「定額読み放題サービス」のように、たくさんの本が安い料金で簡単に読めるようになった令和の時代において、昭和の児童書『モモ』の教えは、より貴重に聞こえる。
<わたし、シャバフキンは、高校生に勉強を教えながら海辺で暮らしています>
月額980円で対象の本がどれでも読み放題のサービスがある。
様々な種類の本があり、その中に、詩集もある。
詩集や歌集を読むことに喜びを覚える者として、本屋さんには並ばないようなマイナーな詩集や歌集が定額料金で読めることは、存外の喜びである。
だが、
ダウンロードし放題
感覚的には0円くらいの定額制
色んな本が次から次にサクサク読める
そんな便利なサービスを利用しながら詩集を読んでいると、頭にも、目にも、耳にも、さっぱり詩が入ってきていないことに気づく。
「読み放題」
「選び放題」
そんな読書環境では、詩集なんか読めない。
詩などというのはそもそも、時間がナメクジくらいの遅さで流れている時にしか読めないし、時間を遅らせるために、あえて詩を読むみたいなところがあるのに、「2時間制のバイキング」みたいに、生活の中の限られた自由時間の中で、なるべきたくさん読まないと損とでもいうように急かされて読む、無味乾燥な文字の羅列としての詩なぞ、詩にはならない。
本当に味わって食べたいものは、バイキングで食べるべきではない。
しかも、そもそも、詩集のような情報量の少ない文章なぞ、この時代、誰も好んで読まない。
「本は読まれなくなった」「小説は読まれなくなった」と人はいうが、ブログを含む「散文」やマンガに連なる「物語」に比べて、詩や短歌など、「韻文」の読まれなさは、比ではない。
情報量の少ない韻文を好き好んで読む人はもはやヲタクであり、さらに、それを積極的に子どもたちに読ませようとする大人は、希少種である。
ヲタクではない一般的な大人が褒めるのは、「速く」「たくさん」読む子どもである。
そこで称賛される「賢さ」とは、「情報量の多さ」のことである。
詩集のような、ペラペラな本を読めても、大人は褒めてはくれない。
今もベストセラーである児童書『モモ』は、時間に関して多くの示唆を与えてくれる傑作だが、その中で、歩みののろい、亀のカシオペイアは、時間泥棒である「灰色の男」たちから追いかけられて焦る主人公のモモにアドバイスを送る。
「おそいほどはやい」
彼らがいる時空間では、急げば急ぐほど遅くなり、遅ければ遅いほど速くなるのだ。
「定額読み放題サービス」のように、たくさんの本が安い料金で簡単に読めるようになった令和の時代において、昭和の児童書『モモ』の教えは、より貴重に聞こえる。
人が、情報が、社会の興味が、次から次に、素早く流れていく時代において、教育や育児は、「逆スピード勝負」ではなかろうか。
周りが遠くに駆けていく中、いかに遅く進めるか。
速く駆けたい衝動を抑えて、目の前の瞬間に立ち止まれるか。
その修行にも似たしんどさは、おそらく、子どもではなく大人が感じるしんどさである。
子どもにとって、大人が感じる「遅さ」は「遅さ」ではないし、大人が言う情報量の「少なさ」は「少なさ」ではない。
教育や育児の「逆スピード勝負」をするのは大人である。
そこでは「遅く歩める」大人ほど、子どもを「速く歩ませる」ことができる。
昭和のスポ根が流行らなくなったとしても、大人はいつも、「我慢」「忍耐」勝負であろう。