「深夜22時の炊飯哲学 〜夜食か、安眠か、私はいま葛藤中〜」
どうも、夜型生活でお米と格闘中のたなかです。
さて、みなさん。
深夜22時に、ご飯を炊くか否かで頭を抱えたことってありますか?
ない方は想像してみてください。
夜も更け、気分的には「明日への備え」として寝る支度を始める頃、ふと沸き上がる、あの白く輝く湯気の欲望。
そう、炊きたてのご飯が頭をよぎるんです。
22時の私は、すでにほぼ夢の住人。
理性的な部分は「寝ろ」と言いますが、感覚的な部分は「ご飯が食べたい」と猛烈にアピールしてきます。
「明日の朝でいいじゃん」と言い聞かせようにも、心の中の“炊飯推進派”が押してくる。
私の脳内は完全に「早寝健康部隊」と「夜食支持派」に二分され、戦いは熾烈を極めることに。
まず、炊飯を始めるには米を研がなければならない。
米を研ぐこと、それは一見単純な作業に見えますが、ここにはとんでもない罠が隠されているのです。
水を流す音が不思議と周囲に響き、なんとなく近所に「今から食べるぞ」という自己申告のような罪悪感が…
いや、22時に米を研いでいるという背徳感がひしひしと胸を締め付けてくる。
そして、もう一つの壁、それは「炊けるまでの待機時間」です。
ご飯が炊けるまでの約40分。
長いですよ。
人間はその間に自分の行いを反省してしまうんです。
なぜか哲学的な疑問まで湧いてきてしまう。
この時間こそが、私の決意を試しているんです。
つまり、夜の炊飯には「食欲」という甘い誘いと、「待つことの覚悟」という苦しみがセットになっているんですよ。
ただ、すべての葛藤が終わった後、いざ炊きたての湯気に包まれたお米が現れた瞬間、すべての迷いは一気に吹き飛びます。
あの一粒一粒の輝き、まるで白い宝石。
箸を入れると、もちもちした質感が弾む。
ここで思うのです。
夜遅くに炊いた罪悪感すらも、一口で許される気がしてくるんですよね。
しかも、お米が口の中でほぐれていくたびに、今日の自分の選択が正しかったと心底感じます。
というわけで、22時の炊飯はまるで人生の縮図。
時に悩み、時に揺れるけれど、その先には予想を超えた満足が待っている。
今日も明日も、私はまた22時に米びつを覗き込むことでしょう。