人新世の「資本論」/斎藤幸平
グリーンウォッシュという言葉がある。
あるいはグリーンウォッシング。
環境に配慮しているように見せかけること、上辺だけ装った欺瞞の環境訴求を指す言葉として、通常用いられる。
ただ、この言葉を手厳しくSDGsにも向けるのが『人新世の「資本論」』の著者である斎藤幸平さんだ。
ポイント・オブ・ノーリターンはすぐそこ
斎藤さんはのっけからこう書いている。
国連が掲げ、各国政府も大企業も推進する「SDGs(持続可能な開発目標)」なら地球全体の環境を変えていくことができるだろうか。いや、それもやはりうまくいかない。政府や企業がSDGsの行動指針をいくつかなぞったところで、気候変動は止められないのだ。SDGsはアリバイ作りのようなものであり、目下の危機から目を背けさせる効果しかない。
2016年に発効したパリ協定では、2100年までの気温上昇を産業革命以前と比較して2℃未満(可能であれば1.5℃未満)に抑え込むことを目指している。
しかし、すでに1℃の上昇が生じているなかで、1.5℃に抑え込むためには、2030年までに二酸化炭素排出量をほぼ半減させ、2050年には純排出量をゼロにしなくてはならないと言われている。
逆に、いまのままの排出ペースなら2030年にははやくも1.5℃のラインを超え、2100年には4℃を超える気温上昇が起こる危惧がある。
気温がそこまで上がると、アフリカやアジアの途上国を中心に壊滅的な被害が及び、もちろん先進国も無傷ではない。それはここ数年、100年に1度と言われるような自然災害が毎年のように起こるようになったいまの状況を鑑みればわかるだろう。
ちなみに、4℃を超える気温上昇が起こると、東京でも江東区、墨田区、江戸川区などは高潮によって冠水するようになるそうだ。
いや、冠水どころではない。
北極圏で永久凍土が溶解すれば、大量のメタンガスが放出され、温暖化はさらに進行する。水銀が流出したり、炭素菌をはじめとする細菌やウイルスが解き放たれるリスクもある。いったん時限爆弾に点火してしまえば後戻りはできなくなる。その地点=ポイント・オブ・ノーリターンはすぐそばにまで迫っているのだ。
それなのに、グリーンウォッシュと呼ばれるような、気候変動に大した効果ももたらさない施策をやるだけで、安心していては、この世界が助かる可能性はどんどんなくなってしまう。
では、どうすればよいか?のひとつの答えをこの本は示してくれる。
その答えを導く論考の素晴らしさと示された危機を乗り越えるための糸口の鮮やかさに僕は唸った。
犠牲に基づく帝国的生活様式
先にもすこし触れたが、こうした問題の影響にいちはやく晒されるのが、グローバル・サウスと呼ばれる、グローバル化によって被害を受ける領域ならびにその住民たちであるということだ。
気候変動の問題に限らず、グローバル化した資本主義の矛盾により負の影響を受けるのは、貧しい国々の人たちである。それは今回のパンデミックによる被害をみても明らかだろう。
僕たち日本人も含めて先進国に暮らす人々の豊かな生活は、そうしたグローバル・サウスの代償によって成り立っている。グローバル・サウスに住む人々を安い賃金で働かせたうえ、その国の資源やエネルギーを収奪し続けている。それをドイツの社会学者ウルリッヒ・プラントとマルクス・ヴィッセンは、帝国的生活様式と呼ぶ。
斎藤さんは、2013年にバングラデシュで起きたラナ・プラザの崩壊によって1000名以上の命が奪われた事故の例をあげる。5つの縫製工場が入っていた商業ビルであったラナ・プラザではファストファッションの衣類を劣悪な条件でつくらされていた労働者たちが働いていた。被害にあったのは、そんは彼らだ。
さらに、その原料である綿花を栽培していたのは40℃を超える酷暑の中で働くインドの貧しい農民たちだ。彼らはファッション業界の需要増大にあわせて遺伝子組み換え綿花を大規模に導入せざるを得なかった。自家採取の種子が失われるだけでなく、遺伝子組み換えの種子と化学肥料、除草剤を毎年購入せねばならず、暮らしは圧迫され、不作ともなれば借金を抱えて自殺に追い込まれることも少なくない。
資本主義は、こうした搾取のもとにある者を富ませる一方で、それよりも何倍も多い人々を貧しくさせる。
資本はさまざまな手段を使って、今後も、否定的帰結を絶えず周辺部へと転嫁していくに違いない。
その結果、周辺部は二重の負担に直面することになる。つまり、生態学的帝国主義の略奪に苦しんだ後に、さらに、転嫁がもたらす作用を不平等な形で押しつけられるのである。
よく言われる1% vs 99%の構図も、ここに端を発するのだ。
グリーン・ニューディールでは気候変動は止まらない
ただ、資本主義が搾取を行うのは、貧しい人々からだけではない。資本主義は、地球環境からも搾取を行い、負の影響を転嫁しながら知らんぷりをする。
この本のタイトルは『人新世の「資本論」』だが、この人新世の危機的環境を生み出した要因を考えなら、「人新世」というより「資本新世」なのではないかと著者はいう。
この気候変動という人類全体に対してとられる政策として期待されるもののひとつに、グリーン・ニューディールがある。トーマス・フリードマンやジェレミー・リフキンたち識者が提唱するもので、再生可能エネルギーや電気自動車を普及するための大型財政出動や公共投資を行う。
しかし、残念ながら、再生可能エネルギーに切り替えようと、電気自動車へのシフトで温暖化ガスの排出量を減らそうとも、資本主義が経済成長を追いかけ続ける限り、残念ながら気候変動のリスクはほとんど改善されることがないと予測されるのだ。
たとえば、こんな例のように。
IEA(国際エネルギー機関)によれば、2040年までに、電気自動車は現在の200万台から、2億8000万台にまで伸びるという。ところが、それで削減される世界の二酸化炭素排出量は、わずか1%と推計されているのだ。
なぜだろうか? そもそも、電気自動車に代えたところで、二酸化炭素排出量は大して減らない。バッテリーの大型化によって、製造工程で発生する二酸化炭素はますます増えていくからだ。
以上の考察からもわかるように、グリーン技術は、その生産過程にまで目を向けると、それほどグリーンではない。
いまのまま経済成長を追いかけながら、気候変動を止めることはできないのだという論証を、著者は次々と繰り広げていく。
「資本主義とは、価値増殖と資本蓄積のために、さらなる市場を絶えず開拓していくシステム」であり、「その過程では、環境への負荷を外部へ転嫁しながら、自然と人間からの収奪を行って」いくものである限り、結局は一部で温暖化のリスクを削減することができたとしても、その分、ほかでリスクを高めることが行われてしまうのだ。
この過程は、マルクスが言うように、「際限のない」運動である。利潤を増やすための経済成長をけっして止めることがないのが、資本主義の本質なのだ。
その際、資本は手段を選ばない。気候変動などの環境危機が深刻化することさえも、資本主義にとっては利潤獲得のチャンスになる。山火事が増えれば、火災保険が売れる。バッタが増えれば、農薬が売れる。ネガティブ・エミッション・テクノロジーは、その副作用が地球を蝕むとしても、資本にとっては商機となる。いわゆる惨事便乗型資本主義だ。
脱成長コミュニズム
そこで著者が、気候変動のリスクを回避するための道として提示するのが、脱成長コミュニズムである。
著者のいう脱成長コミュニズムは、次の5つを重視するものだ。
1.使用価値経済への転換
2.労働時間の短縮
3.画一的な分業の廃止
4.生産過程の民主化
5.エッセンシャル・ワークの重視
それぞれについては、あとですこしずつ触れるが、たとえば5番目のエッセンシャル・ワークを重視する姿勢などは、先のデヴィッド・グレーバーの考えとも重なる。
著者がこうした考えに至る際に参考としたのが、『資本論』以降のカール・マルクスの思考である。
新たに晩年の著作にまとまっていない手紙や小論を集めた全集の編纂が進んでいるそうだが、そこから見えてくるのは、これまでのマルクス像とは異なる、進歩史観や西洋中心主義を脱却して、共同的富=コモンに可能性を見出す新たなマルクス像である。
マルクスは、資本によって私的に搾取された私財をもう一度、もともとの共同の富に還元することを提唱した。
マルクスによれば、コミュニズムにおいては、貨幣や私有財産を増やすことを目指す個人主義的な生産から、将来社会においては「協同的富」を共同で管理する生産に代わるというのである。これは、本書の表現を使えば、まさに〈コモン〉の思想にほかならない。
もともと土地や水は、人々が誰でも自由にアクセスできる共同の富であった。普通に使っている限り、基本的にはなくなることのない潤沢な富であったはずである。
コモンの解体
しかし、それを資本が私有化し、アクセスを制限することで、偽りの希少性が付与される。
たとえば、ニューヨークやロンドンなどでは小さな物件でも価格が高騰しすぎで、ほとんどの人が住めなくなり、同時に投機の対象として富裕層が購入することで「住む」という使用価値からは切り離された、単なる金銭的価値のみのものとなる。価格は跳ね上がるが、使用価値からみればとことん貧相になり、住んでたないのだから、その価値はゼロだ。
ここで重要なポイントは、本源的蓄積が始まる前には、土地や水といったコモンズは潤沢であったという点である。共同体の構成員であれば、誰でも無償で、必要に応じて利用できるものであったからだ。
もちろん、好き勝手に使っていいわけではない。一定の社会的規則のもとで利用しなければならなかったし、違反者には罰則規定もあった。だが、決まりを守っていれば、人々に開かれた無償の共有財だったのだ。
このような共有財が、私有化されることによって偽りの希少性が与えられる。ほんとうは潤沢なものがあたかも希少なものであるかのように提示され、元の使用価値とは無関係に高い値段をつけて売られる。
それにより使用価値は減じられ、一部の人にのみ金銭的価値のみを積み上げられるようになる。
マルクスはそれを本源的蓄積と呼んだ。
それまで無償で利用できていた土地が、利用料(レント=地代)を支払わないと利用できないものとなってしまったのである。本源的蓄積は潤沢なコモンズを解体し、希少性を人工的に生み出したのだ。
もともと潤沢なコモンを解体し、人工的な希少性を生み出す本源的蓄積。
マルクスはそれを人々の生活を貧しくするものとして批判したのだ。
この囲い込みの過程を「潤沢さ」と「希少性」という視点からとらえ返したのが、マルクスの「本源的蓄積」論なのである。マルクスによれば、「本源的蓄積」とは、資本が〈コモン〉の潤沢さを解体し、人工的希少性を増大させていく過程のことを指す。つまり、資本主義はその発端から現在に至るまで、人々の生活をより貧しくすることによって成長してきたのである。
この本源的蓄積によって、ごく一部の者のみ(1%の超富裕層)が偽りの富を増やし続け、その反動としての貧しさがほかの多くの人々(99%)に転嫁させていきながら、多くの人々と地球そのものから奪い続ける経済的仕組みが資本主義なのだ。
そうした一部の人たちの偽りの富が増えることを経済成長と呼ぶのであれば、それを追求するのをやめて脱成長に切り替えない限り、気候変動の危機を回避することができないのは当然だろう。
こうしたものを回避するために、脱成長コミュニズムでは「使用価値経済への転換」が目指されるのだ。
鍵となるのは民主化
著者の斎藤さんは、この脱成長コミュニズムを推し進めるための鍵となるものを民主化とみている。
たとえば、晩年のマルクスの思想からも、生産過程の民主化として、極端な分業化によって労働者から奪われた創造性を、ふたたび彼らの手に取り戻せるようにするため、生産にまつわる意思決定を労働者自身で民主的に行えるように、労働者による自治の重要性を説いている。
晩年のマルクスが提唱していたのは、生産を「使用価値」重視のものに切り替え、無駄な「価値」の喪失につながる生産を減らして、労働時間を短縮することであった。労働者の創造性を奪う分業も減らしていく。それと同時に進めるべきなのが、生産過程の民主化だ。労働者は、生産にまつわる意思決定を民主的に行う。
ここでの"無駄な「価値」の喪失につながる生産を減らして、労働時間を短縮すること"などは、デヴィッド・グレーバーが『ブルシット・ジョブ』で展開した論と重なってくる。まさにグレーバーの論でも、仕事が管理主義的になりにつれ、必要なない仕事が増えてブルシット化する話が展開されていた。
先の脱成長コミュニズムの5つの柱にあったもののうち、ここでは労働時間の短縮、画一的な分業の廃止、そして、生産過程の民主化のエッセンスが論じられる。さらに、エッセンシャル・ワークの重視というものが含まれていたのも含めて、斎藤さんの論じる内容は、グレーバーのそれとリンクすることが多いのだ。あわせて読むとよいと思う。
この民主化によって、市民が気候変動に対処しようとした例として、フランスでの市民議会や、バルセロナにおけるミュニシパリズムと呼ばれる革新自治体が紹介される。バルセロナなどは明確に市民主導で「脱成長」に舵をきった事例だ。
グローバル・サウスに学ぶ
このバルセロナなどによる民主的活動が参考にしたのが、メキシコにおけるサパティスタや、農民組織の国際連帯の霊素であるヴィア・カンペシーナなど、グローバル・サウスの地域での民主的活動なのだ。
農業を自分たちの手に取り戻し、自分たちで自治管理することは、生きるための当然の要求である。こうした要求は、「食料主権」と呼ばれる。
中小規模農業従事者の多いヴィア・カンペシーナが目指す伝統的能力やアグロエコロジーの方向性は当然、環境負荷も低い。この団体が発足した1990年代といえば、冷戦終結後、二酸化炭素の排出量が激増した時期であった。その裏では、グローバル・サウスにおいて、サパティスタやヴィア・カンペシーナのような革新的な抵抗運動が展開されていたのだ。
ここでもまた、グレーバーの思想と重なるのだが、サパティスタの民主的活動の可能性などは、グレーバーが『民主主義の非西洋起源について』で以下のように展開していたものでもある。
惑星規模で人民主権の見せかけを維持し続けようという企てなど――ましてや人民参加の実現など――、馬鹿げているとしか言いようがない。(中略)こうした背景のもとで、サパティスタの出した答え――革命とは国家の強制的装置を奪い取ることだと考えるのをやめて、自律的コミュニティの自己組織化を通して民主主義を基礎づけなおそうという提案――は、完璧に有効である。
こうしたグローバル・サウスにおける民主主義活動に学びながら脱成長コミュニズムの活動を推進するバルセロナのような都市と、先のグリーン・ニューディールのようなグリーン・ウォッシュな姿勢とはまるで異なっていると言えるだろう。
著者は、気候変動に危惧するそぶりを見せながらも経済成長を捨てることのないグリーン・ニューディールを推進する有識者や政治家に対して「彼らに欠けているのは、グローバル・サウスへの視点である。いや、正確にいえば、グローバル・サウスから学ぶ姿勢である」と指摘している。
グリーン・ウォッシュではなく、気候変動に対して本気で取り組もうとしたら、経済成長を目指す資本主義の社会システムから脱却し、新たに脱成長を基本とする民主主義的コミュニズムのしくみへと移行を目指さないといけない。
もちろん、それは単純でもなければ、簡単でもない。
バルセロナでも10年はかかった。
10年。2030年を、二酸化炭素排出量を半減という結果で迎えるか、1.5℃のラインをすでに超えた状態で迎えることになるかということを考えれば、すぐにでも経済成長から脱成長へのシフトをはじめなくてはいけない。
それがむずかしいことであっても。
しかし、不可能ではない。
3.5%の人が本気で動けば、世の中は変えられるというのだ。
どこからはじめられるかはわからないが、この3.5%のなかに参加したいと思わされた、ものすごく中身の濃い一冊だった。
本当に多くの人に読んでもらいたい本だ。