批判と裁判
先日あったとあるニュースを告げるツイートを何気なくタップした僕は、そこから先に地獄を見せつけられた。
この報道から約2週間経過し、今では比較的リアクションも落ち着き理性的なコメントも増えてきたが、この速報が流れた直後はあまりにも悲惨なリプライであったのをよく覚えている(あまりにも悲惨過ぎて僕の心が冷静になるのに時間がかかり、記事にするのにこれだけの時間を要したのである)。
当時のリプライを僕の記憶を頼りに再現すると、
これぞまさに天罰だ、スカッとした。
死んで逃げてるんじゃねえよ。
ご冥福をお祈りしません。
不謹慎だけど、ざまあとしか言えない。
などなどである(現在でもその一部を垣間見伺うことができるであろう)。
確かに、この元ニュースで50代男性が犯したことは、明確に非難されなければならぬものだ。感染を自覚しており、なおかつ「自分はコロナにかかっている」などと周りに喋りながら店へ滞在し、結果従業員へ感染させるという、常識が足らぬの一言では済まされない、悪辣な行為である。彼は従業員への傷害罪で送検されるであろうし、個人的には送検し徹底的に検証していただきたい、という思いである。男性は亡くなっているが、所謂「死に逃げ」にならぬよう、かつ遺族へ配慮しつつも、しっかりと追及してほしいし、何より被害者の方への救済がなされることを願っている。
さて、問題はここからである。
このニュースを眺めた私たちに、この「男性」を批判する権利は果たしてあるのであろうか?また、その「批判」とはどういったところまでがそれ足りうるのだろうか。
事実を知り声を上げ、世論として世界を動かしていくということは、勿論重要なことである。また、ニュースは時に人の好奇心を掻き立て、また人間が持つ様々な感情に作用する。例えば、よろこばしいニュースを見れば明るい気分になるし、芸能人の不倫ニュースを見れば不愉快な気持ちになると同時に興味関心が沸いたり、その芸能人が堕ちていくさまをみて胸をスカッとさせたりしているのである。
そういった世の理について、私だってある程度は許容している。
ただ、今回の件はいくつかモヤつく点があるのだ。
1つに、私たちはこの情報を知りイライラしたり怒ったりしたであろうが、そのイライラや怒りをただ死者へぶつけることが正しいのか、ということである。さらには、半ば当てつけのような、どれほど汚く攻撃的な言葉で貶めるか、というようなリプライもいくつかあった(本稿の品位に関わるので引用は見送った)。この頃外出制限、慣れないリモートワークや時間差出勤、休校、マスク買い占めなどでコロナによってたくさんのストレスを抱えた私たちは、このような「石を投げても誰も怒らなそうな」的を発見し、ストレス解消として言葉の「石」を投げつけてはいなかったか。物言わぬ死体へ石を投げつけることは、ヤケになり誰かへコロナを感染させようと活動したこの男性が犯したことと同義ではないか。
また、「冥福を祈れない」「天罰が下ったんだ」などという投稿にも、些か疑問がある。
死者の生前の行いを批判するにもまずその死を悼むところから始めるのが礼儀であると、個人的に考えている。死者の冥福も祈れないような奴に、人間を批評する資格も能力も果たしてあるのだろうか?本質的なズレを感じる。
「天罰が下った」というリプライに対しては、ただただ「あなたは神にでもおなりあそばされたのですか?」という感想しか出てこない。そもそも、人間を裁くことができるのは「法」のみである。つまりは、人は人を裁くことは絶対に出来ないのである(裁判官は、法の代弁者としてその職務を果たす)。「あいつは悪人だから罰があたったんだ」という発言の裏側には「自分はその人間より高貴な立場にあって、彼が裁かれているのを眺めているのだ」という優越感が垣間見えるように思う。
そして、「人は人を裁けない」これは今回私が取り上げたリプライ全てに、そしてそれだけでなく日々の言動1つひとつへも、改めて差し向けたい言葉である。私たちはつい「己の正義」を他者へ激情的に押しつけてしまいがちである。だれか、あるいはなにかを批評するということは、正義感なんかよりももっと根源的な、感性のぶつかり合いとして、それを理性的かつ論理的な言葉で行うべきことである。それ以上として、「お前悪だ」とまでは言わずとも、「それは違うよ」「あいつほんと駄目な奴だよ」といったレベルから今回のようなケースまで、人が人を「裁判」することは決してあってはならないのである。
最後に、亡くなった50代男性へ心よりご冥福をお祈りいたします。また、今回この件で被害にあわれた従業員の方の完治をお祈りしております。
(今回は私見をだらだらと。異論は認めます。是非コメントでお願いします。)