怒りと人生

僕は、基本的にとても穏やかな人間だと、自分では思う。

僕自身馬鹿にされようが、他人のエゴイズムに巻き込まれようが、理不尽に遭おうが、いじめられようが、 (今の僕は高校生から生まれた"僕"なんだけどその)僕は「怒る」ことをしてこなかった。
他人が起こした何かについて、どんなに周りが怒ったり世間が叩いてたりしてても僕は基本的に怒らない。なぜなら、ほんとうに「悪いこと」なら法が裁くから。僕たち人間は他者を裁くことなんてできないし、しちゃいけないから。自分と異なる考えについて「批判」することこそあれど、「批判」と「怒り」の発散をゴッチャにしている人を見て「あ~、この人アカン(馬鹿なんだ)な~」と思うだけだし。
だから人生において僕はめちゃめちゃ「批判」する。ただ、怒りをはじめとした感情をすっきりと抜いたその「批判」こそ、面白い議論の第一歩になると信じて。

こういう価値観だと、もうこのトシにもなれば怒ったりどなったりする必要性が無くなってくる。昔は結構頑固で癇癪もちだったけれど、その僕は中学生までの"僕"だから、彼はもうここにはいない。
ただ、今僕が持ってる精神疾患は、時々この癇癪もちを引っ張り混んできたりする。そういうときの僕は禁煙してるヘビースモーカーみたいに常に脚をゆらゆらとして、何かにずっといらついてる。そうして、本当にしょーもない、ささいなことにブチーンッてキレちゃったりする、これがある種僕の「怒り」なのかもしれない。
そう思ってた。

二週間前までは。

最近、己がほんとうの意味で「怒る」ポイントを僕は見つけた。

それは、「誰かの努力や人生を踏みにじるような行為を見かけたとき」「自分の身近にあるほんとうに大切な人たちを貶め、不当な扱いにしたとき」

とことん自分の方へ関心の矢印が向いていないのだな、と改めて呆れた次第でもある。

だがしかし、僕はこの二週間でこれを「法則」として見出だした。つまりは、それだけの回数、激烈に僕を怒らせる案件がひっきりなしにやってきた、という訳だ。
二十数年ぶりに自分の新たな発見を、しかも何ともいやーな発見をしなければならんほどの激怒・激怒&激怒が続いていたわけで、そう思うとこの案件に関わる人間ほんとみんな消し去r(ryだけれど、まあ、こういう手段で自分のことを知れたと、前向きにちょっとはやっていこうかと思う。こんなご時世だしね。

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