非日常と感性と
子どもの頃、普段とは異なる出来事が起こる翌日の朝を楽しみに眠れなかった、なんて経験は誰しもがあろうことである。もしかしたら、大人になってもそういう心をどこかへ置いてきぼりすることなく過ごしている人もいるかもしれないが、多くの大人にはそんなイベントに一々反応する余裕もなく、何なら「失敗しませんように」「何で思い通りいかないんだ!」なんてマイナスの駆け引きをしてしまうこともあるだろう。もしかすると、大人にとっては、できるだけ何事もなく、波風が立たず、ルーティンのように流れる毎日こそが幸せなのかもしれない。
そんな日常に慣れてしまった大人たちには、子どもの頃には新鮮だった一つ一つのものごとがただの風景になってしまって、流されて見えなくなってしまいがちな気がしている。「何でだろう?」と当たり前を疑うことを忘れてしまう。日々の何気ないイベントに心が踊れなく固まってしまうこと、きっとそれはマイナスなできことへの感性と立ち振舞い方をも同じようにしてしまうんだと、僕は思っている。
非常というものは社会を丸裸にしてしまう。目を背けたかったこと、あくせくしてて見えてなかったものに社会が仕掛けていたメッキが、ぼろぼろと剥がれ落ちていっている。そういう現実に際した今はきっと、僕たちの感性のあり方というものが問われている。
今までの「メッキ掛かった世界」に囚われていないか?己が掲げた理想郷にうつつを抜かし、見るべきものから目を反らしてはいないか?「叫ぶ」ことだけに意識をとられて「感じる」「考える」ことを忘れてはいないか?
社会も人間も、決して完璧ではないのだ。
或いは、テクノロジーの発展によって複雑怪奇に成熟していっている社会に、僕ら人間は着いていけているのだろうか?
ごちゃごちゃとした現実を前に、僕らは「感じること」「考えること」を疎かにしてしまいがちである。「感じること」子どもの頃に出来ていたことが、大人として成長することなくむしろ失われてしまっているのは何故か?「考えること」知識を得る術も道具も持っていて、思考力と判断力を鍛えてきている筈なのに、どうしてそれらを使おうとしないのか?
最近は自粛自粛で、家に居ることが殆どだ。しがない一人暮らし大学生の僕が自宅のベッドから社会と繋がれるのはスマホやテレビ位のものなのだけれど、それで垣間見ている社会というものに、僕は溜め息をつくことしかできていない。でも、それだけではあまりにも生産性がないので、こんなことを最近は悶々と考えているのである。答えが出ない問いは間違っている、とつい思われがちなのだけれど、社会のなかの問題なんて基本的にそんなものばっかりだし、感性のアンテナを張り巡らせるためには、良く周りを見て考えていることが肝要なんだろうと考えて、趣味感覚で勝手に行っている。今のところの結論は、こんなところ。
きっと、僕たちは今こそ、足元に転がっていた石ころに物語を作り出すような、そんなあの頃持っていた感性を大切にしなければならないんじゃなかろうか。
以上、思考整理と発散。