冲方丁「光圀伝 上」読書感想文
むずかしい人物を描いた小説。
水戸黄門だ。
むずかしい読書になりそう。
テレビ番組のイメージが強すぎる。
水戸黄門は全国を旅する。
葵の御紋の印籠をかざして、下々を土下座させて、高らかに笑うおじいさんのイメージが強い。
それは創作だとは知ってはいるが、いったんイメージがついてしまうとマズい。
読んでいる途中で、人生なんとかというテーマソングが浮かんできそうな気がしてならない。
しかし避けては通れない。
読書をするようになると、水戸光圀の名前はちょいちょいと出てくる。
『大日本史』と共に。
1600年代に水戸光圀によって編纂されたこの本が、幕末になって水戸藩の尊王攘夷運動に影響を与えたという。
そして無学者には疑問がある。
なんで、それほど水戸光圀は天皇を敬ったのか?
幕府からしてみれば、脅威の小さな芽ではないのか?
そのあたりが、なにかわかるかもしれない。
冲方丁で「うぶかたとう」
官本室には、冲方丁の本が3冊ほどあった。
“ おきかたてい ” だと勝手に思っていた。
読めない名前が、自分が知らないだけで実は文壇の大御所で、70歳か80歳くらいの作家だと思い込ませていた。
すると、それに比べればずっと若い。
1977年生まれ。
しかも、ライトノベルのSFから歴史小説まで幅広く書く。
いちばん最初に読んだ『麒麟児』もよかった。
幕末の名脇役の勝海舟を、わかりやすく描いた本だった。
それが一転したかのように『光圀伝』では文章が硬質。
いや、こっちのほうが発刊は早いから、あとになって軟化したのか。
いずれでも、文章のタッチは好きだなと感じた。
感想
上巻では、幼少から27歳までが描かれる。
1628年に水戸光圀は生まれた。
それからの時代は、ドメスティックな出来事が主で、それほどは劇的ではない。
若い光圀はやたら熱い。
悩みもある。
あちこちに反発もある。
出来はよくないが、周囲からの応援もあり、励ましも叱咤もある。
様々な人物との出会いがあり、別れも交じる。
少年から青年へと成長していく過程が描かれて、青春小説のテイストもある。
そして文事に目覚める。
文事の上級者として、天皇を敬っているかのようでもある。
上巻を読み終えて、水戸黄門のイメージは消えている。
ネタバレあらすじ
67歳の光圀の回想からはじまる
今、大きな円窓からは、植えたばかりの梅の木が見えている、とはじまる。
そうした一室で、水戸光圀は思い悩んでいた。
大老の藤井紋太夫を、手打ちにしたことだった。
30年仕えてきた家臣だった。
「なぜ、あの男を殺したのだろう」という苦悶から、光圀は回想する。
幼名は子龍(しりょう)といった。
生まれは水戸だったが、5歳のころに世子として江戸に移り、父親から鍛錬を受ける。
父親の頼房は、徳川家康の11男。
光圀は、徳川家康の孫となる。
この父親がスパルタだった。
あるときなどは、夜中に処刑された罪人の生首を取りに行かされたりする。
が、光圀は臆することなくやってのける。
決して、ひ弱なおぼっちゃまではなかった。
・・・ 藤井紋太夫の「なぜ?」については下巻の終わりのほうに持ちこされる。
10代のころに文事に目覚める
江戸時代の初期だった。
三代将軍・徳川家光となって体制が固まってきたころ。
長子相続の世襲により、上級と下級の武家社会の序列が形成されていく。
戦国が遠い過去の出来事となっていて、武士の立場も微妙に変化していく。
武断から文治へと、政治は転換していた。
戦で死ぬことからは解放されているが、武家の者としてそれでいいのかと、光圀は成長すると同時に悩みはじめる。
15歳になると、募らせていた悩みは不満に変わる。
江戸の市中が賑わっていたのと、血気盛んだったのが重なった。
身分を隠して徒党を組んで、派手な身なりで歩く。
喧嘩をすることも度々だった。
16歳になると、芝居小屋に通うことも、酒を飲むことも、遊女屋に繰り出すことも覚える。
17歳になったある日だった。
遊び仲間にけしかけられて、なりゆきで無宿人を斬る。
無宿人は血を流して、息たえだえになっている。
が、なかなかとどめを刺せない。
そこへ現れた男が、刀を抜いてとどめを刺した。
宮本武蔵と名乗る男で、その場では別れた。
どうしても気になって、居所を調べて会いに行く。
宮本武蔵には、相手を苦しめずに人を殺す術を教えられた。
それからは、遊び歩くことも減っていく。
司馬遷の『史記』を読み、感銘を受けたりもした。
みな生きてこの世にいたのだ。
どれほどのものが失われ奪われようとも、人がこの世にいたという事実は永劫不滅だ。
それだ、それこそが史書の意義なのだ、となにかを得る。
詩歌にも興味を抱くようになる。
手帳を持ち歩き、詩の着想や、そのときの思いを書き綴る。
これは生涯の癖となる。
「詩の天下をとる」と心に抱くようにもなった。
詩歌の上達のために、読書に励んで、幕府の講義にも出席するようにもなった。
20代になって解消された悩み
詩歌の面でも多くの人に知られるにまで上達したが、文化の中心はなんといっても京都だった。
京都の名が知れる歌人に、挑むようして詩歌を送りもしたが、天皇の師ともなる人物だと知りうろたえたりもする。
また、林読耕斉という同年代の者とも知り合う。
議論も挑むが、勝敗がつかずに終わる。
が、林読耕斉は家臣になることに決まる。
光圀には、長年の悩みがあった。
頼重(よりしげ)という兄のことだ。
今は、四国の高松で5万石の大名になっている。
本来だったら、兄が世子となるはずだったが、病身が懸念されていたので世子とはされなかったのだ。
その兄を差し置いて、光圀が水戸藩の世子となったことに、わだかまりというのか、自身の中でなにかちがうという重苦しさを抱いていたのだった。
その解決は、儒教が説くところの “ 義の貫徹 ” に求められていた。
このまま子を持たないでおこうと決めていた。
自身の義の貫徹のために、兄の子を養子として水戸藩を継がせたいという考えに至っていた。
が、27歳になると結婚することになる。
相手は、京都の公家の秦姫(たいひめ)だという。
断ることもできずに、頭を抱える光圀だった。
結婚はした。
そして彼女には、兄についての長年の悩みを打ち明けた。
兄の子を養子として水戸藩を継がせたいと話したのだ。
お兄さまとは、ゆっくりとお話がしてみたい。
そう言い出した彼女だった。