浅田次郎「天切り松 闇がたり 第1巻」読書感想文
天切りとは夜盗の手法。
深夜に大屋敷のてっぺんに上り、風に吹かれて腕を組んで、ズイッと仁王立など決めるのが劇的。
そして、瓦4枚を外して入り込んで盗る。
闇がたりとは、盗人の話法。
6尺四方から先には声が届かない。
松とは村田松蔵。
老齢の元夜盗。
9歳で盗人の一家に入った大正6年から大正12年頃までの、見たこと聞いたことが語られる。
「鼠小僧のそのまた昔、富蔵藤十郎が大内山の御金蔵からかすめ取ったる四千両。江戸の華てぇ荒芸を今日の今日まで伝えてきたこの松蔵が・・・」と講談みたい。
「やぃ、若ぇの、いいかい、耳の穴かっぽじって、よおっく聞けねぇ」と読んでいるうちに、こっちまでがチャキチャキの江戸っ子になった気分。
松蔵が語るのは、バブルのころの、とある留置場。
それを聞く相手は、ヤクザ、地上げ屋、ポーカー屋の店長、外国人女性タレントプロモーターなど。
看守も刑事も聞く。
というのも、松蔵は逮捕されて留置場に来たのではない。
警視庁のお偉いさんから防犯のレクチャーを頼まれて、だったらお礼として久しぶりに留置場に泊まらせてくれとなる。
お偉いさんも、中途半端な悪党に説教のひとつもしてやってくれと承諾して、警視庁からパトカーで留置場へやってきた。
そこから『第1夜』がはじまり『第5夜』まで痛快に続く。
説教など聞きたくはないけど、こんな説教だったら聞いてもいいなという感想だ。
目細の安吉。
ゲンノマエのおこん。
天切りの栄治。
百面相の常次郎。
説教の寅弥。
江戸っ子の盗人一家の面々が登場。
盗られる相手も大物。
陸軍大将の山縣有朋。
貴族院の前田侯爵。
戦争成金の山本。
最後には名脇役のようにして永井荷風が登場する。
江戸からの古い時代がぎりぎり残っているが、大正の新しい時代が消していく様子がどこか物悲しい。
露骨なお涙ちょいだいはあるけど、まあ、浅田次郎だったらいいのではないか。
何冊か読んだ浅田次郎の中で、この『天切り松シリーズ』がよかった。
ネタバレあらすじ
第一夜 闇の花道
大正6年の夏。
9歳の松蔵は、父親に連れられて “ 抜け弁天の安吉 ” のもとに行く。
父親は博打で逮捕されて服役したときに、盗人の大親分の “ 仕立屋銀次 ” と知己を得ていたからだった。
しっかりと修業して、まとまった金ができたら、まず吉原の姉のところへ持っていけと父親はいう。
というのも、出所してから妻は病死して、娘は吉原に売っていた。
その金も博打でスッて、息子を盗人の弟子入りに連れてきたのだ。
安吉のほうは、獄中の銀次から手紙を受けてから、前もって事情を調べていた。
あんたみたいな父親といる松蔵が不憫だと、弟子として預かるのではなくて、子としてもらい受けるという。
親子の縁を切るのを承諾した父親は、大金を受け取り帰っていった。
今の時代からは考えらねぇが、と松蔵は念を押す。
食い詰めたあげくに、貧乏人の米びつに手を突っ込んだのではパクられたら情がわるい。
だから、盗人とは親方の元で修業を積む職人仕事だった。
安吉は40歳手前で、東京中の掏摸や泥棒の親方衆の頭目となっている。
大江戸からの慣わしで、抜け弁天の屋敷には警察も出入りして、捜査の名目で酒を飲み、袖の下も得ている。
とはいっても新しい時代になって、警察と盗人の関係が変わってきていた。
明治42年には大検挙が行われて、仕立屋銀次は刑務所へ収監されたが、あとがバラバラで収拾がつかない。
警察幹部の後押しがあって、銀次の留守の間だけという条件で、安吉が盗人の頭目となっていた。
その日。
仕立屋銀次が9年ぶりの出所となって、網走から上野駅に到着した。
一門の親方衆も出迎えている。
銀次が姿を見せた。
多くの見物人も集まっている。
義賊をきどって講談話にもなっている有名人でもある。
安吉が頭を下げたとたんに、窃盗教唆の疑いの逮捕状をかざす若い検事がきた。
元帥の山縣有朋から被害届がでているといい、銀次のコートのポケットに手を突っ込み金時計が取り出された。
明治天皇恩賜の金時計だ。
こんなところにあるはずがない。
1年前に盗ったは盗ったけど、警察から “ 品上げ ” の要請があって、内々に返却した金時計だった。
銀次は逮捕されて連行されていく。
新しい時代は、古い時代の盗人の大親分を不要にしたのだ。
安吉一家の6人は、その夜に抜け弁天を引き払う。
黒木綿の股引に道着、7枚鞐の黒足袋、黒染めの手ぬぐいまでの一揃えを、はじめて松蔵は着た。
大江戸以来の盗人装束だ。
一同は走った。
士官学校の衛兵に誰何されたが「見りゃ、わかろうが!泥棒でぇ!」と走り抜ける。
貧乏長屋では「祝儀だ!祝儀だ!」と戸口に金を投げ入れて回る。
半蔵門の堀端についたのは、うっすらと夜空が白みがかかったころ。
千鳥が淵から九段坂は夜桜だった。
そこからの桜田門を眺めて安吉はいう。
「金輪際、桜田門たァ手を切る。殿下閣下もかまやしねえ。盗られて困らぬ世間のお宝、一切合財ちょうだいしようじゃねえか。やろうども、ぬかるんじゃねえぞ!」
このとき松蔵は、大向こうから湧き上がる喝采を、たしかに耳にした。
第二夜 槍の小輔
“ おこん ” は30歳手前。
奥様やお嬢様専門のスリ。
目の前を通り過ぎて、髪をかき上げたらスっている。
玄人でも気がつかないから “ ゲンノマエのおこん ” と二つ名があった。
そのおこんが失敗した。
また、山縣有朋の金時計をゲンノマエしようとして。
今回は花火大会のどさくさにまぎれにゲンノマエしたが、感づいた山縣には呼びとめられた。
「なんのために2度も盗る」
「何のためかって決まってなけりゃあ、おかしいってんですか、え、閣下!」
山縣は軍刀を抜きかけて、おこんは悪態をついて金時計を川に投げ込んだ。
取り押さえられたおこんだったが、警察には引き渡されずに、小田原の別邸に連れて行かれたのだ。
この先は姉御から聞いたもんだ、信じる信じねえは、にいさん方の勝手さあね、と松蔵は話を続ける
翌朝になる。
庭で槍の鍛錬をしていた山縣は、座敷に上がりあぐらをかいて、おこんと向き合い語る。
5尺の小槍が脇に置かれた。
昨晩は、おまえの言葉を考えて寝れなかった。
妻も死んで、6人の子も死んでからは、今は目を見て話す者はいなくなった。
わしが偉いからではない。
みんな命が惜しいのだ、欲があるからだ。
しかし、おまえはちがう。
銭金よりも大事なものがあるから盗ったという。
命も惜しくないと金時計を川に投げた。
今はそんなことを口にする者はいない。
が、維新のころは欲も得もなく、命さえ惜しまない人間はいくらでもいた。
わしだけが死にぞこなって、保身に汲々としているやつ、さらには妖怪だのなんだの言われては割が合わないではないか。
時計代だ、肩を揉め。
なにかと言い返してくるおこんに、背を向けた山縣は上半身を脱いだ。
おこんは言葉を失った。
84歳の老体には、多くの傷がある。
この肩の大傷は新撰組の沖田に斬られた、わき腹の傷は鳥羽伏見の鉄砲、横に斬られているのは長岡攻め。
槍1本で身を立てるしかなかった。
ここだけの話、金時計など宝でもない、この小槍が宝だと山縣は話す。
おこんが黙ったまま肩を揉むと、山縣の口調は優しくなる。
「おこん、惚れたぞ」
「私っちも閣下に惚れました、すっかり」
2人は別邸で暮らしはじめた。
半年後に山縣が病死したときには、おこんはいなかった。
山縣は国葬となる。
が、市民からは悪評ばかりで、蛇蝎のように嫌われていて、葬列を見送る人々はいないも同然だった。
すると、喪服のおこんが葬列へ駆け込んで、この槍も棺にいれてくださいましと地面に伏せてお願いをする。
その5尺の小槍は山縣のものだった。
山縣が命よりも大事な宝だという槍を、おこんはゲンノマエで盗った、いや、正面きって手渡されていた。
病気で死が迫る山縣に返そうとしたのだが、人が大勢くる、その前に去れ、おまえはゲンノマエのおこんでいろ、と槍は受け取らなかったのだ。
土下座してお願いするおこんは、憲兵に取り押さえられた。
騒ぎに、松方と西園寺の2人の老侯爵が車から降りてきた。
おこんのお願いに「いま小輔さんといったな」と、風呂敷を解いて槍を手にして見入る。
たしかに小輔どんの槍だ。
奇兵隊の軍監だった小輔どんは、肌身はなさずこの槍を持っていて、長州にはすごい侍がいると感心した。
“ 槍の小輔 ” と呼ばれていた。
そう2人の老人は話して、西園寺が槍を肩にかついだ。
ここからは歩いて小輔どんを送ろうと去っていった。
伏せたまま、初めて見せるおこんの泣く姿に、一家の皆が声をかけた。
足を洗うか、と安吉もいう。
立ち上がったおこんは、葬列が向かう護国寺のほうを悲しそうにしばらく眺めて、鼻で笑ってから喪服の袖をたくし上げた。
「冗談お言いでないよ。足を洗ったそのとたん、私っちは何と名乗りゃいいんだね」
そのときの晴れがましい顔を、松蔵は忘れられない。
第三夜 百万石の甍
甍とは瓦屋根のてっぺんの部分。
百万石とは、元大名の遺族院の前田家。
その屋敷から “ 黄不動の栄治 ” は家宝を天切りで盗った。
大名のときから伝わる国宝の香炉だ。
『黄不動見参』という札が1枚貼られていた。
腕のいい大工の棟梁の子として育った栄治は、なぜ、天切りの盗人になったのか。
なぜ、前田家が関わっているのか。
国宝の香炉はどうなったのか。
当時は浅草の凌雲閣の12階がどれほど高かったことか。
どれだけ栄治が格好良かったことか。
それを松蔵が話したのは刑事に向けて。
留置人を「親不孝」だといった刑事に「ちょっと待ちねぇ」と話がはじまったのだった。
刑事は話の途中で「つまりは出生の秘密を知ってグレたと」というが、松蔵はさらに説く。
のちのち理屈をつければそうなる。
だけど、天切りの技を身につけのは、たぶん言うに言われぬ、どうにもならない思いがあった。
簡単に人のことを孝だの不孝だの言うもんじゃない。
そう松蔵は言って聞かせたのだった。
第四夜 白縫華魁
常次郎は “ 書生常 ” とも “ 百面相の常次郎 ” とも呼ばれる詐欺師で、一家の会計係。
松蔵は、学生にしてほしいと頼み込んだ。
いきなりの相談に、常次郎は筋道立てて話せという。
もっともな話だったら力になるという。
松蔵には4つ上の姉がいる。
母親が病死してから、49日も終わらないうちに男が家を訪れた。
近所がひそひそ話をするには “ ゼゲン ” だという。
“ ゼゲン ” とは人買いのことだと姉が教えてくれた。
父親と女衒は金の話をしている。
1000円で話がまとまったのか、父親と女衒の笑い声が聞こえた。
姉は涙をふいて立つ。
母親の骨壷は、風呂敷に包まれて床に置かれたままで、それに長いこと手を合わせていたが、父親に三つ指をついていう。
わたしはいきますが2つ約束してほしい。
母の遺骨は、お寺に持っていき供養すること。
松蔵は、学校に通わせて勤め人にすること。
女衒に急き立てられると、骨壷の小さな骨を鬼子母神のお守りに入れて、その2つだけは約束してほしいと言い残して、姉は女衒について行った。
結局は、遺骨はそのまま。
松蔵は安吉の一家に弟子入りして、その際には1000円以上の金が渡されたが、博打と酒で使ったらしく、姉もそのままになっている。
そして4年が経った先日。
お使いに出た松蔵は、同年の学生と知り合う。
並木という。
実家は、吉原の遊郭の “ 左文字 ” の1人息子。
銀行員の息子と偽って慶応の学生をしている。
お互いに秘密を打ち明けて、仲良くなれて、今度、吉原の家に遊びにいく約束した。
簡単ではないのはわかるけど、もしかしたら “ 角海老 ” にいるという姉に会えるかもしれない。
鬼子母神のお守りが効いた、と松蔵は思った。
経緯は長いが、常次郎は早々に「そこまで聞きゃァ、話はわかる」と泣いて話す松蔵を止めた。
なじみの古着屋に連れていき、学帽にカバンからと府立一中の生徒の身なりに整えられた。
それから並木と一緒に、鉄鋼の大門から吉原に入ったときは、華魁道中がある日だった。
大店のベテランの娼妓が、江戸から伝わる豪華な衣装で高下駄を履いて、八の字に足を運んで大通りを歩く。
大正デモクラシーで、吉原は激しく批判されていた。
この直後の関東大震災で吉原は壊滅するので、これ見よがしの華魁道中はそれが最後となる。
日暮れと同時に、多くの提灯が広い大通りを明るくした。
見物人が集まりはじめていた。
松蔵と並木は、洋食屋の物干しにいる。
外界にはないデザインの3階建てが一直線に並んでいて、そのベランダには吉原中の娼妓が姿を見せている。
姉がいるのは、大時計がある “ 角海老 ” だ。
4年が経つが、一目見ればわかるはずだが、どこにも見当たらない。
探していると、見下ろす大通りに集まっている見物客からはどよめきがおこって、あちこちから「白縫!」の声が飛んで、湧き上がる拍手と喝采があった。
その白縫が姉だった。
松蔵が泣いて叫んだのは、ようやく姉に会えたからではない。
目が潰れるほどの美しさに、それまでまともに考えてもなかった自分の不幸を初めて思い知ったからだった。
誰も気がつきはしないが、誰もわかりもしないが、この世の不幸をがっしりと担いで立ち上がっている17歳の姉だった。
不幸という化け物の艶姿を、はっきりと松蔵は見た。
第五夜 衣紋坂から
松蔵は、寅弥から殴り飛ばされた。
姉の借金を払って “ 身請け ” したいという相談をしたのだった。
身請けは、金さえ払えばいいというものではない。
店に通って、なじみになってからの話になる。
ところが常次郎は、酒も飲まないし遊びを知らない。
栄治は嘘がつけないし、芝居ができない。
身受けまで話を持っていけるのは寅弥しかいない。
怒る寅弥は、この一門の身内になったその日から、娑婆に残した親兄弟のことなど出してはいけねぇ、と眉が太い仁王のような顔でいう。
同席している常次郎は、手帳を取り出して理由を説明する。
廃娼運動をしている救世軍や婦人団体を回り、吉原の問題点を調べていた。
娼妓はいくら稼いでも手元に残らない。
利息の他に、呉服代、化粧代、洗濯代、布団代、果ては湯代まで天引きされる。
すべてを返済するのに24年かかる計算になる。
つまりは、死ぬまで働けという苦界に落とされた。
今度は「やめねぇか!」と常次郎が張り飛ばされて、残酷な計算に泣く松蔵は「おら、こっちこい!」と頭を抱かれた。
深川生まれで、口はうるさく手は早い寅弥だったが、常次郎の計算通りに “ 角海老 ” に通いはじめた。
が、悪い予感のようにして、身請けの話が急転する。
借金が1000円から5000円に増えたのだ。
父親だった。
博打で嵌められて、女衒が追貸を仲介したのだ。
しかし、いくらなんでも楼主だって5000円は貸さない。
戦争成金の客が身請けを口にしていたから、追貸したのだった。
ところが、1000円が5000円になったとたん、ふっかけられたと戦争成金はあっさり手を引いてしまった。
5000円の借金証書だけが残った。
しかし、楼主にも仲介した女衒にも悪気はない。
読みちがい。
身請けする客とは、元の借金だけでなくて、この先の稼ぎも含めて、ふっかけられているのも承知して大盤振る舞いするのが通常だった。
経緯を知った寅弥は、戦争成金の千坪の屋敷に強盗に入る。
寝ているところを起こして「やい!成金!」と出刃をドンと突き立てた。
「なりァ、盗っ人にせぇ、名にして負う説教虎がこうしてやってきたにァわけがある」
仁王の顔をして、吉原の言葉である “ 達引 ” とは何かを闇がたりで説く。
「さあ、達引の掛け取りでえ、耳を揃えて5000両、お見それしましたと出しやがれ!」
成金は震え上がり金庫は開かれた。
札束がギッシリと詰まっていたが、きっちりと5000円だけが数えられて包まれた。
「そんじゃ、邪魔したな、あばよ!」
寅弥は去った。
ラスト16ページ
身請けの話は寅弥がまとめた。
楼主は5000円を数えて、借用証書は渡された。
楼主は「念を押しますが、あとになって四の五のいいっこなしですぜ」と姉がいる部屋の扉が開けられた。
血の気がなく寝ている姉は、スペイン風邪だった。
猛威をふるっていて15万人が死亡していた。
歩いて大手を振って、吉原大門を出て行くはずだったが動けない。
松蔵がおぶると、ずいぶんと軽かった。
さっきから女衒が立ち会っていた。
しきりに寅弥のご機嫌とりをしている。
それに応えない寅弥だったが、階段の前で足が止まった。
手間賃がまだだったと、財布から札の束をつかみ出す。
女衒が「いなせだ!」と調子よくおだてると、札は高くバラ撒かれた。
「もひとつ、いなせっぷりを見せてやろうかい!」
殴り飛ばされた女衒は階段から転げ落ちた。
店を出た。
おぶられた姉は、寅弥にお礼をいう。
店にきても、体には触れずに寝かせつけるだけだったのだ。
次いで姉は、そっちに歩けと指差した。
病院はこっちだといいかけた寅弥だったが、おぶられている顔色を覗いてからは、この先は2人だけで行けと下を向く。
でも姉弟には帰る家などない。
どこに行けばいいのだろう。
大門を出ると、姉はこのまま日本堤につながる衣紋坂を上がれという。
「そこに医者がいるんか?」
「もういい・・・、もういいよ・・・、松、がんばって」
坂の途中で、姉は死んでしまった。
姉はきっと嘘を知っていた。
もう嘘はいいから頑張って日本一の盗人になれ、と言おうとしたのだ。
衣紋坂を上がる。
日本堤の見返り柳の下に立つ。
姉は、どこに行けというつもりだったのだろう。
雪となっていた。
おぶったまま立ちすくんでいると、通りかかった男が傘を差し出してきた。
事情を聞いて、この先の三ノ輪の浄閑寺にいけば、手厚く葬ってくれると教えてくれた。
銭は必要ないという。
もし、坊さんに尋ねられたら永井荷風の知り合いだと言いなさいと、彼はいう。
彼はいきなさいというが、泣けてきて歩けない。
こんなときはどうすればいいのか。
しゃくり上げながら松蔵は問うと、彼はポツリと答えた。
「歌を、唄いなさい。唄うことは人間にしかできない」
松蔵は、おぶりながら歩きながら歌った。
歌うと応援されているようで、元気が出てきて歩けた。
お寺の屋根が見えたときには、体をゆすって姉の背に積もった雪を落とした。
「よかったな、ねえちゃん、お寺にへえれるってさ。おっかちゃんよりも幸せだな」
いつの間にかだった。
学生服の胸ポケットには、鬼子母神のお守りが入っていた。
松蔵は話を終えた。
手の平の古いお守りを見つめている
誰もが側を離れようとしない。
松蔵はうつむいて、そのときの歌を小さく口ずさんでいる。