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アメリカ政府は「一人の生徒も取り残さない」と言ったが、SDGsの人は「地球上の誰一人取り残さない」と言っている

<わたし、シャバフキンは、高校生に勉強を教えながら海辺で暮らしています>


巷では、「SDGs」が流行っている。

高校生が使う英語の教科書にも、単元ごとに「SDGs」のマークが記されており、その単元のトピックが、どう「SDGs」と関わっているのかが示されている。

高校の先生たちの中には、それが一体何を表しているのかよくわかっていない人もいるが、それは「エコ」みたいなもので、世の中全体が良しとしているものなのだから、今更、何なのか、何の意味があるのか、聞いてはいけない雰囲気がある。


SDGs(エスディージーズ)とは、
「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称で、
2030年を目処として、国連が掲げた目標のことである。

貧困、環境、ジェンダー、教育など、17のカテゴリーで構成され、
それぞれに具体的なターゲットが設定されており、
「地球上の誰一人取り残さない」ことが、誓われている。

初めてこれを聞いた時、国連がお題目として言っているだけのスローガみたいなもんなんだろうと、気にもとめていなかったのだが、
いつのまにか、日本の役所レベルでは、
どの部署にもSDGsが浸透しているようで、
先日、文部科学省が決定した「高校普通科」に関する新しい政策にも、
「SDGsへの取り組みを念頭に置いた科」が盛り込まれていた。

2025年に開かれる大阪万博も、
このSDGsを実現する社会を作るために開かれるという体らしい。

おそらく国連職員や国家公務員は、「地球温暖化」と同じくらい、
誰もが当たり前に受けいれる「地球規模の課題」として
SDGsを認識してほしいのかもしれないが、
17のカテゴリーで世界共通の目標を達成しようというSDGsは、
地球温暖化問題とは、問題の範囲が桁違いに広すぎる。

例えば、カテゴリーの一つに「環境(陸)」があり、
「陸の豊かさも守ろう」という題目で、
「森林の保全」や「多様な生態系の確保」「砂漠化の食い止め」などが掲げられているが、
これを、日本も、サウジアラビアも、ジンバブエも、オセアニア諸島の人も同じように考えるべき、共通の目標にしようというのだ。
それらの国々の自然観には大きな隔たりがある。
どう考えても、無理がありすぎる。

日本とサウジアラビアとジンバブエとオセアニア諸島は、
それぞれに森林に対する考えと歴史と知恵があり、
「なにが”自然”でなにが”人工”なのか」「なにが”多様性”なのか」
「なにが”保全”なのか」の考え方からして違う。

それを一括りにして、「陸の”豊かさ”を守ろう」と言っても、
すべての国が共通して持つ「豊かさ」などない。
もし、そんな共通の豊かさがあるということになれば、
それは「考えの”豊かさ”」を削ぐことになる。

そのように、SDGsのカテゴリーやターゲットに対する違和感は大いにあるのだが、
その内容よりも先に感じてしまう違和感が、SDGsのスローガン、
「誰一人取り残さない(No one will be left behind)」という誓いだ。

「だ、誰一人、取り残さない・・・?」
「”取り残された”と思う人をゼロにするってこと?」
そんなこと・・・、不可能でしょう・・・。

例えば「教育」カテゴリーで解決すべき具体的なターゲットとして、
「自由かつ公平で質の高い初等教育を修了できるようにする」
「手頃な価格で質の高い高等教育への平等なアクセスを得られるようにする」
と書いてある。

しかし、行政がいくら「自由かつ公平です」「質の高い教育です」「手頃です」と言っても、誰か一人が、
「いや、私はそんな教育は受けられませんでした」と言えば、
その人は「取り残された人」になるんじゃないだろうか。
それとも、SDGsを進めるような人たちは、
そんな「異論者」にも一人ひとり、丁寧に対応していくつもりなのだろうか。

おそらく、この「誰一人取り残さない」というスローガンを決めた人は、
アメリカ人ではないかと邪推する。
なぜなら、この言い回しには、聞き覚えがあるからだ。

2001年、アメリカのブッシュ政権下で打ち出された教育の法律、
通称「落ちこぼれ防止法」のスローガンが、
「一人も取り残された生徒を出さない(No Child Left Behind)」であった。

この「一人も取り残された生徒を出さない法(通称:NCLB法)」は、
まれに見る、評判の悪い法律で、
それまで各学区に任されていた教育に対し、
政府が口を出すきっかけとなる法律であった。

合衆国の各州は、国から学力テストの実施を求められ、
そのテストにおいて、州が定めた目標を達成することが要求された。
さらに、目標を達成できなかった場合、
厳格な厳罰措置が取られるという、ゴリゴリの成果主義的政策が始まったのだ。

その中でも最も不評を買ったのが、
「学力テストで、すべての生徒が”習熟レベル”に達していること」
という、非現実的な目標で、どの教師も、
「すべての生徒」に、ある一定レベルの達成を求めるなんて、
そんなことできっこないと思った。

百歩譲って、シンガポールのような狭い国や、日本のように規律正しい国ならまだしも、
アメリカは、出自も家庭環境も肌の色も多様な人間が集まる多様性の国だ。
学力の差だって、日本の比ではないくらいに上下の幅がある。

教師たちはNCLB法に反発し、反対もしたようだが、
法として決定され、罰則まで課されている以上、
現実的な対策を講じざるをえなかった。

その一つは、テスト対策を事前に入念に行うこと。
学力テストは、英語(国語)と数学だけで行われる予定だったので、
学校側は、英語と数学の授業を増やし、
体育や美術、音楽などの、テストに関係ない授業を削っていった。
また、テストに出るような演習ばかりを行い、
テストに出ない問題は後回しにした。
それにより、英語のテストに出ることのない、
長文の読解はほとんど授業で扱われず、
生徒たちは、長文を読む訓練を授業で受けられなくなった。

加えて、成績の悪い子たちにそのまま学力テストを受けさせると、
学校側が、「取り残された生徒」を出したことになってしまうので、
彼らを「障害のある子」として報告することで、
学力テストの対象者から除外した。

そうした各学校の取り組みもあり、
NCLB法施行後、スコアの上では、子どもたちの成績は向上した。
アメリカの教育は、「数字上」、好転したのだ。
しかし、もちろん、それは、まやかしの好転だった。
実際、「取り残された子ども」は数多くおり、
行きすぎた成果主義によって、本来、取り残されなくてもよかった生徒たちが
取り残されることになったと、批判されることになった。

そうした批判もあり、2011年、オバマ大統領時代に、代替案が出された。
その代替案は、8割以上の州で歓迎され、NCLB法はほぼ役目を終えた。

「誰一人取り残さない」というのはスローガンであったものの、
実質的な制裁があったために、現場は翻弄された。
皆、「”誰一人取り残さない”とか無理じゃん」と思いながらも、
従うしかなかった。
アメリカは、そうした、理想主義的な国である。
国として若いからか、多民族国家だからか、
「無理じゃん」と思っていても、掲げた理想を下ろせず、突っ走るところがある。

そして、NCLB法は「代替案」を経て、実質的に変更される運びとなり、
2015年に、改定法案が可決された。
そして、その法案の名前が、
「すべての生徒が成功する法(Every Chid Achieves Act of 2015)」なのである。

アメリカ人は、誰ひとりとして、
問題の根本が、法案のネーミングにあるとは考えなかったのだろうか。
「誰一人取り残さない」のは現実的に難しかったから、今度は、
「すべての生徒が成功する」に変えてみよう。
そう、彼らは考えたのだ。

99%の人の富を1%の人間が握っているような格差のある国で
「すべての生徒が成功する」ことが可能だと、彼らは本気で思っているのだろうか。
それとも、ここでいう「成功」は、
「一人ひとりにそれぞれの成功がある」というような、客観的な尺度のない「成功」を指すのだろうか。
どちらにしても、また、アメリカは、
すべての子どもに対し、一つの価値観を押し付けている。

さて、だいぶ遠回りしたが、話は、SDGsである。

SDGsはアメリカ一国の話ではなく、
150を超える国と地域が同意した国連サミットによって決まった宣言であるため、
スローガンは、「一人の生徒も取り残さない」ではなく、
「地球上の誰一人取り残さない」である。
規模が違う。

地球上の誰一人として取り残さずに、17の大きな目標を達成する気なのだ。

大きなお世話である。

「私は地球上の誰一人として取り残さないぞ」という姿勢は、
理想追求的に見えて、傲慢でしかない。
スローガンとしても理想主義を通り越して、ナイーブかつ滑稽である。

しかし、滑稽なスローガンでも「上」が音頭をとれば、
それに合わせて「現場」は踊るのだ。
そして、現場は、評価が下がることを恐れて、
アメリカの教師たちが成績の悪い子を対象から排除したように、
数字上、言葉上の帳尻を合わせて、
目標は見事達成できました、と言い張るのだ。

それは、無駄な労力である。
もっと先にやるべきことがある。
一国の政府でさえ地方の経済やコロナウィルスをコントロールできないのに、
一国際機関が、地球上のすべての人間の世話をするなんて、大それすぎている。
非現実的な理想主義を世界に押し付けないでほしい。
そして、現場で働く人たちには、ただのスローガンを真に受けないでほしい。

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