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先生たちは、ブルシット・ジョブの波の中で溺れかけているが、子どもたちも、色々な大人から課されたブルシット・ワークの波の中で溺れかけている

<わたし、シャバフキンは、高校生に勉強を教えながら海辺で暮らしています>


人前でものを教えることを仕事にしているのに、漢字があまり書けない人が、世の中にはいる。
国語の先生でもないかぎり、漢字を書けないことは大したことではないとは思うが、漢字が書けないことを恥ずかしいと思っていることが、教壇から伝わってくる人もいて、見ていてかわいそうになる。

また、書いている漢字は合っていても、書き順が違う人というのも、まあまあいる。
だが、これは日本だけで注意を向けられる点で、欧米に行けば、誰も「書き順」なんて気にしない。
「字は読めればいい」と思っている西洋人は、書き順なんて気にしたことがないというか、「正しい書き順」などあるとも思っていない。

「字がきれい」ということで見られ方が変わる日本は特殊である。
きれいな字を書くための授業があるのは、世界中で日本の他にあるのだろうか。
(台湾とかギリギリありそうだけど)

小学校で「ひらがな」も「カタカナ」も「漢字」も「漢字の音読みと訓読み」も「漢字の書き順」までも覚えなければいけない日本の子どもたちは、最近では、それに加えて、英語も覚えなければいけなくなっている。

しかも、近年、文科省が出している「学習指導要領」が改訂されたことで、小学校から高校までに彼らが覚えるべき英単語は、5000語にまで増えた。

今の子ども達は、「高校までに5000語の単語を覚えろ」と言われているのだが、それと同時に、アクティブラーニングの視点から、「英単語を知っているだけじゃなく、英語でスピーキングやライティングもできるようになれ」と言われていて、子ども達が高校までにこなさなければならない英語の課題は増えていく一方である。

そういえば、元サッカー日本代表監督のイビチャ・オシム監督が以前、「日本では小学生が1000字以上の文字を覚える必要があると聞いたんだが」と、驚愕していたことを思い出す。

アルファベットで学習する国の小学生たちは、30ほどの文字を覚えれば、あとはそれの組み合わせで文章が読めるが(読み方はその都度覚えるのだが)、日本では「ひらがな」、「カタカナ」だけでは文章が読めないため、何千もの「漢字」を覚える必要がある。

自分の国の文章を読むために1000字以上の文字を覚え、さらには、外国の文字を読むために、5000以上の英単語を覚えなければならなくなった日本の子どもたちを、オシム監督は哀れみの目をもって見つめているかもしれない。
アルファベットの国から来た人には、日本の子どもが子ども時代に学ぶべきことが多すぎるように映るのだろう。


文科省のような、規則を作る側の大人たちは、「漢字は1000字、英単語は5000語」と、数値目標でもって、暗記すべき文字数を決めるが、絶対にその数の文字を覚えなきゃいけないかというと、そうでないことぐらい、普通の大人ならわかる。

学校や塾という「練習の場」から、社会という「実践の場」に移ってみれば、そこには、多くの具体的なシチュエーションがある。

例えば、寿司屋が覚えてなきゃいけない漢字と、コールセンターで働く人が覚えなきゃいけない漢字は違うし、ニューヨークのシェフ見習いが覚えなきゃいけない英単語と、映画の翻訳者になりたい学生が覚えなきゃいけない英単語も違う。「1000」といっても「5000」といっても、問題となるのは単語の数ではなく中身である。

シェフ見習いでも、翻訳者の卵でも、3000より5000、5000より7000語を覚えているに越したことはないだろう。

ただ、今の子ども達が「ひらがな」も「カタカナ」も「漢字の訓読みも音読み」も「書き順」も、「英単語」も「発音」も「英語での話し方も書き方も聞き方」も、「プログラミング的な考え方」も「探求学習」も「アクティブなラーニング」も「SDGs的な視点」も学ばなければならない中で、何を学ばないようにするかの選択も同様に、重要になる。

学校現場で先生たちは、全方位から飛んでくる「ブルシット・ジョブ」の洪水の中で溺れかけているが、その教員に教わる子どもたちも、同じように、様々な大人から課された「ブルシット・ワーク」の中で、ある子どもは溺れかけながらも懸命に泳ごうとし、ある子どもは、岸に向かうことを諦めて、ただ、ぷかぷかと浮かんでいる。

大人が「漢字数千語、英単語5000語」と言っている時に、本当にその数の単語を覚えるのか、それとも、自分に必要そうな単語だけを覚えるのかを自分で考えるのが、本当の「アクティブなラーニング」なのかもしれない。

そうした、自分で学ぶべきことを選択していく時代には、漢字の優先順位は低くなるだろう。

ある時、有名大学の哲学教授が授業中、まったく漢字が書けていなかったので、生徒の一人から、「なんで先生はそんなに漢字が書けないんですか?」と聞かれていた。

その際、その先生は、
「この漢字習ってた時、あんまり小学校に行ってなかったんだよなぁ」
と答えた。

漢字を書けなくても、哲学を教えてくれれば、哲学の授業を受けている学生は誰も文句をいわない。
漢字を間違えることや英単語を知らないことは、そんなに大きなことではない。

なにより、文字や単語は、単語テストで合格するためにあるのではなく、それを通して、「人に伝えるため」「人が考えるため」にあるという、根本を忘れてはならない。

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