと両手で顔を包む岬に僕はあきれながら笑う。

「いいことじゃないか。僕だって母に毎朝起こされるんだよ。仕事に行く前にお弁当を僕にもたせないとどうも心配らしい」

 持ち上げた紙袋に、いつも頭が下がるよ。と岬はあくびをした。

 ちょっと待ってて。と窓が閉じられてごそごそと岬が身支度みじたくを整える音がした。ドアに背を預けて待っていると廊下のきしむ音もする。岬はきっと歩いて洗面台まで移動している。

 決して岬は僕に歩いている姿を見せようとしなかった。

 岬の気持ちもわかる。もう僕はいまさら岬の歩き方をどうしようとか、社会で働くために訓練をとか、今まで口にしていた理学療法士としての僕らしいセリフは言わないことにしていた。

 岬と共に始まった穏やかな日々。

 お互いの間にある過去だけが分厚い壁となって存在している。しかし、春先の濡れた軒先のきさきと似て、手先は冷たくとも心の中は暖かい。

 入っていいよー。と岬の声がして僕は家の中に入る。そして岬の部屋のドアを開けると、白いセーターと細いスキニージーンズを着た岬が座椅子ざいすに腰かけ、パソコンを起動したところだった。

 髪は整えられており、黒髪は肩の下まで伸びていた。遮光しゃこうカーテンに閉ざされた部屋で、照明の光を艶やかな黒髪が反射している。病的とも言えほど華奢きゃしゃな体付き。スキニージーンズに包まれた左足では布が余っている。伸びた左足は尖ったまま指先が固く閉ざされていた。

「はい。これが今日の分。母特製の夕食の詰め合わせ」

 いつもすまんね。と岬は僕から紙袋を受け取り、中身を見た。

「ほうほう。煮物に揚げ物。マカロニサラダとたくさんのご飯。まるで高校生男子の食事だね」

「そうなんだよ・・・毎晩毎晩張り切って作っているから大変なんだ。岬がいなかったらとてもじゃないけど食べきれない」

「きっとおばさんは私の分まで意識して作ってるんだろうなぁ。ありがたいけど少し申しわけない」

 いいんだよ。と僕は壁を背にして座る。すすけた天井で吊られた丸い蛍光灯けいこうとうが揺れていた。

 ほどなくして岬が背中を丸めて作業を開始する。

 いくつも分割された画面で、電子化されたフィルムが並んでいた。画面に映し出されるのは、知らないお店でマネキンの髪を切る女性の姿である。

 岬はわずかばかりの賃金を受け取りながら、広告動画を作る生活をしていた。だとしても人ひとりが自立して生活するにはとても足りず、祖母の年金を頼りになんとか生活をしているという。

 終末の足音をずっと聴きながら生活を岬はずっと続けていたのだ。

 僕の知らない間にずっと暗い部屋で生きていた。

「しかし動画の編集なんて、テレビ局でしかできないと思っていたよ」

 僕が声をかけると、岬はパソコンの画面に視線を残したまま頬をほころばせる。

「素人仕事だよ。それでも需要じゅようは少なからずあるから。映像だって送ってもらえれば編集できるし、映像をつないでテロップを入れるだけ。必要があればナレーションは外注がいちゅうできるし。私みたいに引きこもりでも生きていける世の中に感謝だね」

「すごいよ。なんと言うか、画面の中にいる人が生き生きとして見える。編集の仕方でこんなに印象が変わるんだね」

「演出と言ってほしいね」

 岬は機嫌をよくして、ふん。と鼻を鳴らす。再生されてパソコンの画面いっぱいに広告動画が映し出された。

 誰もいない美容室でマネキンの髪を切る女性が映し出されていた。お店の外観やよく磨かれたハサミや鏡が映し出される。穏やかな曲が流れながら最後にお店の住所が表示され、『夢は叶えることができる』と最後にディスプレイに映し出された。

 僕は拍手をする。パチパチと渇いた拍手に岬は腕を組んで天井を見上げた。

「僕にはテレビで流れる広告と、変わりないように見えるよ。本当に岬が作ったとは思えない」

 失礼だなと岬は薄い唇を片方だけあげる。

「まぁ。コツはお店の広告だけにならないように、楽曲に合わせてストーリーを作ること、余韻よいんを持たせて目の前のお話が視聴者の中で完結するように仕向ける。十五秒くらいの広告だったらそうするしかない」

「でも本当に。言う通りだね。いつか映画とか撮れるんじゃない?」

「映画は無理だな。機材も人員も、何もかもが足りない」

 そっかと残念そうにする僕へと体を向けて、岬は手を伸ばす。

 テーブルに置かれた携帯端末けいたいたんまつが震えて、僕たちは同時に視線を向ける。高山こうやま さとると表示されていた。

 岬は震える端末をじっと見ていた。手に取ることはせずに鳴り止むのをじっと待っている。

「取らなくていいの? 外に出ていようか?」

 僕が言うと岬は首を横に振る。

「いいや。ここにいてくれ。頼むから」

 わかったと返事をすると、端末が震えるのを止める。息絶いきたえてしまったかのように部屋は静かになった。岬は静かにため息を吐く。

「ずっと昔に別れた元婚約者だよ。気にしないでくれるかな?」

 もちろんと言いつつ、僕の胸中は穏やかでない。岬はしばらく端末を眺めた後、再びパソコンへと向き直り腕を組む。

 弥生やよいは病院を婚約者と一緒に退院したと言っていた。五年も前に。そして僕が岬の家に通うようになっても、岬は一度も退院してからの話をしなかった。

 婚約者がいたはずなのに、岬は祖母とたったふたりで過ごしていたのだ。わざわざ聞かなくてもだいたい状況は想像できる。だから僕もあえて昔の話をしなかった。

 いや避けているだけだな。と僕は首を横に振る。どんな顛末だろうと岬が傷つくのはわかっているから。仕方がないと自分に言い聞かせる。

「わかった。気にしない」

「本当?」

「本当」

 そっか。岬は画面に視線を戻しながら、肩の力を抜いた。

「そういえば君にプレゼントがあるんだよ。誠也せいやは描くことを辞めてしまったと言ったけど、私はまだ誠也が絵を辞めることは認めていないから」

「身勝手だなぁ。僕だって思い悩んでせっかく辞めたのに」

「それでも君の絵は上手だろう? 私よりも」

 岬はパソコンの下から一枚のコピー用紙を取り出し手渡す。紙には白衣を着たライオンのような生き物が書かれている。線はいびつで頭身のバランスが悪い。

 左右非対称さゆうひたいしょうで幼い子供の落書きみたいなライオンが右手を上げて爪を広げていた。

「これは・・・なんとも味のある作風だね」

「お世辞はいいよ。誠也は知っているかな? 最近は映像でもリハビリテーションの需要は高まっている。世間一般にリハビリテーションを知ってほしい、ひとりで悩む障害を負った人に対して、動画の中でリハビリをする。まぁ商業的な考えもあるだろうけど、この動画を見てくれ」

 岬がディスプレイに並べられたフォルダから動画ファイルをクリックすると、タンクトップ姿の男が映し出された。男は自分の腹筋を指差して効率的な筋肉トレーニングの方法を伝えているようだった。腰痛を予防するための体操だ。

「いろんな理学療法士がいるものだね。知らなかった」

「誠也は世間の流れにはうといと見える。私よりずっと世間に近いのにね。まぁ、次のクライアントは彼だ。テロップ入れと場面つなぎ、できればキャラクターを添えてとのことだった。キャラクターはお任せすると。厄介やっかいだよな。キャラクター原案と作画は外注するのにも金がかかるし、提示ていじされた予算では足りない。そこで絵師である誠也さんの出番だ」

「出番って・・・僕は何年も絵を描いていない」

 ずっと昔に諦めた夢。誰もと同じ人生を歩み、他者とは異なり特別であることを諦め断たれた夢。

 岬に渡された用紙に書かれたいびつなライオンが、僕に忘れた夢を思い出させてくれている。遠い昔に忘れてしまったはずの気持ちもまた思い出してしまっている。

 その時、玄関のインターホンの鳴る音がした。ふふん。と岬は腕を組む。

「どうやらプレゼントが届いたようだね。取りに行ってくれないか?」

 さっきから何を言っているのだろうか。言われるままに僕は玄関へと向かい、扉の向こうに立つ配達員か荷物を受け取る。平たく大きなダンボール。両手で抱えるとズシリと重さを感じる。ご丁寧に包装までされており、誕生日でもないのに赤いリボンが巻かれていた。

 岬の部屋に戻ると、岬は両手で這うように移動し僕を見上げる。絶対に歩き方を見せてはくれないつもりだなと僕は息を吐く。

「ほら。これが僕へのプレゼント?」

「そうだ。開けてみよう」

 床に置いて包装ほうそうを丁寧に開くと、岬は両手をついて覗き込む。肩を揺らす度に髪が左右に振れ、中身を見た僕は目を丸める。

 知ってはいたが触れることはなかった物が目の前にある。

「液晶タブレット?」

「そうだ。これならデータのやり取りも簡単だからな。しかし結構な値が張るな。先行投資と考えたら納得もできるけど」

 完全に予算オーバーだよ。とふふん。と岬は頬を膨らませて鼻を鳴らした。

 岬はダンボールに包まれたままの液晶タブレットに触れる。タッチパネルに付属のペンでデータ上に絵を描く近代の画材。アナログな絵描きだった僕が触れることはなかった画材だ。

「やっぱり描ける自信はないよ。そもそも僕はアナログの絵描きだし、使い方もよくわからない」

「やってみなければわからないだろう。試してみなければ改善点もわからない。できないと思ったままでは前に進めないんだ。隣にいて必要な時には励ましてあげるから大丈夫。君たち理学療法士はよくそうするだろう?」

 むぅ。と僕は息を飲み込む。初めての動作を練習する時、患者をうながすために使う言葉でもある。車椅子に乗っている姿勢から、久しぶりに立ち上がると高くなった視線に恐怖感を感じる。だからこそ患者が一歩踏み出すために勇気づけ、時には発破《はっぱ》をかけるために言葉を選んだ。

 場面が違うだけで同じだと思った。今では僕が再び前に向かって、一歩踏み出すことを恐れている。

 岬は口を結んだままの僕を置き去りにして、自分のパソコンから配線を伸ばすと、部屋の中央に置かれたままのちゃぶ台へと液晶タブレットを置いた。気持ちも決めきれないまま、目の前でリハビリを行う準備がされる気分だった。

 僕は肩の力を抜く。体と心の準備が整っていなくても、セッティングされた環境は逃げ出すことを許してくれない。いやおうにも逃れられないとなると自然に心は決まるものだ。

 セッティングを終えた岬が笑みをこらえきれずに僕へ手招てまねきする。

「さぁ。これでわずかばかりの貯金もほとんど失ってしまった。私が餓死がししないかどうかは、君の腕とおばさんの料理にかかっている」

「うちの母が作る料理の方がウェイトは重たそうだけど・・・期待はしないでくれよ」

 期待するよ。と岬は起動された液晶タブレット、そしてプラスチックのペンを握る僕を見た。重たさは普段持っていたペンと変わらない。すごいなと僕は眉をあげる。

 説明書を片手にソフトを起動し、ペン先で画面をなぞる。不思議と体はまだ覚えていてくれた。曲線は思い通りの線ではなかったけど、自然と手が動いた。

 僕は操作方法を確認する。消しゴムの設定、さまざまなペン先が選べること。何よりも、ペンを変えなくても線の太さが変えられることに、絵の具を使わなくても思い通りの色が作れることに驚いた。しかし慣れないペン先では思った通りの線が描けない。

「すごいな。これぞ文明の利器だよ。でもダメだ・・・線が綺麗に描けない」

「えぇと。こういう機能が便利じゃない?」

 岬は僕からペンを奪い取ると、設定画面から手ブレ防止機能という項目をいじっている。

 そして岬がペンで画面をなぞると、僕よりもまっすぐな線が引けていた。僕は目を丸める。

「ほら。これなら初めての私でもまっすぐ線を引けるね」

「でもこれは・・・ちょっとズルじゃないか?」

「ズルなもんか。誠也がペンを握るのは十年以上ぶりじゃないか。それとも理学療法士である誠也は言うのかい? まだ歩けなくても歩くために杖や歩行器ほこうきを使うことがズルだって。これもリハビリだよ」

 ふーむ。と僕は腕を組む。反論の余地がない。僕は手振れ防止機能を用いながら今の自分に合う設定値へと調整する。ほどよく違和感のない設定値にたどり着き、まずは太めの筆へと設定を変え、色を当てながら全体のイメージをつける。紙に絵の後がしみて広がったようなライオンの輪郭りんかくができた。

 岬は僕の隣でしきりに操作方法や使い方を検索していた。レイヤーと不透明度を使えば楽だと僕に教え、紙を上に対してなぞるように白衣のライオンを粗い線で描く。思えば僕が最初に落書きを書き始めた時にも、同じような素振そぶりでキャンパスを覗き込む岬が隣にいたことを思い出す。

 ようやく線画にたどり着く頃には遮光カーテンの隙間から部屋に西日が差し込んで、夢中になって書き続ける僕よりも、岬が先に根を上げた。食事を忘れて作業を続ける僕の隣で、岬は母の作った弁当を食べて、煮物の断片を箸で僕の口に入れる。

「しっかし、絵を描くのって大変なんだな。スラスラッと誠也が描いているのを見ていたから、もっと楽かと思っていた」

「楽じゃないよ。機材に慣れていないのもあるし、思った通りに描くには時間がいくらあっても足りない。書き終えても足りないところばかりだ」

 そうですか。と岬は床の上に寝転がり、僕は筆を進める。

 正直楽しかった。

 こんなにも絵を描くことが楽しかったのはいつぶりだろうか。少なくとも美大を本格的に目指していた時、僕は絵を描くのが楽しくなくなっていた。岬が僕から離れてしまった時、いや、僕が岬から離れてしまってからだ。

 結局こういうことだったんだなと。僕は慣れないレイヤーという機能に悪戦苦闘あくせんくとうしながら絵を仕上げていく。小さなライオンのキャラクターを描くのに、書き始めてからもう八時間が経過していた。まぁ最初にしては上出来だと。僕はペンをちゃぶ台に置いた。

 忘れずに保存をして、岬に出来上がった絵を見せると、おぉ。と岬は両手で体を支えて僕の絵を覗き込む。

「すごい! ライオット伯爵はくしゃくがちゃんと産まれている」

「もしかして白衣を着たライオンの名前?」

「そうだよ。体や心のことで悩む民衆みんしゅうに、効果的なリハビリを伝える優しい貴族のライオット伯爵。私のライオット伯爵だ」

 設定多すぎない? と僕が問うと岬はいいんだと胸を張る。子供の時と同じ笑顔のままで。

「この調子でどんどん描いてもらいたいよ。ライオット伯爵には妻もいて、子供もいる。幸せな家庭をきずいているんだ」

「家族も当然ライオンなのかな?」

 もちろんだよ。と岬は答えながら液晶タブレットとパソコンをコードでつなぎ、描かれたライオット伯爵をパソコンへと移動させる。そして別のソフトを起動させると画面上にライオット伯爵が現れた。

 岬は左手でキーボードを叩き、右手でマウスを操作する。ライオット伯爵の手足にはピンが表示され、岬は置かれたピンをマウスで動かす。

 するとライオット伯爵の右手が上下して、首をかたむけながら交互に動いている。

 驚いた。動いている。唖然あぜんとしていると岬は得意げに笑みを浮かべる。

「まぁ。今の私は君の絵に鼓動がなくても命を吹き込むことができる。動画でよく見たことがあるだろう?」

「あるにはあるけど。自分の絵が動くとなんとも言えない感情になる。本当に生きているみたいだ」

 だろう? と岬はディスプレイから僕に向き直った。

「こんなに素敵な絵が描けるのに、なぜ描くのを辞めてしまっていたんだ?」

 「それは・・・僕は僕自身の絵を描けなかったからだよ。誰もがどこかで見たことがある風景や自分しか描けなかった。当たり前で普通の感性しか持ち合わせていなかったんだよ。誰もと同じ、普通の絵しか描けなかった」

「いけないことなの?」

「ダメではないけど評価はされなかった。当たり前のよく見る風景だけでは、誰の心も振るわせることができないんだから」

 難しいな。と岬は腕を組む。難しいよと僕は画面の中で手を振るライオット伯爵へと視線を移す。このキャラクターだって岬に提案されないと生み出されることはなかった。

「だから誠也は描くことを辞めてしまったんだね。正常から逸脱いつだつできなかったから。普通だったから」

「その通りだよ。覚えている? クラスメートがコンテストで優秀賞を取った時に僕の心はポッキリと折れてしまった」

「彼のことだね。祖母から聞いたけど、彼は近所のスーパーで働いているらしいよ。広告にイラストを描く時には重宝ちょうほうされているらしい」

 難しいね。と岬はぽつりとこぼして、難しいなと僕は壁に背中を預ける。願えばうまくいくほど、この世は単純にできていない。

「本当なら何度でも立ち上がるべきなんだろうね。何度転んで、挫折しても立ち上がり前にすすむ。そうやって誰もが成功する。でも全員が立ち上がれるわけじゃない。僕みたいに立ち上がれない人もいる。自分には努力する才能がなかったって諦めるしかない。僕みたいに」

「情けないことを言うんだな。理学療法士のくせに。でも・・・今の誠也の方が私には好感が持てる。絵を描くのを辞めているのを知っていたから、私は挫折した誠也に絵を描いてほしかったんだ。ずっと昔から誠也が絵を描くのを見るのが好きだったから」

「知っているよ。だから高価な液晶タブレットを買ってくれたの?」

「勘違いするな? もちろん依頼を達成するために必要だったという打算ださんもあるから」

 大人だろう? と岬は目を細めて頬を緩める。まったくそうだと僕が破顔すると、岬はそれに・・・と続ける。

「ありのままの誠也を見たかった。たとえ絵がまるで描けなくなっていても・・・情けなく立ち上がれない誠也を見たかったんだ」

「僕の画力を? ちょっと見せたくはなかったけど」

「違うよ。うまく言葉にはできないけど・・・ちょっとした仕返しかえしでもあるんだよ」

「・・・僕はひどいことをしてしまったからね。その仕返し?」

「そう。そして私を見捨てなかった仕返しだよ」

 岬はタブレットをかかげてライオット伯爵を眺め、目を細める。よほど気に入ったらしい。

「最初、誠也が私の部屋に訪れた時、私はあえてありのままの自分を見せたよ。荒れ果てた部屋に、ボサボサの頭。ヨレヨレになった部屋着。情けなく変わり果てた私を見せた。変な気分だったよ。こんなにも会いたかったのに拒絶したくなった」

 ごめん。と謝りそうになって急いで口を結ぶ。言わない約束だ。岬は僕に構わず続ける。

「誠也がいなくなってからの気持ちを全部言ってやろうと思った。支離滅裂しりめつれつだとしてもね。そして・・・私を嫌いになってほしかったんだよ。私はすっかりとダメになってしまった。昔みたいに手を引いて走ることはできない。それどころか今の私は、家の前にある坂道を下ることだってできないんだ。でも誠也は私を拒絶しなかった。私が一方的に悪いはずなのに、謝りさえした。だから仕返しをしてやったの」

「当たり前じゃないか。正直驚いたけど、だから僕はまだここにいるんだと思う。ここにいてもいいと思う。もし岬が昔みたいに格好よくて、僕の知らないところで幸せだったら隣にいることはできないよ。違う人生を歩んでいて一緒に転んで、立ち上がれないままだから、また隣に並べた」

「お互い情けないな。正常からは逸脱している。転んだらすぐに立ち上がるのが普通なのに、私たちよりずっと苦労して、重い障害を抱えながら必死に生きている人がいるのに、私たちはこんな暗がりにふたりでいる」

 正常からの逸脱。岬と一緒ならずっとこのままでも悪くないと思えてすらいる。許されないことだと知りつつ、同じくらいのウェイトで考えている。

「転ばないように前に進むことは、本当に不可能だと思えるほどに難しいね。立ち上がることはもっと難しい。みんな本当に強いよ。自分が情けなるほどに」

 転んでしまうまでわからなかった。僕も本当にダメだなと考えてしまっても、岬の隣にいるならば、そんなに悪い気はしない。

「そうだね。健常な人と軽くても私みたいな障害を持つ人の転倒は、意味が大きく違うと思うんだ。一度の転倒でもう二度と立ち上がれないと思ってしまう。もちろん精神的な意味でね。もう当たり前の人生を歩めないと思ってしまほど、私はひどく転んでしまった。どうしようもないほどに。足もこんなに硬くなってしまった。せっかく作ってくれた装具も履けずにね。誠也には絶対見せるつもりがないけれど、私の歩く姿はひどい有様ありさまだ」

 おかしいだろう? と岬は自嘲気味じちょうぎみに笑った。僕は首を横に振る。

 岬と再び出会う前なら、一緒に正常から逸脱していなければ理解はできなかった。

「いつかは立ち上がらないといけないな。でもうまい立ち直り方が思い浮かばないよ。今はこのままでいいとすら思える。ただ・・・岬が僕なんかと一緒にリハビリをしたいと思えたら、いつでも声をかけてくれ。できることはなんでもする」

 できることはなんでもする・・・か。と岬はタブレットをかかげ、視線を描かれた僕の絵に置きながら口を開く。

「君の言葉を信用してもいいならば、お願いがある」

 お願い?と首をかしげると、岬はタブレットを床に置き、僕の瞳の奥を覗き込みながらいった。決してそらしてはならない意志を、岬の瞳から感じる。

「私はありのままの自分を見せたし、君の見せたくなかった絵も見せてもらった。だから遠慮はいらないだろう? 祖母がね。転院するみたいなんだ。坂ノ上病院にね。入院の手続きを私にしてもらいたいらしい。だから誠也。一緒に来てくれないか? 前に車を出してくれるって言っただろう? 誠也の運転なら下手くそでも安心できる。車も怖いから」

 目を伏せる岬を見て、きっと過去の事故を指しているのだろうと思った。岬の左足が一部、機能を失ってしまった事故。

「わかったよ。久しぶりに礼子さんに会うから緊張するな」

「変わっていないよ。昔から変わらず近所の噂話と誠也のことばかりを話して困っている」

 なおさら緊張する。と僕が息を吐くと、岬はクスクスと声を押し留めながら笑った。

 画面の中ではまだライオット伯爵が手を振り続けている。果たして伯爵の家族はどういった姿をしているのか。僕は脳裏のうりで細い線を描く。まっすぐと何度も何度も。

 まだ完全に形になりきれない、頼りない細い線が幾重にも引かれては消されていった。

 次の日、軽自動車で坂道を登り僕は岬の家の前に車を止める。玄関のドアにできるだけ近づけて車を降りると玄関のドアが開いた。玄関の前では岬が車椅子に乗っている。

 古ぼけた青色の車椅子。くるぶしまで伸びたフレアスカートからは白いスニーカーが覗いていた。両方の足首は内側を向いており、固まってしまった左足首と、すっかりと痩せてしまったふくらはぎは目立たない。

「何年も外に出なかった気がするよ。灰になってしまいそうな陽の光だな」

 右手でひさしを作って陽をさえぎる岬の肌は白い。部屋の中で見るよりもずっと。

 まるでよくできた陶器の人形だなと苦笑する。

「日に焼けないようにしないと。まだ風は冷たいけど太陽の光は暖かい。灰にならないように」

 だね。と僕が助手席のドアを開けると、慣れたようすで岬は車椅子の車輪を回す。助手席まで近づくと椅子を掴んで立ち上がり腰を下ろした。僕は車椅子をたたんで後部座席へ乗せる。

 座席を倒して車椅子をセッティングし、僕は運転席へと乗り込む。

 坂をゆっくりと下り、通りに出ると坂ノ上病院へ向かった。道中、岬は車窓から流れていく景色をずっと眺めている。僕の家を通りかかり懐かしいなぁ。と目を細めた。

「本当に岬は外に出ていなかったんだね。買い物とかはどうしていたの?」

「配達か、祖母に頼んでいたよ。本当なら自分のおばあちゃんを助けなきゃいけないのに、情けない話だよね」

「うーん。世間一般にはね。僕は変に思わない。礼子さんには立派な外出の機会になるし、今は仕方がない」

 そういうところだよなぁ。と岬は僕に笑みを向け、車窓の外で流れる僕たちが生まれ育った街へと視線を落とした。

 しばらく走ると、街のはずれに建てられた四階建ての建物が目に入る。百床とは病院としては決して大きな病院とは言えないかもしれない。でも病床のすべてを回復期病床とすることはすごいことだと思う。

 それだけリハビリを必要としている人がいる。

 仕事は辞めたはずなのに、出勤する気分になったおかしかった。

 駐車場に車を止めて助手席の横に車椅子を置くと、岬は器用に車椅子へと移り玄関に向かって車輪を回す。僕も後を追いながら岬に並んで自動ドアの先へと進む。

 左手には受付があり、正面には円形のテーブルと自販機の並んだ談話スペースがあった。

「私は向こうで休憩しているから、受付はお願いしていい?」

 久しぶりの外出だからか、わずかに呼吸を速める岬に、僕はうなずく。

 受付には丸い黒目の大きな瞳をした女性が、事務用の服を着て僕を見上げている。

「ご面会の方ですか?」

「はい。小桜礼子さんの入院に立ち会いに来ました」

「失礼ですがご関係は?」

「知人になります。礼子さんの娘さんはあちらで休憩していますので、代わりに」

 受付の女性はちらりと談話スペースへと視線を向けると、車椅子に乗ったまま机に突っ伏す岬の姿があった。無理してるんだと僕は受付の女性に向き直る。

 女性は察した表情で、わかりましたと僕に書類を手渡した。まるで図書館の利用者カードみたいな用紙に、僕たちの名前と住所を記載きさいする。

 受付を済ませて再び岬の方を見ると、談話スペースには岬と車椅子に乗った病衣の老女、老女の乗った車椅子を押す藍色のスクラブを着た男がいた。肩幅は広くよく鍛えられている。

 髪は短く整えられてて、なぜか僕は彼が同じ理学療法士だとわかった。岬はうつむいてふたりの話を聞いている。僕は足を速めて岬のもとへ進み、隣に立つと岬が僕を見上げた。

 困ったような表情で、口元を歪めている。あらあら。と目を丸める老女と隣で男は怪訝けげんそうに眉間みけんへシワを寄せた。

「ええと。リハビリを担当していた畑中はたなかさんです」

 岬は畑中と呼ばれた理学療法士を見ようともせずに僕に紹介する。

「どうも。畑中です」

 言葉数は少なく憮然とした表情のままで畑中は僕に右手を差し出す。どうも。と細い僕の腕とは対照的に、筋が浮かび上がる畑中の右手と握手をする。

 あらあら。と老女は目を丸めて目線で僕たちを交互に見た。そして岬へと視線を移す。

「お嬢ちゃんは若いのにかわいそうだね。でもいい人がいて良かったじゃない。どこか悪いの?」

「ええと。左足があまり動かなくて」

「あらそうなの! 大変ねぇ。でも若いから大丈夫。早く車椅子を降りないと。おばあちゃんなんてまだ立てなくて。お嬢ちゃんより大変なの。元気を出してね」

 昔は歩いていたんですがね。畑中は口をへの字に曲げて言った。岬が肩をすぼめて、なるほどな。と肩に力が入る。かつて担当していた患者が、自分の処方した装具もつけずに、退院した時には歩けていたはずなのに、今は歩いていない。

 心情を隠すことない表情は、岬を奮い立たせようとしている意図があるのだろうか。

 だとしても今の岬にとってはこくだ。ふつふつと怒りにも似た赤黒い液体が指先まで満ち、わずかに震えた。

「大丈夫ですよ。岬は今、少しだけ休憩しているだけです。おばあちゃんだって疲れたら休憩するでしょう? 実は僕も理学療法士なんですが・・・ずっとリハビリし続けていたら体にさわりますからね」

「そうねぇ。頑張りすぎもいけないわね。無理はダメ」

 岬がハッと口を少し開けて僕を見た。岬の視線を感じながら僕は正面の老婆に笑みを浮かべてみせる。クスクスと笑い出した老女の隣で畑中は腕を組んだ。

「失礼ですが。おたくはどちらで働かれているのですか?」

 しまった。と我に帰った時にはすでに遅く、厳しい目線が畑中から僕に向けられている。

「ええと。今は病院で働いてはいないのですが・・・免許は持っています」

「ちなみに資格や実績じっせきなどをお持ちですか?」

「いいえ・・とくには・・・」

 勝ち誇ったように畑中が鼻を鳴らすのがわかった。畑中は力を抜いて腰をかがめて岬と同じ目の高さに合わせる。岬は目を背けた。

「私ははしくれではありますが、認定理学療法士でもあります。後、運が良いだけだと思いますが、学会発表も度々行わせていただいて・・・なのでいつでも相談してくれな」

 岬は答えない。今度は僕が目をせる番だった。情けないと思いつつ反論の余地はない。

 僕とは違う立派な理学療法士だ。世間や臨床という社会で認められる、僕が憧れていた理学療法士の姿をしている。

 それでは行きましょうか。と畑中は老女の車椅子を押し、老女は手を振りながら畑中と廊下の角へと消えていった。

 僕はふたりが去るのを見届け、椅子に腰を下ろす。どうしようもなく疲れてしまった。

「しまったね。つい余計なことを言ってしまった」

「なんで? 間違ったこと言ってないじゃん。入院している時は違ったのに、今ではいやな奴になってしまった」

「そんなことはないよ。彼も間違ったことを言っていない。理学療法士である以外何の実績もなくて、病院で働いていない僕より、彼の方がずっと立派だ。情けない」

 だけどさ。と岬は肩をすくめた。

「なんだか不思議だね。自分が悪いことをしている気分になっちゃった。あのおばあちゃんが頑張っているのを見て、私も自分が情けなく感じてしまったよ」

 でもね。と岬は顔を上げて僕を見る。

「誠也を連れてきてよかったよ。ひとりでは耐えられなかった」

「いい弾除たまよけになった?」

「それはもう。素晴らしい盾になってくれました」

 ひどいな。と僕が言うと岬は笑う。お互いにお互いへの言葉が本心ではないとわかっている。ただどうしようもなく、いよいよ社会から逸脱してしまっていると感じた。

 理学療法士として、患者として・・・そんな言葉がお互いの間で呪いのように漂っていた。

「それじゃぁ。そろそろ時間だから面会に行こうか」

 停滞した空気感を打ち切るために口火を切ると。そうだねと岬は胸を張る。

「あーあ。入院とリハビリの流れを説明してくれる先生は、私の主治医だった医師なんだよ。また怒られるなぁ」

「怒られる時は一緒だな。終わったら遠回りして帰ろう。礼子さんはきっと元気だろうし」

「賛成。おばあちゃんに会いに行こうか」

 岬は車椅子の方向を変えて廊下を進む。僕よりもずっと速い速度で。僕は足を速めながら岬の隣へと並ぶ。廊下の角を曲がると広く、長い外来診療用の廊下が伸びていた。

 等間隔とうかんかくに並べられた廊下の正面には医師のいる診療室が並んでいる。そして青いカバーに包まれた歩行器を持ち、廊下に腰かける礼子の姿があった。

 おばあちゃん! と岬が手を振るとあらあら。と礼子が口元に手を当てる。

 病衣にはベージュ色をした腰から胸まで包むコルセットが、固く巻かれている。支柱の入った皮の大きなベルトは骨折した脊柱せきちゅうを保護する。

 歩行器で歩けているならリハビリも順調だろう。痛みをわずかにも感じさせない表情で、礼子はあらあら。と僕を見て目尻にシワを作る。

「あらー。大きくなって。元気にしてた? 誠也ちゃんのお母さんからお話は聞いていたけど、立派になったねぇ」

「身長は高校の時から変わっていないので、大きくはなっていませんし立派でもないですよ」

 立派よー。とケラケラと軽快に笑い続ける礼子に、あのねぇ。と岬が目を細める。車椅子のアームレストへ肘を乗せて、細い顎を手のひらで支えた。

「ねぇ。まず私に声をかけないの? とっても心配したんだから」

 あんたは放っておいても元気でしょう? と口元に手を当てたまま言う礼子に、むぅ。と岬は口を尖らせる。いっぺんに空気が変わった。うっすらと浮かぶ昔の情景じょうけいとバターの香ばしい香りに包まれる。

「礼子さんもお元気そうで。僕も安心しました」

 なっ? と岬に目線を向けると、だね。と岬が頬をほころばせる。僕たちのやりとりを見て、礼子がニヤリと口角を片方だけ上げる。

「ふふーん。やっぱりおばあちゃんの作戦は成功。誠也ちゃんのお母さんに頼んでおいてよかったわ。だってちゃんと岬が笑っているもの。どうもおばあちゃんは、あの男が好きになれなくてね。やっぱり誠也ちゃんの隣にいる方が自然だわ」

 あの男とは、岬の婚約者だった男だろうか。僕が考えていると廊下の向こうからバタバタとピンク色のスクラブを着た女性が駆けてくる。

「もう! 小桜さん! まだひとりで歩いたらダメって言われてるでしょう!」

 聞き慣れた声だった。もう。と腰に手を当てる弥生は一つにまとめた長い髪を揺らして、眉間にシワを寄せている。

「ごめんねぇ。ほら。娘と息子みたいな彼が来るのが嬉しくって。待てなかったの」

 弥生が僕に気がついて、目を丸める。そして隣の岬にも視線を落とす。

「あら。小桜さん? 退院以来お久しぶりです。・・・そして藤森くんはなんでいるの?」

 弥生は岬の車椅子へ一度視線を落とし、表情を変えずに僕を見た。

「付き添いだよ。僕も礼子さんには小さい頃からお世話になっているから」

 そっか。と弥生は何か言いそうに口元を開けて、首を横に振る。

「ともかく。先生を呼んでくるから、藤森くんは礼子さんを見ていて」

 了解。と僕が返事をすると弥生は廊下を再び駆けていく。僕と弥生が働いていた時の空気を残したままで。

「やっぱりしっかりしたいい子だね。家族共々お世話になるなんて何の因果だろう。なんだかふたりが一緒に働いている時間が垣間かいま見えたよ」

「そうそう。いつもいいようにあつかわれていた」

 信頼の証だな。と岬は鼻先を上げて腕を組んだ。礼子は目尻を和らげて僕と岬が並ぶ姿をずっと眺めている。

 視線の奥にはきっと幼い僕たちがいるのだろう。気がつかないうちにずいぶんと時間が経ってしまった。

 ほどなくして、小桜さんと呼ばれた。

 声のする方を見ると、診察室の奥で初老の男性が手をこまねいている。導かれるまま中に入り、縦長のディスプレイが置かれたデスクの前で僕たちは並ぶ。

 弥生も説明には立ち合うということで、椅子に腰かける医師の隣にいた。

「なんだか顔見知かおみしりばかりで落ち着きますね。あらためましてリハビリテーション科医の浜崎はまさきと申しします」

 白髪はくはつを綺麗に整えて、後ろに流した細身の医師が丁寧に頭を下げる。細く筋張った体で白衣のすそが浮いていた。顔に刻まれたやわらかな曲線と声色から人柄が見て取れる。

 思えば初対面なのは僕だけである。本来なら知人でしかない僕は説明に立ち会えないはずなのに、どうしてもという礼子さんの要望で僕も説明を受けることになった。

 リハビリテーション科医とは読んで字のごとくリハビリテーションを専門とする医師である。療法士は医師の指示の下でしか動くことができない。だからこそ、リハビリテーションを専門とする医師はありがたかった。

 僕たち療法士と同じ歩調ほちょうで共に患者に向きあう。もちろん現代では多くの医師がリハビリテーションに注目してくれている。リハビリテーション科医の存在は療法士や患者にとって非常に心強い。ちょっと前までは弥生側に立って医師の説明を聞いていたから、患者側で医師の話を聞くのはなんだか新鮮だった。

「隣の彼も理学療法士と聞いていますから、遠慮なく説明させていただきますね。礼子さんからお話はうかがっています。娘に専属の理学療法士さんができたと。岬さんもお元気みたいですね」

 やわらかな笑みを向ける浜崎に僕は恐縮したまま肩を丸める。おばあちゃん。と岬が口を尖らせると、何知らぬ表情で礼子は視線をそらした。

 コホン。と弥生が咳払いをして、はいはい。と浜崎は手元の書類に視線を落とす。

「あらためまして当院で行います診療を説明しますね。当院は回復期病院でいわゆる自宅に帰る前の準備を行う病棟です。礼子さんはまだ歩く時、後ろにふらつくとのことでしたから、もう家で転んだりしないようにリハビリを続けていく必要があります。ずっと入院というわけにはいかないので期間は二、三か月と少し長めに見ています。もういいお歳ですからね」

 まだまだ若い者には負けませんよ。と笑う礼子に、そうですね。と慣れた口調で浜崎が返す。

「骨折はもう問題ないかと思います。後は礼子さんの頑張り次第ですが、頑張りすぎますので落ち着いて生活しましょうね。入院中に転倒したら元も子もありませんから。それでは岬さん。こちらの書類にサインをお願いします。決まりですので・・・」

 はい。と岬は渡された書類にサインする。あらためて説明する内容なのかと疑問に思う人も経験した。しかし説明は必ず行わなければならない。そして説明を理解する。診療に同意を得ることで初めて僕たちも動き出すことだってできるのだ。

 それとですね。と弥生が口を開く。

「礼子さんは元気すぎるのですぐにひとりでどこかに行ってしまうんです。藤森さんや岬さんの方からしっかりと、言ってあげてくださいね」

 僕が視線を向けると悪びれるようすは微塵みじんも浮かべずに、礼子はわかっていますよ。と返事をする。そしてサインする岬を横目で見て、礼子はふふふ。とえきれないといったようすで笑みを浮かべ、浜崎は首をかしげる。

「先生。なんだか孫が増えたみたいで嬉しいです。あの世でお父さんになんて自慢しようか。お父さんもいつか寂しくなって化けて出るんじゃないか。そんなことばかり考えています」

 はっは。と浜崎は身を反らして笑う。

「まだ気が早いですよ。そろそろリハビリの時間では?」

「あらやだ。もっとお話してたいわ。ねぇ?」

 同意を求めるように礼子は僕を見る。弥生がコホンと咳払いをした。

「礼子さんには何よりもリハビリが大事です。後はおふたりに任せても大丈夫かと思いますよ」

 えー。とキョロキョロと目線を動かした後、諦めたように礼子は体を丸める。

「はいはい。わかりました。それじゃ誠也ちゃん。岬をよろしくお願いしますね」

「私なら大丈夫だよ」

 そうだったかしら? 岬の反論を意に返さず、開かれた扉へと歩行器を押して礼子は歩き出す。弥生は僕たちに一礼をして礼子の後に続いた。礼子が歩行器を使ってよどみなく歩く姿を岬はずっと見ていた。残された僕たちを浜崎は静かに眺めている。目線はゆっくりと岬の足もとへと降りる。

「家で歩くことは大変でしたか? それとも転んでしまいましたか?」

 見透みすかした言葉に、岬と僕は浜崎の顔を見る。岬は少しだけ口を開き、そして閉じた。浜崎は目元を和らげて両手を組んだ。

「まだ私が若い頃だったら、頑張りなさい。と言っていたかもしれません。でも人生は長いのですから。もし装具を作り直したいと思ったらいつでも連絡をください。そちらの彼に似合う装具を選んでもらいなさいな」

 はい。と岬は素直に、うつむいたまま返事をした。よろしい。と浜崎は笑顔でうなずいた。

 走らせる車に西日が差し込む。遠目に見える海岸線に色味を落とした太陽が身を隠し始めていた。病院での説明を受けた後、僕たちは約束通りに遠回りをして帰ることにした。

「ねぇ。海に行こう。昔、誠也のお父さんに連れて行ってもらったでしょ?」

「昔といっても小学生の頃だろ? なんだか最近みたいに思えるけど」

 だねー。と病院を出る時、岬は旅愁りょしゅうに身を任せて西日に目を細める。病院から車を走らせて海岸へと僕たちは向かった。家の方向とは逆方向の海には、僕の勤めていた病院を通りすぎ一時間ほどで海岸にたどり着く。

 春先の海風はまだ冷たい。視界いっぱいに広がる白い浜辺、海辺に続く砂で彩られた石造りの段差は記憶の中と変わらない。

 車を近くの駐車場に止めた僕たちは段差の上から海を見渡した。砂が風に巻い、車椅子の上で身を乗り出す岬の隣で、オレンジ色の海を眺める。

 さざ波は一定の間隔で浜辺に打ち寄せ、白波が遠目に飛沫しぶきを上げては消える。太陽が色味を濃くしながら地平線へ沈んでいき、浜辺で遊ぶ子供の影が伸びた。

「懐かしいねぇ。誠也のお父さんがここで私たちを、こんな風に眺めていたんだ」

 浜辺で駆け回る三人の子供たちを眺めながら岬は髪を抑える。僕の伸びた前髪も浜風にあおられて目線の先で揺れていた。やっぱり伸びたな。と僕は髪を整える。

 僕たちは言葉もなく海を眺めていた。途方もなく広がる海には僕たちの思い出が、浮かんでは消えていく。

「ねぇ。誠也が病院で働いていて、一番辛かった思い出を話してくれないかな」

 岬は沈みゆく太陽に視線を置いたまま言った。唐突な質問であるけれど、きっと岬は自分の話をしようとしているのだ。僕に話したくても話せない話を。

 潮風が僕たちふたりを包み、固く閉ざされた心の鍵が開く音がした。

 僕は岬に話を聞いてもらいたい。病院を離れた場所では肩書きなどない僕は、もう僕でしかないのだから。

「僕たちには守秘義務しゅひぎむがあって患者の個人情報をおいそれと人に話すことはできないんだ。名前を伏せてもいいかい?」

「どうぞ。誠也は真面目だねぇ」

 隣で岬は海を眺め続けている。僕の言葉に耳だけをかたむけて、表情から目を背けることが最大の配慮だと言わんばかりに。

僕が口を開くと、岬は静かにまぶたを閉じた。長いまつ毛が影を落とす。

 心の中でその人の名を呼んだ時、はっきりと情景が浮かんでくる。心の奥底で、赤黒く錆びた釘がさらに深く沈み込んでいった。

 僕が病院を辞めてしまう一年前、僕は受け持つ多くの患者のひとりに、小南こみなみ 華苗かなえという女性がいた。四十七歳の女性でスナックの経営者であり、配偶者はおらず、両親とは疎遠そえんだった。

 診断名は脊髄損傷せきずいそんしょう、症状は両下肢りょうかし不全麻痺ふぜんまひである。

 彼女が受傷した日は深夜まで宴会があったようで、強かに酔っ払った彼女は二階にある自身の店から出ようとして階下へ転げ落ちた。滑り落ちながら路上へ倒れ、通行人が救急要請きゅうきゅうようせいをし、僕の働く病院へと運ばれた。

 その日のうちに緊急手術が施され、脊椎をボルトで固めた彼女のリハビリは翌日からゆるやかに開始されたのだ。

 カルテを読み解きながら、華苗は幸運だと僕は考えていた。頭部外傷とうぶがいしょう頸髄損傷けいずいそんしょうといったずっと重症度の高い受傷をしてもおかしくない状況である。まだ軽症だと考えていた。

 術日から四、五日経ち、硬いコルセットで体幹を固めた華苗は車椅子に座りながら苦痛に顔を歪めている。僕と華苗が並ぶリハビリ室にある平行棒の周りには、多くの患者で賑わっていた。

「本当に災難だったよ。やっと自分の城を持ってさ、調子に乗ってこのざまだよ。先生も酒の呑みすぎには気をつけな」

 華苗は唇を歪めながら笑みを浮かべようとし、正直僕は呆れていた。

「呑みすぎませんよ。両足の調子はどうですか?」

「全然ダメだね。手術は失敗したんじゃないかい?痺れて言うことを聞きやしない。棒みたいなもんだ。なまじ少しだけ動くもんだからタチが悪い」

「失敗はしていませんよ。これからがリハビリです。まずは背もたれがなくても上手に座る練習から、そして今からやるように物をつかんで立ち上がり、歩く練習をしていきます」

 病状の詳細な説明ができないため、言葉をにごしながら僕は、医師と事前に打ち合わせていた方針について話す。ぞっとしないねぇ。と華苗は眉間にシワを寄せた。

 完全に脊髄が分断されていたのなら、力すら入らない。その点、華苗はやはり幸運だと思えた。正しい体の使い方を学習していけば、また歩けるようになるかもしれない。いや、歩けるようにしなければならないと僕は決めていた。

 今、考えると僕もまた追い詰められていたのだ。

 正常から逸脱したまま転院が余儀よぎなくされる患者を見ていられなかった。体をかたむけたまま歩く。もしくは歩くことができなくならい車椅子で退院する患者を見て、言葉では希望を吐きつつも心では罪の意識が積み重なった。

 多くの重症患者を受け持つようになり、必死にリハビリを行っても、少ない知識や技術を総動員したとしても僕の受け持つ患者に障害が残り続ける。

 その度に無力感を感じていた。自分ひとりでは誰も救うことができないと。

 ふたたびその人らしい生き方へ導くことができないのだと。

 自惚うぬぼれていたのだ。

「また次の病院で頑張りましょう。ここでの頑張りはお手紙に書いてお伝えしておきますね」

 数え切れないほど吐いたセリフだ。患者からの感謝とは裏腹に、僕は障害を残したまま急性期病院から去る患者へ、申しわけない気持ちでいっぱいだった。

 今度こそは。と僕が華苗に向かい合うと、頼むよ。と華苗は片目を閉じる。

 華苗のリハビリは中々に順調だった。皮肉ひにくばかり言う割にはリハビリや自主トレーニングを熱心に取り組み、歩行器での歩行練習が可能な程度まで機能は回復していった。

 ただ両足の痙性麻痺、筋肉を自身でコントロールできずに固くこわばった足では満足に立つことができない。華苗が努力すればするほど、彼女の両足は意志から離れて固くなり、踵は地面から浮いてしまう。つま先立ちのまま固まって、足首や膝に痛みを覚えてリハビリ自体が行えない日もあった。

 リハビリ室での練習の中心は横になったまま両足の動きをコントロールする練習であり、筋肉の動きを意識的にコントロールしながら座り、立ち上がる。そして立ったままの姿勢を保持することが中心だった。最後にわずかな距離を歩行器でふらつきながら歩き、痛みが出ないうちに歩く練習はいつものようにすぐ終わる。

「なぁ。誠也ちゃん。もっと歩く練習ばっかりさせてくれない? これじゃぁいつまで経っても歩ける気がしないよ」

 車椅子を押し、華苗の部屋に戻りながら、呼吸が整った頃にいつも彼女は言っていた。

「この前、歩行距離を伸ばして膝を痛めたばかりでしょう?まずは正しい姿勢で立ち上がり、立ったままでいられるようにしましょう。正常な範囲での動作を身につけていかないと、変なくせがついてしまいますよ。変形性膝関節症へんけいせいひざかんせつしょう反長膝はんちょうひざになってしまいます。時間はかかると思いますが、正常で綺麗な歩き方を一緒に練習しましょう。でないと病院でも転倒してしまいますから。気をつけなければいけません。怪我を治しに来て怪我したなんて冗談にもなりませんよ。正しい所作しょさで立ち上がり、歩き出すことが重要ですよ」

 わかるけどねぇ。と華苗は深く息を吐く。目尻に刻まれた曲線が、若く見える彼女を年相応としそうおうに見せていた。

「正しく正常なことばかりが良いことかねぇ。ともかく頼むよ。先生。歩きたいんだ。次の病院でもリハビリはあるんだろう?」

 華苗はすでに転院が決まっていた。彼女の両親が住むここよりもずっと遠い街にある回復期病院だった。

「はい。ここでの頑張りはしっかりとお手紙に書いて送りますので、お伝えしますね」

 はいはい。と華苗は車椅子に身を預けて言った。言葉と一緒に吐き出された息に失望しつぼうの色が見えて僕の車椅子を押す手に力が入る。

 またか。と思った。でも、次につなげることができるのなら、それが今の僕の役割だ。

 決まり切った思考過程しこうかてい末路まつろで、いつもの言葉が浮かぶ。

 しかし、華苗の一件はそれだけで済まなかった。

 こと発端ほったんは翌日のリハビリが開始する直前だった。

 華苗の部屋に訪れると、悲鳴にも似た怒号どごうが響いている。部屋を担当する小柄で少女の幼さを残した看護師へ声をかける。彼女は黙って首を横に振った。

 まだ入らない方がいい。ということだった。ただ華苗のよく通る声だけは病棟中に響く。

「そりゃ悪かったさ! あんたらのいうとおり真面目な子じゃなくて。散々迷惑をかけたし、正しい生き方なんてしてこなかった。世間一般の立派な人と比べたら、正しくなんて生きられなかった。でもそりゃないだろう!? ウチはあんたらの子供なんだから。でもなんだよ!迎えに来ないって。なんだよそりゃ。私は大怪我をしたんだ! ひとりじゃ何もできなくなってしまったんだ! リハビリをしても無理だった」

 たったそれだけのセリフで、なんとなくわかってしまった。また僕のせいだと、華苗の声を避けるように看護師へ声をかける。

「リハビリの時間は後にするから、落ち着いた頃にくるね」

 看護師に言い残し、僕は病室を後にした。これで転院は一度白紙に戻るかもしれないな。と考えながら、もう少しだけ華苗と一緒に歩く練習ができる。

 もう少しだけ、正しく、正常で、他の人と比べても遜色のない歩容に近づけることができるかもしれない。

 華苗の望むもとどおりの生活へ戻るために。もう少しだけ。

 それが間違いだったと気がついたのは、ほんの一時間後だった。

 華苗の話をもっと聞くべきだったのだ。華苗の魂から放たれる叫びを受け止め、言葉に隠された真意へ想いをせるべきだったのだ。

 リハビリへ向かうために華苗の部屋に向かうと、ドスン。と音がして、重く硬い物が地に落ちる音がした。

 病棟で働いていれば、働いていなくても音の意味はわかる。急いで華苗の部屋に行くと、うつむいたまま床へせる華苗がいた。

 華苗は僕に気がつくとへへ。と笑い起き上がろうとする。

「そのままで。起き上がらないで。誰か来てください!転倒です!」

 僕の鬼気迫ききせまる声色に、香苗は僕を顔だけで振り向き口元を弛緩させる。

 そして悪かったね。と言った。

「格好悪いところを見せちまったよ。ちょっとむしゃくしゃしてさ・・・先生を歩いて出迎えて驚かそうと思ったんだけどね。どうやら誠也ちゃんが正しかったよ。正しい動作じゃないと歩けることなんてできやしない」

 それとさ・・・。と華苗は片目をつぶった。いつものような仕草で。

「ウチの綺麗な顔は大丈夫かい? 傷ひとつないかい? ・・・がむしゃらにでも歩きたかったけど、転んじまったよ。ひとりでは立ち上がれそうにない」

 誠也ちゃんのいうとおりだったねえ。と香苗が独り言のように響いた。

 僕は相槌あいづちを曖昧にしたまま立ち尽くし、すぐに救急カートを持った看護師と医師が訪れ、病室は華苗の声をかき消すほどの喧騒けんそうに包まれた。

 集まった全員で、必要な処置を終え、CTの結果から、華苗は僕のいる病院とは違う脳神経外科のうしんけいげかを中心とした病院へと急遽転院することになった。

 頚椎けいついに問題はなかったが、急性硬膜下血腫きゅうせいこうまくかけっしゅが徐々に彼女の意識を奪っていたのだ。

 部屋から連れ出すために、頚椎を保護したまま担架に乗せられる華苗は僕に、今までありがとうございました。と、いつもの彼女からは考えられない殊勝しゅしょうな口ぶりが僕の耳に張り付いていた。

 遺言ゆいごんと同じ響きに聞こえたから。

 華苗が運ばれた後、僕はよくやったと褒められた。

 転倒を見つけてくれたから。重大な状態へおちいる前に転院することができたと。

 CT画像を眺めながら、僕の中で渦を巻くのは正しかったのか。と問題はなかったのだろうかという対局にある色彩だった。

 転倒のリスクがある患者へ、転倒リスクを伝え段階的に歩行へとつなげる介入を行った。

 正しく、正常に近づくために。リハビリテーションに伴う二次的な関節症といった障害を防ぐために。

 華苗の想いを深く受け止めずに、正常であることを押しつけた。

 華苗のいうとおり歩行練習を中心にしていたならば? 痛みを補装具で予防しつつ、僕のまだ知らない特殊な手技を用いることができたならば。

 華苗の転倒は防ぐことができたのではないだろうか。

 患者の意図を無視し続けた。

 しかし・・・だから言って、結末は変えられなかったのかもしれない。むしろ僕の制止をさらに聞かずに、もっと早い段階で転倒していたかもしれない。

 どうあがいても転倒は防げなかったのかもしれない。

 過ぎ去った事実や過去は変えられない。だからと言って後悔せずにはいられない。

「正しく正常なことばかりがよいことかねぇ」

 華苗の声色がありありと脳裏へ浮かび上がる。

 僕が当たり前のように言っていた、世界のことわりかと言わんばかりに吐いていたセリフは、正しかったのだろうか。

 正しさとはなんだ。正常とは。誰のための言葉なのだ?

 なぜ僕は押しつけていたのだろうか。混濁こんだく螺旋らせんを描き続ける思考の最果さいはてへたどり着いた時、思い至った。

 奥底にはまだ高校の僕がいた。当たり前で面白味がない。特別ではなく世間一般の感性しか持ち合わせない普通の僕。

 筆を折り、現実と折り合いをつけるという諦めを選んだ僕。

 特別になれずに普通に生きることを選び、正常であることが正しいと信じるしかなかった僕。

 僕は過去を肯定するために、僕に生じた一度目の転倒から逃げ出すために信じようとしていた。

 周りと同じ正常から逸脱しない場所へと逃げ出しうずくまっていた。

 僕の根幹こんかんにある意識を、華苗に。いや、僕の受け持ってきた多くの患者へと押しつけていた。

 正常からは逸脱してはいけません。正しい動作で安全に転ぶことなく生活をしましょう。転んでしまっては大変です。怪我をするかもしれません。

 人生の岐路きろで転んでしまった僕が、また転んで傷つきたくない僕自身を押しつけた。正常で普通に生きていれば転ばないと信じたかったから。

 華苗は、どんな気持ちで僕の言葉を受け止めていたのだろうか。

 今はもう知る由がない。しばらくは意識が戻らないのだろうから。

 僕の行っていた指導は間違ってはいないだろう。世間一般的に行われる指導の方法のひとつと認識もしている。

 しかし決定的に違うのは他の理学療法士と同じような言葉を患者に伝えながら、間違ってはいなくても、根幹こんかんが違ったことだ。

 僕は僕を肯定するために、患者に手を差し伸べていた。

 僕が正しく、正常を選ぶことしかできなかったから。

 周りと変わらない正常な場所が、正しいと信じ患者に押しつけた。

 患者に語りかけるようで、自分自身の選択に許しをうていたのだ。

 特別ではない自分を肯定したい心が根底にあり、他者へ押しつけていた。

 しかも医療従事者に頼るしかない患者に対して、苦しむ患者へ本当の意味で寄り添うことなく、僕自身の価値観を押しつけていた。

 魂からの叫びへ耳をかたむけずに、押し付けていたのだ。

 資格がないと思った。僕なんかが、理学療法士として障害に苦しむ人に手を差し伸べるだなんて許されない。許されてはならない。

 もう臨床にはいられないと思った。障害の重さなんて人それぞれだ。

 重症度という客観的な指標だけで判断できる重さではない。

 少なくとも僕は臨床にはいていけない人間だと、僕は理学療法士を辞める決心をした。

 華苗のCT画像は右の側頭が白く晴れ上がり脳を圧迫している。意識を失うほどに。

「・・・がむしゃらにでも歩きたかったけど、転んじまったよ。ひとりでは立ち上がれそうにない」

 華苗の声が僕の狭い頭蓋ずがいの中で反響し続けていた。答えを探してさまよい続ける思考の果てはなく、渦を描いて心に沈む。

 話し終わると呼吸が激しく乱れていた。たったひとりでいた薬品の匂いが流れる電子カルテの前から、夕暮れ時を迎えた潮風の香る海辺へと僕は戻る。

 うつむき組み合わせた指先で汗がにじんだ。

 視線を感じて頭を上げると岬が僕を見ていた。

 岬はゆっくりと笑みを浮かべる。

 僕は岬の車椅子へと手を添える。手が添えられたのを確認して岬は左足をまっすぐ伸ばし、スカートを膝までたくし上げた。

 左のふくらはぎに刻まれた傷跡が白い肌に瘢痕はんこんを残す。痩せているのはわかっていたけど、傷跡はいつも衣服に隠されていた。病的なまでに細く白い左足から目をそむけたくなる。でも、決して目を背けてはならない。

 背けることは許されない。

「私が事故にあったのは知っているでしょう? 高校を卒業して私は美容師の専門学校に通った。とくに夢はなかったけどずっと誠也の髪を切っていたからね。自然と進路は決められたの」

 もうそれくらいしか、やりたいことは残っていなかったから。と岬が言って僕に舌を突き出す。遠くで子供の笑い声が波音の合間でこだました。

「卒業してからも下積みから頑張ってさ、結構早くお客さんを任せてもらったんだよ? そこでお客さんだった彼と出会った。高山こうやまさとる。元婚約者。結構気が合ってさ。上部だけだと後で知ったけど、格好良かったし・・・なによりも、世間様せけんさまと同じように家庭を持って、おばあちゃんを早く安心させたかったしね。おばあちゃん。誠也が家に来ることがなくなって、元気がなくなっちゃったから」

 ぎゅっと胸の内が締めつけられて、透明の血が流れる。呼吸が難しくなるほどに。構わず岬は話を続けた。

「婚約まであっという間に話が進んだの。でもさ・・・事故を起こしちゃった。雨の日だったよ。彼の運転する車が高速道路でスリップして壁とぶつかった。遠出していた時の帰り道。今思えば死んでもおかしくないような事故だったけど彼は無事で、私はね・・・気がついたら足が反対の方を向いていたの。わかる? ぶつかった衝撃で、足の裏がね。私の方を向いていた。不思議だよね。普通なら命があってホッとするのに、命を失ってしまえば良かったと思っていたの。なぜ死ねなかったのかと考えていた。生きていたかったと思う人はたくさんいるのに、本当に私はダメだ」

 僕は首を横に振る。きっと僕も岬と一緒の状況なら同じことを考えていただろう。

 歩み続けてきた人生が、いっぺんに変わってしまうから。良い方向ではなく悪い方向に変わってしまう。

 希望や期待を目に見える形で喪失そうしつした瞬間に、前向きになれる人なんていない。考えてしまう余裕があるからこそ、死にたくなる。

「手術して、後遺症こういしょうになると言われた。でもさ。リハビリを頑張って、もとの生活に戻ろうとしたの。おばあちゃんも動転してさ。だから口止めしていた。誠也のお母さんにも伝えないでって。これから何が起きても、私がいいというまで、何一つ話さないでってお願いしたの。もしまた出会えるなら昔と同じように出会いたかったから」

 教えてほしかったよ。と僕が言うと残念でした。と岬は舌を出す。

「私がほしかった言葉をかけてくれなかったのに、私が誠也のかけてほしい言葉を言うなんて。都合が良すぎでしょう? なんか悔しいし。それに・・・意地になっていたと思う。誠也は優しいから。私はきっと甘えてしまう。歩けるようになるまで自分ひとりで頑張ろうと思ったの。リハビリしている間は良かった。入院中は一回も転ばなかったし、療法士の先生も褒めてくれた。彼も協力してくれたし、もとどおりの生活に戻れると思った。一年で職場に復帰したんだよ? すごいでしょう?」

「すごい。すごく・・・頑張ったんだね」

 僕のいないところで。僕は頭を振って言葉を頭から追い出す。自業自得じごうじとくだ。臆病な自分の報いだ。岬は子供の声に視線を向ける。右手を振ると、子供の影が揺れた。

「でもね。ダメだった。装具をさ。左足につけて、お気に入りになった私には似合わない大きな靴を履いてね。馴染なじみのお客さんの髪を切らせてもらったの。綺麗な女の人。長い黒髪を整えていた時にね、こう左足にいつものように体重をかけたの。そして転んだ。足が滑って、拍子ひょうしに髪をバッサリと切り落としちゃった」

 やらかしたよね。と岬は口をぎゅっと結ぶ。固く結ばれた口をゆっくりと開いて岬は続けた。

「いいよって。大丈夫だよって。お客さんは言ってくれた。障害があるから仕方がないって。優しいよね。残酷ざんこくなくらいに。私は一度の転倒で私は立ち上がれなくなくなって、職場も辞めた。周りの目がね。違っていたの。あぁかわいそうに。障害のせいで不自由になってしまったんだねって。それでも頑張って偉いねって。周りが私を見る目に耐えられなかった」

 プライドが高すぎるかな? と岬は横目で僕を見て、僕は首を横に振る。僕が岬と再会した時、思わず手を差し伸べた。

 岬の大きな瞳を覆う薄い皮膜に西日が反射していた。

「婚約者も周りと同じだったよ。君は僕が守るから、支えるからもう無理して歩かなくていいって。なんだろうね。たった一言なのに、私の心はポッキリと折れてしまった。一緒に歩いていたはずの彼が、ずっと上から私を見ているような気分になったの。私の介助者として振る舞う彼に耐えられなくなった。もともとそんな気質はあったんだけどね」

 あせっていたんだなー! と岬はできるだけ明るい声で伸びをした。遠く子供たちの歓声が上がる。見ると打ち寄せるさざ波から逃げ出すところだった。

 辛かったんだね。とありふれた安っぽい言葉がかけられないほど、岬は消え去りそうな瞳で遠くを眺めている。岬を知らない人だったら、たった少しの障害じゃないか。片足の足首から先が動かないだけじゃないか。そう思う人もいるのだろう。

 しかし些細ささいとも思える障害でも人の一生を縛るには十分すぎるのだ。理学療法士として働く間に、わずかとも思えてしまう障害が人の一生をたやすく縛ってしまう。もし事故を起こした場所が僕たちの住む街で、僕が働いている病院に運ばれていたのなら・・・。

 考えて僕は首を振る。きっと過去の結末は変わらない。

 でも・・・今が人生の結末ではない。

「岬の歩く姿が見たい」

「いいよ」

 岬は車椅子を回転させて、隣に立つ僕へ向ける。砂浜へと下る段差はずっと遠くまで整然せいぜんと並んでいる。

 僕は踵をうっすらとした砂粒へ添わせ、後退あとずさりながら線を引く。

 星屑ほしくずに似た光を反射する砂へ、一本の線を引き大股で十歩分先で立ち止まり今度は直角へ線を引く。

 距離は大体十メートル。

 僕は岬のもとへ戻り、横に並んで正面を向く。

「転びそうになったら支えるから。気にせず歩いてくれ」

「わかった。誠也も次に転びたくなったら遠慮なく言ってね。支えるから」

 もちろんだよ。と返すと岬は両手に力を入れて立ち上がる。

 右足に体重を乗せたまま、左足は開かれ岬はバランスを取っていた。そして体を大きく揺らしながら右足を前に踏み出す。左足を後ろに引きずるように、僕の右隣を細く頼りない体を左足で支えながら進んだ。

 ゆるやかな歩みは岬と僕の歩く速度にも似ていた。

 ゆっくりと歩き終えて、砂で書かれた線を通りすぎると、岬は隣の僕を見上げる。いつしか背丈が岬を追い越してしまっていることがおかしかった。

「どうだった? 私の歩行は。いや、歩容ほようというのかな? 誠也たちの業界では」

「うん。十メートルを歩く時間はおおよそ、六十秒。体幹は大きく揺れて不安定であり、歩幅は狭くて足同士の間隔である歩隔ほかくはとても広い。ワイドベースで、重心は右足へと偏移へんいしている。体を支える立脚期りっきゃくきはアンバランスだ。左の足関節は固くフットクリアランスを保つことができずに、歩行は患側かんそくが後方にある後型の歩き方・・・歩容をしている」

 夕焼けを背にして逆光線ぎゃっこうせんが岬のシルエットをかたどる。岬は笑った。

「わざとらしいなぁ。仕返し? 理学療法士としての所見はわかったから、藤森誠也くんとしての感想を教えてくれるかな」

 僕は岬にうなずいてみせる。風が強まり岬の髪を揺らした。

「とても綺麗だと思った」

「足を引きずりながら必死に歩いているのに?」

「うん。生きているって感じがした」

 わかんないなぁ。と岬は腰に手を当てる。吹き上がる風がスカートを揺らし、あるはずの傷跡が砂の色と同化して消えていた。

 顔に影が落ちて岬の表情を隠している。

「歩くのは良いね。私のこんな無様ぶざまな歩き方でも、誠也が言ったみたいに生きているって感じがする。前に進んでいるって感じがした」

「僕も同じことを考えていたよ。僕はずっと間違っていたのかもしれない。正しく正常で、みんなと同じではなくても、前に進む意志自体が美しいんだよ。正常から逸脱していてもいいんだ。やっぱり僕は勘違いしていた。華苗さんには、いや僕が受け持った患者全員に恨まれても仕方がない」

 許されない。僕が担当になってしまったばかり。・・・と心の内で言葉を言い終わる前に、岬から頭を叩かれた。前のめりに姿勢を崩した僕の腕を岬の手で握られる。

「支えてあげるって言ったでしょう? 誠也はもしかして自分のことを神さまとか、人類を導く英雄だなんて思ってない? 臨床で患者さんが言うことを聞いてくれるからって、誠也はとんでもない勘違いをしているね」

「思っているわけないだろう。それに事実は事実だ」

「過去は過去でしょう。誠也を誰が恨んでいるの? 感謝されてたじゃん」

 今までありがとうございました。と言う香苗の言い残した言葉がよみがえる。視線を上げると岬の口元が見えた。固く結ばれている。口調とは裏腹に真剣そのものだった。

「誠也が後悔して打ちひしがれていること事態が失礼です。申しわけないだなんて馬鹿にしている。二度と言ってはいけない。わかった? でも・・・本当にみんなすごいよね。私たちと違って、強い。とても強い」

「本当に強い。障害を乗り越えようとする姿がうらやましいほど美しいよ。正しく見えなくても前に進んでいいんだと思える。僕もまた前に進めそうだ」

 私もだよ。と岬の頬がほころぶ。ずっと昔、まだ岬に手を引かれていた時と僕は変わっていないな。と苦笑する。

「申しわけないだなんて。二度と言わない。約束する」

「約束だよ。約束できたから、誠也に私のリハビリをすることは許してあげる。そして、誠也がまだ過去を許されないと思っているなら、私が代わりに許してあげる。それでも許されないと考えるなら、私も一緒に許されないでいい。ただし、私の満足するようなリハビリができたらね」

 岬は握った僕の腕を引き寄せ、一歩だけ足を踏み出し僕の胸へ体を預ける。僕は岬を支えたまま、言葉を待った。

「病院でリハビリをしている時によく言われたよ。正しく立ち上がる姿勢があり、決められた力の入れ方がある。歩く時には降り出した足のかかとから地面につけて、支えている時には背筋せすじをまっすぐに、体を揺らさずに歩く。それが正常で正しいのだと」

「僕も言っていたよ。でも今は違って聞こえる」

「間違いではないよね。そんなことは知っている。悪意もあったわけじゃないし、本当に私のことを思って言ってくれた言葉だとは今でもわかる。退院するまではよかったよ。日常生活に戻っても自分はもとに戻れたんだと思えた。でもさ、一度転んで、立ち上がれなくなった時、今まで学んだ正常な動作が、私に対しての呪いになったんだ。正しい動作でなければ歩けない。正常でないと普通に生きられないと考えてしまった。ダメになってしまった」

 岬が話す度、細い毛先が首元をくすぐる。淡い金木犀きんもくせいの香りがした。同時に僕は、岬と再会した時の言葉を思い出す。

「君たちの言う正常で正しい動作は私にとっては呪いの言葉でしかないんだ! 正常から逸脱した私はもう普通じゃない。私はもう普通に生きることはできない!」

 言葉の真意は立ち上がれなくなったことに対する自責じせきであり、自分自身にかけた呪いの言葉だった。

 僕たちの、いや僕の言う正常で正しい動作という言葉は、岬にとって比喩ひゆでもなんでもなく、本当に呪いの言葉だったのだ。

 華苗もきっと同じことを考えていたのだろう。そして呪いから、僕の投げかけた当然なようで、どこか無責任な言葉を否定するために歩こうとした。

 何がなんでも歩いて、現状の自分から一歩前に進もうと。

 そして転倒した。もう立ち上がれないほどに、転倒したのだ。

「・・・岬は僕に何を望む? 岬の満足するリハビリって?」

 岬の言わんとしていることがわかった。子供たちの声はすっかりと聞こえなくなっている。潮風の香りと波音だけが僕たちの間で流れていた。

「私はさ。私を縛る呪いから解放されたい。正しくなくても正常から逸脱していたとしても、私は綺麗だって周りから見られるように生きたいの。周りから変に思われても、異常だと笑われても生きたい。そのために坂道を下るの。誠也は私の隣にいて、ふたりで胸を張って坂道を下ることができたのなら、立ち上がれる気がする。この人生から、誠也と一緒に立ち上がりたい。いつか歩けなくなっても、胸を張って生きることができると思うから」

 僕もだよ。と答えると岬は大きくうなずいてみせる。

「正しく歩くことだけがすべてではない。いまさら実感できるなんて、本当に僕は理学療法士に向いていないらしい」

「世間一般の理学療法士としてはね。でも今の誠也は私の理学療法士としては適正てきせいがあるよ。続きを聞かせてもらっていいかな?誠也の言葉をもっと聞きたい」

 ありがとう。僕は息を胸の奥まで吸い込み、ゆっくりと言葉と一緒に吐く。

「前に進むことが重要だ。身体的ではなく、心がどんな手段でも前に進もうと生きる。だから美しく生きることができる。僕も岬に立ち上がらせてもらった。今まさに支えてもらってさえいる。だから一緒に立ち上がって、隣で歩きたい。歩けなくたって前に進みたい」

「よろしい。でも私はこれでもかって言うくらいに着飾って、ドレスで歩くつもり。靴も私の好きなヒールのついた赤い靴で。以前の藤森誠也くんなら、私の申し出にどう答える?正しく、正常で、ありふれた世間一般の普通を求める君だったなら?」

「転ばないように、動きやすい格好で、履き慣れた装具に合わせて調整された靴を使ってください。ヒールを履くなんてもっての外です。隣で歩く家族にしっかりと支えてもらいながら注意深く歩いてください。できれば急な勾配こうばいの坂道を避け、どうしてもというならば、壁で体を支えながら杖などの福祉用具ふくしようぐを用いて移動してください。ただ確実なことは言えません。経過を見ながらみんなで相談しながら方針を決めましょう」

「なるほど。きっと正しいのだろうね。でも今の誠也なら? 今の私にどう指導してくれる? 正しくもなく、正常から逸脱した暗く閉ざされた部屋で、私と一緒にいてくれる君であるならば?」

「一緒に坂道を下ろう。着飾った岬を見たい。幼い頃みたいに手を引かれてではなく、一緒に隣で坂道を下りたい。周りからどう見られても、異常だと笑われても、正常から逸脱していても。着飾ってこれでもかってくらいに胸を張って呪いの坂道を下りよう。転ぼうとしても支える。支えてもらっているから、支えることができる」

 そっか。と岬が息を吐きながら、笑みを浮かべる。口元の動きを胸元で感じた。

「信用していいんだよね?」

「信頼してくれ」

 もちろん。と僕へさらに体重を預けながら岬は言い、彼女の温度を感じながら、深まる夕焼けで僕たちの影が長く伸びていく。

 臨床では不確実な答えをすることは避けられる。確定していない希望的観測を述べることは避けられる。でも僕たちが立っている場所は臨床ではない。

 僕は岬の隣で立っている。

「なんでだろうね。君たち療法士は多少の障害があっても私たちを対等にあつかう。おかげでこんなダメな私でも救われているよ」

「ダメじゃない。二度と言ってほしくない」

「ああ。二度と言わない。約束はできないけれど、覚えておくよ」

 岬は歩き出すために立ち上がろうとしている。ただ歩くという行為だけではないだろう。歩行の可否だけが問題ではない。

 たったひとりでは無理だったとしても、岬と僕はもう・・・ひとりではない。

 正常な歩行だけが人生を前に進める答えではない。手段であって目的ではないのだから。

 足首の先が動かないことで、生きることすら難しい障害に比べたら、些細に思える障害・・・だけの話ではなかったのだ。

 些細な障害でも人生を縛る重大な障害となり得る。

 それでも、僕たちが支えあうことでしか立てなくとも、歩き出すことはできる。もし歩けなくても前に進むことができる。生きていると思える。生きていても良いのだと許された気分になれる。

 歩行が難しくなったとしても、前に進める方法はいくらでもある。まだ僕が、僕たちが思いつかないだけできっと。

 僕は坂道を下ることで変わることができると、速まる岬の鼓動を聴きながら信じた。

 見上げていたはず太陽は僕たちと視線を同じに沈んでいく。沈みゆく太陽はどこか朝焼けにも見えて、灰になりそうなほど僕たちを照らしていた。

← -1- 「世界から逸脱した暗い部屋」 

→ -3- 「些細で深刻な生涯を縛る傷跡」

※この物語はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。登場する内容は一人のセラピストの意見ですのでご容赦ください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?