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永山則夫「木橋」読書感想文
著者の永山則夫は『連続ピストル射殺事件』の犯人。
米軍基地から盗んだピストルで4人を射殺した。
犯行当時は19歳。
これが1968年。
翌年に逮捕された永山は、裁判がはじまると、極貧の生い立ちを理由にして左翼じみた社会批判をしたという記憶がある。
裁判は長引いて、東京地裁では死刑判決となる。
少年がおこした事件では、初めての死刑判決となる。
これが1979年。
事件から11年が経つ。
そして控訴審となり、東京高裁の判決では無期懲役に減刑された。
これが1981年。
減刑されてから、東京拘置所で書かれた『木橋』となる。
事件についても、動機についても、なにも書かれてない。
生まれ育った町や人々の様子、家族のこと、社会に出てからの出来事が細かく描かれているだけ。
そこに思想があったり、社会批判したりという大層なものはない。
読みようによっては弁解じみたことも書かれているが、多く見聞する類のもので、さほど目くじら立てるほどでもないという気がする。
「だからって普通の人は犯罪をしないじゃないか!」というもっともな突っ込みは置いとくとして、こういう本は考えさせられる。
死刑制度についてだとか、少年犯罪についてではない。
「作品に罪があるのか?」という点で。
犯罪者が携わった作品が公開されてもいいのか、という点で。
映画とかCMだと、出演者が何かをやらかして、作品がお蔵入りになるのは度々あるけど、影響力が大きいので仕方がないのかなとは浅く思ったりもする。
とばっちりとなる人は気の毒だけど。
本に限ってはいいだろう。
だって、犯罪者が書いた本など、たくさん出版されている。
それらをひっくるめて「作品に罪はない」とは思っていた。
とはいっても微妙。
気持ちのメーターでいえば、針が目盛りの真ん中の50前後で、いったりきたり振れている微妙さ。
だって、そんなことばかり考えて生活などしてない。
ところが、受刑者になってみると反対になった。
「作品に罪はある」側に針はある。
加害者である受刑者は、なんのかんのいっても保護されているのは感じる。
不利益は大いにあるが、自業自得だと納得もできる。
一方の被害者は、何の落ち度もなく理不尽に苦しみ続ける。
周囲の人たちだって、犯人の作品など憎いのは十分に察せられる。
そりゃ、苦しむ人の気持ちほうが、作品よりも大事に決まっている。
被害者感情に沿っているようだけど、これは残念なことに、矯正教育の成果という素晴らしいものではないようだ。
逆で、なんのための矯正教育なのか、これじゃあ反省もできないという鬱屈が、いや多少の洗脳も・・・、このあたりも尽きないので置いておく。
とにかくも、読書感想文。
この本は正直いって、著者が死刑囚だと知らなければ、おもしろくもない文章に、なんともない内容となる。
この『木橋』を読んだとき
朝の出役の時間に、今から転房すると刑務官はいう。
説明などないのが常。
だけど、昨日の免業日の新聞当番のときに立会していた刑務官が、コロナに感染したのだろうなと察しはついた。
コロナがはじまったばかりだった。
この中は “ 三密 ” を基本とした団体行動。
1日に何回も整列して行進して、大声で挙手したり返事したりする。
雑居房もあるから、1人でも感染したら、あっという間に広まるのは予想がつく。
感染は仕方ないとしても、あとの治療は目に見える。
刑罰のようにして、いや、刑罰の1部として、対外的な形式だけは整えて、あとは放置される。
それでもまだ、全身防護服の刑務官が「転房!」などといって鉄扉を開けたときは笑ってしまいそうだったけど、所持品を持って病棟に移ってからは気が滅入った。
病棟なのに。
逆に病気になりそう。
日当たりのわるい1階のさらに奥の房となっていて、変な匂いも充満しているし、床などはベタベタしている。
受刑者の衛生係が配されてないから、清掃がされてないのだった。
もちろん鉄格子つき房内には、ベッドが1つあるだけで、あとは変わらない。
日中に “ 横臥許可 ” をとることなく横になれるだけ。
面会は禁止になる。
刑務所というのは、社会から隔離されている。
その隔離された中で、さらに隔離。
その心細さ。
そんな最果てにいると、陳腐な表現は嫌いだけど、このまま消えてなくなりそうな感覚を抱いた。
すべてが自業自得なのは、まちがいない。
変な話、死刑囚というのはこういう心境なのかな、とも思えた。
誰からも相手にされずに、誰からも嫌われて、誰からも憎まれて、誰にも目につかない場所にいて、誰も本当のことはわからないまま死刑となっていく。
所持している本が10冊ほどあったのが幸いだった。
そのうちの1冊が『木橋』になる。
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初版:1984年 立風書房
解説:佐木隆三 〔1990年記〕
巻末の解説の解説
巻末の解説は、佐木隆三。
犯罪や法廷を描く作家。
『身分帳』は読んでみたいと読書ノートに記入してあった。
解説の始まりのその日、最高裁は、永山則夫に対する東京高裁の無期懲役判決を破棄、死刑判決を下した。
死刑はわかっていたので、佐木隆三は確かめることもなく1日中酒を飲んでいたが酔えなかったとある。
この最高裁の死刑判決は、1990年。
ということは。
1968年に、犯行。
1969年に、逮捕。
1979年に、死刑判決。
1981年に、無期懲役に減刑。
1984年に、『木橋』を書く。
1990年に、また一転して死刑判決となっている。
解説を読んでみると、どうやら「作品に罪があるのか?」も含めて、永山則夫の死刑ついては、さんざんと揉めたらしい。
誰と誰が揉めたかというと、なんといえばいいのだろう。
死刑廃止とか、少年犯罪とか、死刑基準とか、国民感情とか、言論の自由とか、貧困問題とか、人権だの国家権力だの、文学がどうのとか、それぞれを唱える人たちがゴッチャゴッチャになって揉めたらしい。
というのも、永山則夫が逮捕された2年後に『無知の涙』という手記が支援者により出版されている。
一定の評価があったという。
そして控訴審で減刑されたのは『無知の涙』の影響が少なからずあった。
世論は「おかしいじゃないか!」となったらしい。
そりゃそうだ。
4人殺しても本が書ければ減刑されるのか、となる。
またこの『木橋』は、なんたらとかいう文学賞を受賞した。
これには、佐木隆三の強い推薦もあった。
いわく、無期懲役への減刑により、永山則夫は生きる尊さを知り『木橋』を書いた。
演説する永山則夫は嫌いだが、小説の原形をここに見た思いがする、とのこと。
でも結局は、1990年の死刑判決。
同年に佐木隆三は『木橋』の解説を書く。
解説は「死刑は当然」という新聞に掲載された投書を紹介するところからはじまる。
投書者は批判する。
文学はそれほど万人にとって必要なのか?
文学にそんな特権があるのか?
そのように投書者は “ 連続射殺魔 ” の文学を批判して、死刑に賛同する。
重い気持ちで佐木隆三はそれを読み、新聞の投書の規定に沿った感想を書いて社へ郵送する。
その投書した全文を載せてもいる。
永山則夫の死刑を否定する内容ではないが、残念さがにじんでいる。
解説まで読み終えて、死刑判決の背景までおおよそ分かったのだけど、やはり「作品には罪はある」としか思えない。
というよりも、難しい話は置いといて、そんな作品は存在しないほうがスッキリする。
犯罪者を心の底から憎む人たちだっている。
死刑もあってもいい。
冤罪の可能性もあるけど、それも置いといて、外国は外国で日本は日本だし。
けど遺された本は存在してもいいのではと、曖昧な感想の読書になった。
書くとはどういうことなのだろう、という疑問も残った。
内容と感想
この本は3つの短編から成る。
『木橋』
『土堤』
『なぜか、アバシリ』
同じようなことが、繰り返し書かれてもいる。
母親への不信、父親の死、貧困、繰り返された家出、盗癖、周囲からの差別、など。
とくに兄からの暴力は、執拗だったようである。
繰り返しすぎて「もうわかったから!」という感想もある。
文中の呼称は『N少年』となっている。
性格はひらすら暗い。
あとは大いに卑屈なのか、あるいは軽い被害妄想なのか、卑屈だから被害妄想なのか、両方なのか、どうなのかはわからない。
が、こういったのは卑屈だから書けるのだろうし、そこはいいのではないのか。
本人によるイラストも12点ほどある。
どちらかというと下手だけど、自分よりはよっぽど上手。
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詩が、数ページほど掲載されている編もある。
が、カタカナの方言で書かれていて、どうもわかりづらいので “ あらすじ ” では省いた。
『木橋』あらすじ
町にあった木橋
その木橋は、青森の町にある。
木橋は、町に流れる川にかかっている。
木橋から駅までは1本道。
商店街が、駅までいく途中にはある。
スーパーマーケット、衣服店、郵便局、書店、電気器具兼レコード店、オモチャ屋、下駄屋、タクシー営業所、などが並んでいた。
もう少しいくと、パチンコ屋、洋品店、カメラ屋、食堂、銀行三店、薬局店、湯屋、酒造店、などがあった。
・・・ 町の描写が6ページも続く。
なんの変哲もない文章。
どうでもいい細かさがある文章
読んでいる多くの人は、最初から飽きてくるだろう文章。
だけど自分にとっては、佐木隆三の解説にあるように、無期懲役への減刑により、永山は生きることの尊さを感じているだろうが伝わってくる。
永山は確かめている。
あのとき、あの場所を歩いて、それらを見て、そこの空気を吸っていたと再確認している。
檻の中にいて、寸分も変わらない生活を繰り返していると、自分はずっとここにいたんじゃないか、という錯覚も時々してくる。
定時よりも、かなり早く目が覚めたときとか。
夜中に目を覚ましたときも。
外の世界のことも、そこにいたことも忘れてしまったほうが、感情をなくしたほうが、檻の中では楽に生きれることに薄々と気がついてくる。
自分が死んだ人間にも感じてくるのは、そんなときだった。
一方では、それらを打ちのめそうとするかのような、小さな衝動が心のどこかを叩く。
これが “ 生命力 ” だと思われる。
いや、そう確信している。
自分は、なんでこんなところにいるのか?
自分は、なにをしたかったのか?
そもそも自分は、いったい何者なのだろう?
それを確かめたい。
覚えていたい。
忘れないように書いておきたい。
書くしかない。
書かないといけない。
書くくらいしかできない。
自分も同じような描写を、ノートに延々と書いていた。
マーケット長屋での生活
永山の家族が住む “ マーケット長屋 ” は、町の人からは嫌われていた。
極貧だった。
子供は7人いた。
うち1人は、長兄の子供だった。
その長兄も、家を出たっきりになっていた。
母親は、魚の行商をしている。
毎日、朝早くから電車に乗って青森までいき、生魚を仕入れる。
担いで戻ってきてからは、駅でリヤカーに乗せて、近辺の家々に引き売りにいく。
いつも帰りは遅かった。
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父親は不在である。
「バクチを打って家をとられた」とか「酒飲みでどうしようもなかった」と母親はわるくいう。
1回だけ、父親が “ マーケット長屋 ” に来たときがあった。
が、兄たちに、2人がかりで木刀で殴りつけられて姿を消している。
その父親から、幾らかの金をもらった妹は、兄に殴られて倒れた。
もらった10円玉は、バラバラと床に落ちていった。
2番目の兄が、N少年にはひどく暴力を加えた。
N少年は耐えられずに、小学生のうちに20回以上の家出を繰り返す。
いつも、網走にいる長姉に会いにいこうとしていた。
16歳離れていて、母親代わりだった長姉は、網走に住んでいるのだ。
実際は、長姉は失恋から精神を病んで入院してたのだったが、それを知らされたのはずっと後のことだった。
いずれにしても、家出しても網走まで行けたことは1度もなく、途中の駅で保護されていた。
その日は台風だった。
木橋は、台風の増水で流されそうになっている。
通行止になって、消防団員がなにかを叫んでもいる。
大勢の人々が様子を見守っていた。
木橋の真っ直ぐ上に山がある。
黒々としていて気持ちがわるかった。
そそり立つ山々の黒々とした真ん中へ、木橋は突き刺さっているようだった。
いつまでも、N少年はそれらを見ていた。
『土堤』あらすじ
横浜の桜木町駅前の鉄橋で
N少年は、横浜の桜木町駅前にある、大きな鉄橋を渡ろうとしていた。
その日は、鉄橋には人だかりがあった。
下に流れるドブ川を、皆が見下ろしている。
日雇いだと服装でわかる男がドブ川にいた。
近くにある酒場で立ち飲みして、酔っ払ってヘドロの川へ飛び込んだのだ。
若い警察官が川の中に入り、男に縄をかけて引き上げようとするが逃げ出してしまう。
橋の上の見物人たちは、それを見てゲラゲラと笑う。
N少年は、大笑いする連中に殺意を感じた。
なぜ笑うのか。
ヘドロの泥まみれになりながら泳いでいる男が、父親のように思えた。
ああして、父親が殺されていったのだと思えた。
N少年が13歳のときに、父親は野たれ死にしていた。
汚い泥まみれのズボンのポケットには、10円玉がひとつ入っていただけだった。
その場を、急ぎ足で離れた。
山下公園へいき、海を見ていると、心がいくらか落ち着いてきた。
それから数日は、父親の姿と、あのドブ川で泳ぐ男の動きが重なった。
あれが、やがて来る自分の姿なのかと思うと、惨めさが心の汗粒から湧いて出ているようだった。
・・・永山は中学を卒業して上京する。
仕事を転々としている期間からすると、この場面は、おおよそ17歳のときと思われる。
仕事を転々とするところは、永山のやる気のなさではなくて、焦燥が感じられる。
鉄橋の上で感じた殺意というのも、怒りを通りこしているものだとわかる気がする。
ここを読んでいるときに、同じく17歳のときは家出少年だった自分は、当時のある事件を思い出した。
同じく17歳の男女のカップルが、銀行強盗の未遂で逮捕されたという事件。
「ムシャクシャしたから」という動機だった。
1日で掻き消えた事件で、それも「今の若者は理解ができない」と一言で報道されただけだったが、同じく17歳の自分には共感できた事件だった。
17歳なんて、決して美しくない。
得体の知れない衝動があった。
ましてや、卑屈にまみれている17歳の永山も、そういう衝動を常に抱えていたのは想像がつく。
大阪の米屋で働いたときに
N少年は、大阪の米屋で住込みの職を得ている。
店主に戸籍謄本を提出するようにいわれて取り寄せると、出生地は『網走市呼人番外地』となっていた。
ちょうど高倉健の『網走番外地シリーズ』が流行中だった。
役場に電話して、番外地を消すように頼むがどうにもならない。
提出ができなくて机に隠していると、掃除をしていた奥さんに見つかってしまう。
それを聞いたらしい同僚は、ギターを弾きながら『網走番外地』を歌い「おまえ、網走番外地の生まれなんだってな」と蔑んだ目をした。
N少年は、すぐにその米屋をやめた。
大阪から離れた。
それからは、新宿淀橋の牛乳店、巣鴨の牛乳店、川崎市のクリーニング店などでも働くが、逃げ出すようにしてやめてしまう。
働くことが嫌だというのではない。
戸籍謄本が出せなかったこともある。
観察官や保護司が職場に訪ねてきて、そこから窃盗の前歴が知られたことへの不信や怒りもある。
2度の定時制高校の入学もしているが、仕事と同時にやめてしまっている。
神戸までヒッチハイクしてから
東京には、N少年の2人の兄もいた。
が、仕事をやめたことで迷惑をかけて、そのたびに怒られて居候していたアパートを飛び出す。
熱海へいったのは、自殺しようとしたからだった。
近辺をさまようが、そうそうできない。
N少年は、熱海からヒッチハイクして神戸へいく。
神戸港からフランス船に無断乗船して、海へ飛びこもうとしたが、なかなかできない。
そのうちに、船員に見つかってしまった。
横浜港についてからは、海上保安庁から市内の拘置所へ移送され、そこから保土ヶ谷の少年鑑別所へ。
兄は、身柄を引き受けにきた。
保護局にも同行してくれもしたが、やがては見切られてしまう。
N少年は、3年ぶりに青森の母親に会いにいく。
が、疎まれるばかりだった。
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再び上京したN少年は、川崎で日雇い労働者をした。
野宿もしていた。
川崎球場の近くの公園が “ 寄せ場 ” となっていて、早朝になると日雇い労働者が集まる。
ごったがえした日雇い労働者の中に、N少年はいた。
・・・ 年齢は書いてないが、経緯からすると18歳か。
もしかしたら19歳になっていたのかもしれない。
多摩川の朝鮮部落での1日
ある日の現場は、多摩川の朝鮮部落だった。
トタン屋根の、崩れるような掘っ立て小屋が密集していた。
ぬかるんだ道の先の大きな建物が工場となっていて、プレスされた古紙の塊を積み上げる作業をした。
無口な大男が、プレスの機械を操作していた。
休憩もなく作業は続く。
昼飯は麦飯だったが、腹いっぱい食べれた。
午後になると、同じ年頃の2人が手伝いにきて、一緒に笑いながら作業をした。
無口な大男も、そのときだけは目が笑っていた。
工場の社長が姿を見せたときには、無口な大男の「なんか知らんが、よくやってくれるよ」との一言に、N少年はうれしくなる。
作業を終えた。
日給を受け取るために事務所にいく。
そこにいた社長の奥さんは「お茶をいれますね」と言葉をかけてくれた。
日雇いとなってから、はじめてだった。
はじめての人間味ある対応だった。
N少年は、帰ろうと部落を出て、堤防沿いの道にあるバス停まで歩く。
朝鮮部落は、堤防の内側にあった。
周囲には田畑や雑木林も見えてのどかだったが、それが外側にあると感じる分だけ、なにかしら悪いものであるように映ってきてしかたがなかった。
その反発が、どこからくる反発であるのか。
どこへ向かう反発であるのか。
得体の知れないものだった。
バスが上流方向から、ユラユラと近づいてきた、
N少年は駆け出した。
・・・ なんてことはない1日が描かれている。
めずらしく永山は、卑屈にまみれることない。
印象に残る場面になる。
なんとなく、事件の直前だとは感じた。
『なぜか、アバシリ』あらすじ
檻の中でのこと
1点を瞬きせずに見つめきることは、苦しくて難しいことだ。
そこには、物事の道理の新陳代謝がなくなるからである。
しかし、見つめつづける訓練をしていくと、最初の困難さは消えて馴れがその苦しさを忘れさせる。
そして、限界が遠のく気分にもさせよう。
・・・3編目のはじまりは、こう書かれる。
自分にとっては泣ける。
独居房のコンクリの壁に向かって、同じことをしていた。
狭い中に、じっと座ることに慣れてくると、今度は壁の一点を見るようになる。
苦しさと馴れを繰り返して、なにかを果さないと、限界が遠のく気分にならないのは確かだった。
網走での5歳の記憶
十数回目の正月を迎えて30代となっているN少年は、過去を見つめ続けもする。
が、そこにも1点が、なぜともなしに浮かび上がってくる。
“ アバシリ ” になる。
そこに、N少年は5歳まで住んでいた。
が、母親は幼い3人だけを連れて、実家の青森に行ってしまった。
置き去りにされた4人は、中学生の2人に、小学生が1人、あと5歳のN少年となる。
事情は不明であるが「捨てられた」と兄は口にしている。
冬の間の6ヶ月を、子供だけで生活することになる。
中学生の兄と姉は、新聞配達や鉄くず拾い。
魚港での魚拾いは、N少年も手伝う。
給食の残りを食べていたが、それもできなくなりもする。
春になって、公園で行われた宴会のあとに兄弟でいく。
あちこちに散らばって残されている折詰を食べた。
上の兄だけは食べなくて、やがて兄同士が、なにか言い合いをしていた。
5歳のN少年は食べ続けた。
ある日。
N少年と三兄は、網走港に近い川にかかる木橋の真ん中まで歩いていった。
「ここで待っていろ」と三兄がいう。
言われるがままに、長い間そこ待っていた。
が、三兄も誰も来なかった。
その場所で、迷子になったのである。
なんのためだったのかはわからない。
網走での6ヶ月の生活のあと、青森の “ マーケット長屋 ” に子供たちは移り、母親と住むことになる。
経緯は不明である。
こうして網走での生活を思い出すと、はっきりしているものには、ほとんど良い思い出がない。
支援者からは、網走の絵葉書も届いたが、それは観光用のものだった。
心の中の “ アバシリ ” とは異なっていた。
ラスト2ページ
あの網走港に近い川に架かる木橋は、N少年にとっては非常に長いものであったが、実際はどのくらいの長さがあるのか。
いつか知りたい。
あの流氷がみえる網走は、心の “ アバシリ ” につながっているのか、空き腹を抱えた “ アバシリ ” につながっているのか。
未だにわかるようで、わからない気分にさせることが、実にしばしばある。
これらは、いつか十分に納得して識るであろう。
やがて何もかもが、分かる日がくるだろう。
生きていれば・・・。