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小池龍之介「しない生活」読書感想文

矯正教育の一環で、4月には灌仏会があって、7月には盂蘭盆会があって、12月にはクリスマス会もある。
講堂に祭壇の類が組まれて、お坊さんや、神父だか牧師が来て、なんやら行事をして話をきく。

宗教行事は、強制ではない。
が、刑務官は「おい!願箋かけ!」というし、その1時間ほどは冷暖房が効いた講堂に座れる。
なんといっても、宗教行事への参加は、反省の評価が上がって仮釈が早まるともいわれる。

実家に仏壇があった程度で、その宗派も知らない無宗教といってもいい自分は、参加を断る理由はない。

※ 筆者註 ・・・ 読書録を見直すと、以下、余談が続いているのです。本書の内容を早く知りたい方は、目次でワープすることをおすすめします。


受刑者と宗教

同じようにして “ 教誨 ” が、月に1回ほど回ってくる。
刑務官の立会のない一室で、お坊さんとマンツーマンで話をする。

宗教者のほとんどは、犯罪者は心が弱い、心に欠陥がある、あるいは保護すべき弱者、といった態度で話をしてくるのだけど、善意のボランティアの人たちだし、自分だって少しは常識はあるから、そこは神妙にしてやりすごす。

ただ1人だけ、真宗大谷派のお坊さんだけはちがった。
すでに風貌からして “ 破戒僧 ” といった佇まい。
俗っぽい。

向かい合ってからは、自分の犯罪について聞かれて、それについては官製の矯正教育の定番フレーズのひとつである「反省してます」と口にすると「ガハハハッ」と豪快に笑う。

「反省などしなくていい!」と言い放つ。
「本音を言えないと反省などできない!」と喝破する。

確かにそうだった。
裁判となってからは、本音を言えないまま、本当の気持ちがわからないまま、気持ちに蓋をしたまま、すべては自分がわるいのだと思い込むことで納得していた。

ここにきてからの矯正教育にしても、すべての犯罪の原因は、個人の心のなかという曖昧なものに押し込められる。
10人単位100人単位で、一括してそう教育していく。
なにがどうという話はなくて、ただ従うことが評価される。
それが反省したこととなる。

いったい自分は、なにをしたかったのか?
自分の本音とは、なんだったのか?
そもそもが自分とは、なんなのだろう?

たぶん、そういったところから、宗教に傾く受刑者が発生してくるのだと思われる。
宗教の本を読みはじめるのも普通だし、写経をしたり、数珠を購入したりする者もいた。

ともかく。
受刑者となって2年ほどして手にとった本。
著者は知らないが、サブタイトルに惹かれた。
『煩悩を静める108のお稽古』とあるからだ。
煩悩は静めたい。

それに小池龍之介という名前が、なにかこう深いところを書いている気がする。
芥川龍之介と勝手にかぶっちゃっているのだろうけど。

新書|2014年発刊|241ページ|幻冬舎

感想を一言でいえば

著者は、お坊さんだった。
朝日新聞に掲載された、2011年10月からの2年3ヶ月間のコラムのうち、108本を選んで1冊にまとめたもの。

で、読み終えた感想を一言でとなると「お寺のお坊さんが書いた本です」となる。
もっと詳しくとなれば「お坊さんが煩悩を静めるために書いた本です」と言うしかできない。
それ以上でも以下でもない、と思われる。

著者の日常を交ぜながら、煩悩とはなにか、どう対処すればいいのかを説く。
難しい内容もない。
2時間足らずで読み終えた。

「お稽古」はとくに書かれてない

当たり前のことが、延々と続く本だった。
いかにも、お坊さんが言いそうなことばかりだった。

たとえば『どちらが得か?と考えるのは、心を疲れさせる煩悩です』とある。
とはいわれても、煩悩ばかりを自覚している自分からすれば「ですよねぇ」としかいいようがない。

しかし、それではいけない。
なにか、ひとつは得るものがなければだ。
けっこう一生懸命に読んだ。

が、ぼんやりとした内容だった。
実践的な “ お稽古 ” の記載は乏しい。
強いて “ お稽古 ” に該当する部分を抜粋すると以下である。

『食事は腹七分目にとどめる』
『頭だけでなく手仕事もする』
『不便なことも受け止める』

目から鱗的なものは、まったくない。
「ですよねぇ」という感想が続くだけだった。

「煩悩」がちょっとしょぼい

中途半端でもある。
煩悩を説く根本となっているブッダの言葉が欲しかった。
それらも、エピソードも、もっと知りたかったが、1行か2行で終わってしまう。

いくつも煩悩が生じる場面が挙げられるが、こっちは中途半端というよりも、ただ、しょぼいだけだった。

著者がネット上で経験したという、よくある出来事。
著者と親の日常でのささいな、ほんとうにささいな出来事。
著者と友達との、いたってどうもいい日常会話。
ほとんどの場面がそういった類で、そこにいちいちブッダの説く煩悩を当てはめていく。

ずっこける。
大袈裟ではなくて、本当にずっこける。
もっと煩悩って、ぎりぎりところに沸くのではないのか?

寛容のなさが伝わってきた

宗教をやっている人によくある、物事を良い悪いで決め付けてしまう癖が、文面からはプンプンとしてくる。
もっとも著者のほうも、仏教原理主義者を自認している。

読めば読むほど、著者の偏狭さというのか、極端さというのか、はっきりいえば寛容のなさが伝わってくる気がした。
例えば以下である。

『10年以上菜食をしていた』
『以前はスポーツは野蛮だと思っていた』
『ネットをやめた』
『携帯を持たないようにした』

だとしても、このあたりはまだいい。
人の好みだし、とやかくあげつらうほうが無粋だ。
もし近くにいたら、ちょっとめんどうだな、という程度。

が、シロアリが、寺の建物に発生したときの部分には「こんな人いるんだ」と正直いって驚いた。
以下、抜粋である。

『シロアリは人を困らせたいのではなく一生懸命に生きているだけだ。一方的に薬剤を用いて大量虐殺するなんて考えられない』

そのように著者は述べて、シロアリ駆除会社に殺さずに逃がす方法を申し入れる。
シロアリ駆除会社だって、いきなり大量虐殺といわれて困ったのは察するに余りある。

もし自分が檀家だったら。
その建物がシロアリで倒れたら、結局はウチらが負担して直すんだろうが、このクソ坊主 と詰め寄りたい。
それに、お坊さんなのだから、シロアリを供養して天国でもなんでもいかせてあげればいいのに。

小池龍之介、相当にめんどくさい人だ。
感想は以上である。

・・・ なんにしても、真宗大谷派の○○さん!
話を聞いてくれて、ありがとうございました!
それだけで、受刑生活が有意義になりました!
お盆には、墓参りもしました!
本音については、少しずつ考えてます!

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