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田辺聖子「ジョゼと虎と魚たち」読書感想文
「田中さん、こっちでは “ やるな ” ってのは “ やれっ ” ていう “ フリ ” なんすよ」と735番の平井君は教えてくれる。
「オマエは生意気なんや!」とか「反抗的や!」と、荒井刑務官(仮名)から叱責を受けてるのを見かねて、親切で教えてくれたのだった。
いわゆる “ 関西ノリ ” に悩まされていた。
都内で逮捕されて、関西の警察署で留置され受刑者になったから、まったくそのあたりがわからない。
その日の作業中も「交談許可おねがいしますっ!」などと挙手をしていると、荒井刑務官は言う。
「オイ!オマエはラッパーか?」
「はい?」
「ラッパーなんか!」
「いえ、ラッパーではないです」
いかん。
安易に返事をしてしまった。
ラッパーとは、あのラッパーのことじゃないのかも。
ほかに、ラッパーという用語でも事象でもあっただろうか?
「帽子や!曲がっとるやろ!」
「あ、・・・イエイエィッ!チェケラッチョ!」
「あはははっ!やっぱりオマエはラッパーや!やっとワシのいうことがわかってきたようやな!よぉし!」
「はい、ありがとうございます!チェケラッ!」
以前の自分だったら「はい、すみません!」で帽子を正して直立するのみだった。
そうするのが当たり前だと思っていた。
が、こういうときにはラッパーの真似をしなければ、生意気とか反抗的とされると覚えたのだった。
ちなみに帽子が曲がっているとは、1センチか2センチの範囲ではあるが、そういうところから生活の乱れがはじまり、ひいては心の乱れにつながるという。
・・・ さっそく話が飛んでしまった。
ノート検査で見つからないように、読書録の間に刑務官の言動を書き込んであるから仕方ない。
で、社会復帰した今、冷静になっていえることは、矯正教育のおかげで、いつでもどこでも躊躇することなく一芸ができるようになりました、ということである。
ただ今のところは、関東にあっては、その一芸は小さな子供にしか通用してない。
それに、一般社会では、自分のセンスのない一芸などは必要とされてない。
いや、全く不要となっている。
きっかけ
回覧新聞で、田辺聖子の死去の記事を読んだからだった。
女性が主役の恋愛小説、大阪弁を使った柔らかい文体、古典の翻訳もあり、と記事にはあって、それらはすべて読書ノートにメモをとった。
不思議だ。
名前を聞いたことがあるだけで、なにを書いているのか全くわからない作家だったけど、死去したとなると読みたくなってくる。
大阪弁を使った柔らかい文体、という部分も気になる。
大阪弁を覚えなければならない。
大阪弁のイントネーションだって習得しなければならい。
関西ノリも、若干はできるようになってきた。
そう思って、官本室にあるのを見かけてから、早いうちに読もうとマークしていた1冊になる。
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※ 筆者註 ・・・ 2020年に劇場アニメとなっているようです。新版の表紙はアニメ風となってますが、読んだのはこっちのほうです。ジョゼが住む家のイメージだと思われます。
読んでいる途中の感想
驚きがあった。
昭和2年生まれの田辺聖子が、こんなにも多様で自由に満ちている恋愛の短編を描くとは。
昭和一桁生まれの女性とは、もっと恋愛に保守的だと勝手に思い込んでいた。
でも、よくよく考えてみれば、勝手な先入観でしかない。
全員が全員とも保守的ではないだろうし、恋愛に時代も関係ないのかもしれない。
時代の空気にも、考えを巡らされた。
この本が発刊された1987年は、バブルの最中。
たしか “ ダブルインカムノーキッズ ” という流行語があったのを思い出した。
うっすらした記憶だと “ ダブルインカムノーキッズ ” は消えた流行語になる。
そのあとに “ シングルマザー ” が流行語となって、これからはそういう時代だとオシャレ感を以って喧伝されて、やがて定着していく。
だけど、この短編の恋愛には、そういったオシャレ感だとか流行が全くでてこない。
それぞれの生活が中心になっていて、そこが30年前以上の小説なのに時代を感じさせない。
色あせてない。
いずれにしても、感情は色あせない。
「これが好き!」とか「これがいい!」という感情は、50年たっても100年たっても色あせない。
それを知った読書だった。
読み終えてからの感想
初めて読んだ田辺聖子の本だった。
女性作家の恋愛小説というのは、どうせファンタジーだろうと、お涙ちょうだいだろうと、タカをくくっていたのだけど、それは完全に間違いだった。
考えることもなかった、女性の心の機微が描かれている。
田辺聖子に謝りたい気分だ。
短編が9つある。
本の題名の「ジョゼと虎と魚たち」は、そのうちの1篇。
9人の女性が登場する。
30代と40代が主で、ジョゼだけが若くて25歳。
発刊された1987年は昭和62年。
で、結婚率99%のこの時代の、ありがちな専業主婦は1人も登場しない。
仕事を持つ女性がほとんど。
テレビドラマの放送作家、家具コーディネーター、造花デザイナー、婦人服製造販売会社の営業など。
生活保護の車椅子の障害者もいたり、処女もいたりと、1人1人のタイプは大きく異なる。
99%のこの時代に、どの女性も結婚や出産に絡めとられることなく、家族に縛られることなく恋愛をする。
恋愛をするとはいっても、皆が皆、大人の女性だから、仕事も生活も、利得だって性愛だって絡まって、それが生き生きとした現実が感じさせる。
もちろん、恋愛につきものの別れもあるが、女性たちが乗り越えていくのが逞しくて、女性の強さが伝わってくる。
対して自分は、コンクリートの3畳の独居で、ウネウネとした気分のミミズ男になっている。
この小説に登場する全てのダメ男と、自分が重ね合わさる。
今まで女性の優しさや小さな善意までをことごとく踏んづけてきたのだなと実感して、大切にもしないで奪いとって食いつぶして、あのときの彼女はどんな気持ちだったのだろう、だから果てには檻の中にいるのだと、懲役病の自己嫌悪とはちがった鬱々感がある。
報いというのはあるのだ・・・と胸がもやもやして、変色した畳の目などを指先でゴリゴリしている。
いっときが過ぎた。
それはそうとだ。
30年以上も前の大阪が描かれているので、だいぶ大阪弁が濃い気がする。
なかなか耳にしない。
が、もっと大阪弁も知りたいのでちょうどいい。
田辺聖子は、2冊目、3冊目と読みたい。
※ 筆者註 ・・・ 無理やり大阪人になりきろうと努力していたのです。その反動で、出所後は大阪アレルギーが発症しているようです。それと田辺聖子の恋愛小説は、ダメ男ほど胸をモヤモヤさせる気がします。さらに反省させられそうで、とても2冊目までは手が伸びない現状です。
ネタバレあらすじ
9つの短編がある。
どれも大人の女性の恋愛。
表題の「ジョゼと虎と魚たち」だけが、主人公が若いし自活できないという点で、ちょっと他の短編とは雰囲気が異なる。
9つの題名は以下となる。
お茶が熱くてのめません
うすうす知っていた
恋の棺
それだけのこと
荷造りはもうすませて
いけどられて
ジョゼと虎と魚たち
男たちはマフィンが嫌い
雪の降るまで
どの短編もいい。
というか効く。
それぞれが20ページから25ページほど。
あらすじは、1番目と7番目のみとなる。
お茶が熱くてのめません
高尾あぐりは32歳。
テレビドラマの作家として成功している
ある日。
7年前に別れた吉岡から電話がある。
なつかしさもあって会う約束をする。
その7年前は、ひどい別れ方だった。
吉岡は結婚すると約束しておきながら、親が進めていた別の女性との縁談が決まったのだった。
結婚してからの吉岡は、親から工場を継いでいる。
そして、2年ばかりで工場を倒産させたのだけは知っていた。
でも、なんのために?
今ごろになって?
そんな疑問はあったが、とことんまで憎めない吉岡だった。
身勝手な男ではあるが、無邪気さもあったのだ。
一週間後。
吉岡は自宅を訪れた。
痩せていて、老けていた。
興ざめもしたのだが、とりとめない話をして、離婚をした侘しい状況を聞いて、思わず涙をぬぐう。
しょげた姿の吉岡を目にして、もし借金の申し入れをしてきたなら応じよう、という気もでてきた。
吉岡の喜ぶ顔を見るためなら、少々の痛い目をみても仕方がない、と静かな絶望と共に考えていた。
が、吉岡の申し入れはちがった。
工場が倒産したのは計画詐欺にあったから。
で、その話をドラマで使えないか、という。
原作料は貰えるのかとも。
こんな吉岡を見るのは本意ではなかった。
急速に、吉岡への興味は失われた。
喉が渇いて、新しいお茶を注いだ。
飲もうとしたが、あまりに熱くて飲めない。
イライラする。
喉の渇きも忌々しくなってきた。
ジョゼと虎と魚たち
山村クミ子は、下肢の麻痺の障害をもつ25歳。
車椅子がなければ生活ができない。
祖母と暮している。
父親はいるのだが、10代からは会ってない。
10代の頃に父親は再婚して、同時に施設へ入れられて、やがて祖母に引き取られたのだった。
その祖母も亡くなった。
生活保護となって、1人暮らしとなっていた。
同棲をはじめた相手は恒夫だった。
1年前に、ボランティアで訪れたのがきっかけ。
大学を卒業したばかりの2つ年下。
「ジョゼ」と呼ばせている。
フランソワーズ・サガンの小説のヒロインの名前だ。
恒夫は優しい。
名前ではなくて「おい管理人!」と呼びもするし、わがままな文句だって言い放っているが、腹を立てることがない。
父親の悪口を言ったときには怒りつけもした。
悪態だってつく。
が、恒夫は、腹を立てることがなく、ぼやきながら車椅子を押してくれる。
恒夫には「動物園の虎が見たい」とせがんで、連れていってもらう。
今まで、ほとんど外出したことがなかった。
車椅子だったし、他人とつるむこともしないので、障害者の集まりにも参加しないからだった。
はじめて見た本物の虎だった。
生の咆哮に怖がると、恒夫は心配してくれる。
が、好きな男の人ができたときには、どうしても本物の虎が見たかった、怖くてもすがれるから、と明かしてしまう。
泊りがけの旅行にもいく。
ガラスのトンネルがあるという海底水族館へもいってみた。
泳ぐ魚たちに声もでない。
恒夫に車椅子を押させて、館内を何回も巡る。
いっぱいに広がって泳ぐ魚を眺めた。
その晩。
泊まっていたホテルのベッドで、夜中に目を覚ます。
カーテンを払った窓からは、月光が射しこんでいる。
まるで部屋中が、海底水族館のようだった。
そこで、恒夫と2人で魚のようにして寝ている。
アタイたちは死んでる、死んだモンになってる・・・と深い満足のため息が洩れてきた。
恒夫は、いつ去ってしまうのかわからない。
が、傍にいる限りは幸福だ。
それでいいと思う。
幸福を考えると、それは死と同じようにも思う。
完全な幸福があるとすれば、死、そのものだ。
恒夫と指を絡ませた。
そうして安らかに、もう1度眠りについたのだった。