面白い仕事をつくる
200本目のnote。
1年と3カ月ほどで到達。まあまあのペースで更新できてるのかなと思う。
さて、1つ前の「知ることと創造と。」といnoteで、僕自身、仕事をする際に大事にしてることは「自分自身で力が湧いてくるような環境を整えること」だと言い、具体的にはどういうことをしているといえば「取り組む仕事を面白いものになるようデザインした上ではじめること」だと書いた。
もうちょっと、そのことについて書いてみたいなと思ったので書く。
200本目にして自己紹介をしてみようと思ったのだけど、ストレートに自己紹介的なことを書くよりも、よっぽど意味ある内容になりそうだと思ったし、たぶん、これもある意味、自己紹介的なものになるだろうから。
では、始めよう。
面白くするには、面白さを知ってることが必要
気づいたのは僕自身、そんなにすごく前のことではないのだけど、少なくとも、ある時以来、僕は仕事に面白い仕事とそうでない仕事があるわけではなく、自分で面白くしないかぎり、そんなにたくさんは面白い仕事にありつくことはできないと思って仕事に向かうようになった。で、仕事をいやいややるのも性に合わないので、仕事をはじめる際、どうやったらこの仕事は面白いものにできるだろう?と思って、プロジェクトを組み立てることが普通になった。
この「普通になった」あとだと、なかなか気づかないのだが、実は、面白い仕事を組み立てるには、自分がどういうものを面白いと思うかを意識できている必要がある。
当たり前のようだけど、これが自分自身でわかってないと、仕事を面白く組み立てるのに苦労する。場合によっては苦労してもできないこともある。
どんな仕事をしたいのか?と訊かれて、うまく答えられない人は多いだろう。
面白い仕事と答えてしまう人もいるかもしれないが、では、「どういうのを面白いと思うか?」と問いを重ねると答えに行き詰まってしまうケースも少なくないのではないか。
面白い仕事をしたいと思いつつも、自分自身がどんなものを面白いと思うかをわかっていない人は結構いるのではないか。それだとなかなか面白い仕事にはありつけないし、先に書いたとおり、もともと面白い仕事というのはそうそうあるわけではないから、たぶん面白い仕事ができる確率は低い。
面白い仕事が少ないのには訳があって、面白い仕事は誰かが面白くデザインしたから面白いのであって、面白い仕事をデザインできる人が周りにいなければ、面白い仕事に出会うことは稀だ。
じゃあ、面白い仕事がデザインできる人はどういう人かというと、少なくとも、自分がどういう仕事を面白いと思えるかを知ってる人だ。
そう。であれば、そもそも自分がどういう仕事を面白いと思うかをわかっている人が多くいない限り、面白い仕事はデザインされず、面白い仕事にありつける確率は極めて低くくなる。
このことに気づいたら面白い仕事をつくるのを他人任せになんかしていられないことは明らか。
自分で面白くデザインした方が手っ取り早いという気持ちになるし、じゃあ、自分がどんな仕事が面白く感じるか?ということも常に考えるようになる。
何を面白いと思うのか
自分が何を面白いと思うのか? それを簡単に言葉に説明するのはむずかしい。
僕は自己紹介も結構苦手(だから当初200本目記念として「自己紹介」というタイトルで書こうとしたのをやめた)で、自分のことをどんな風に他人に説明すれば良いのかを迷うことが多いのだけど、それは自分で自分のことを知らないからというより、自分というものにもいろんな面があって何から説明すれば良いか迷うからだったり、いちお、こう説明すれば統一感はあると思うことあるのだがそれがちょっとマニアックでこむずかしくいまいちキャッチーではない気がして口にすることに躊躇するからだ。
つまり、表現の問題。
それは自分が何が面白いと感じるのかにも似たようなところがある。
さらに、面白いことの場合、そもそも面白いことだから話しはじめると、もともと簡潔ではない話が延々と話し続けてしまいそうに思えるのも簡単に話せない要因の1つ。
ようは、自分が何が面白いと思うのかはそれなりにちゃんとわかっているのだが、それをスマートな感じに言語化するのはできないというのが僕の場合のステイタス。
だから、目の前の仕事のタネを前に、これはこんな風にこんな要素をこんな感じで組み合わせていくと面白いプロセスになるし、結果も面白いものが出そうというのは考えられるし、このあたりのことを調べてみると面白く仕方がもうすこし明確になるなという感覚もたいてい持てる。
もちろん、すべての仕事のタネを面白くできると思うかというとそうではないけど、かといって最初から面白いものとして出されなくても、自分で面白くできそうなものはそれなりの確率で存在してる。
ようは仕事のタネ(なんとなくのテーマとか、課題感とか、解決したい問題とか)がもらえると、あんまり領域だとか、B2CなのかB2Bなのかとかにかかわらず、面白くできそうかどうかは考えられるし、どういう情報をどんな風に集めれば良いかとか、どんな人どんなことを巻き込んでいくと面白いことになりそうかの見当もつけられるということ。
それはもちろん、いろんな仕事の仕方を知っているということも大きいが、それ以上に自分にとって、どういうことを面白いと思うかを知ってることのほうがさらに大きな条件だと思う。
どういう風になれば良いかのイメージさえあれば、あとはどうやったらそのイメージに近づけられるかを考えれば良いので、そこからは仕事の仕方のバリエーションをどれだけ持ってるかの話に落とせる。持ってなくても調べたり他人に聞いたりしやすいのはこっちだ。
けれど、自分がどういうのを面白いと思うのかは調べたり他人に教えてもらったりできないのだから、こっちはもっと普段から自分でどうにかしておくほかない。
付け加えるなら、いっしょにやるメンバーもこうした形にすると面白がってくれるのではないかと考えられる場合はさらに楽しくなる。
その場合はメンバーのことをある程度知ってるか、関わるなかで知っていきながら仕事の方をちょっとチューニングしてあげるかになる。
もちろん、そうするのは、いっしょにやるメンバーも楽しんでくれた方が僕がより面白がれるからだ。
面白くなるためにも知識が必要
先日紹介したノヴァーリスの小説『サイスの弟子たち』のなかに、こんな一説がある。
芸術家の技芸とは、自分の道具をあらゆるものにあてがい、世界を自分流に写しとる能力にほかならない。だから、芸術家の世界の原理は実践となり、かれの世界はかれの芸術となるのだ。ここでもまた、自然は、新たな壮麗さを帯びて眼に見える姿をとるが、ただ無思慮な人間だけは、この解読困難な奇妙に錯綜した言葉をあなどって投げ捨ててしまう。
結局、何かを面白く感じるためにも知識がいるということが、よくわかる。
思慮がないと面白がれる対象は少なくなる、知らないものを人は面白がることができないというのは当然の話だ。
自分が何を面白いと思うのかがわからない人の大部分がこういう思慮不足、知識不足なのだと思う。もとの素材なしでは「面白い」という感覚さえできないというのは、ちょっと考えれば当たり前の話なのだけど。
芸術家にとって解読可能で「壮麗さを帯びて眼に見える姿をとる」自然も、無思慮な人間には解読困難な言葉にしか見えないように、常日頃から知識や経験を増やそうとしていない人は、なかなか物事の面白がり方自体がわかるようにならない。
自分でいろんな知識を蓄えながら世界のさまざまな出来事を自分なりに読み解く力を養っていないと、やはり紋切り型にパターン化された、ごくごく限られた面白さのヴァリエーションにはまるものしか面白さを感じられない。自分自身で物事を読み解くなかで自ら面白ポイントを抽出することができるようにはなかなかできない。
そうなると、どんな仕事を面白いと思うのか?にも答えられないし、ましてや自分で仕事を面白くデザインするのもなかなかむずかしいだろう。
基礎ができていない辛さはこういうところにある。
仕事どうこう以前に人生を楽しみにくいのだろうと思う。外から楽しさをアレンジしてもらわないと、楽しさに出会えないのだから、これはなかなか損だと思う。
仕事に必要な知識は仕事以外のところにある
知識がないと面白がれないという例でわかりやすいのは、西洋絵画とかも典型的だろう。
なぜ、そんなイメージがそういう風に描かれたのか、そもそもそこに描かれている人やモノ、風景やシーンはいったい何なのか。そういうことが知識をベースにある程度わからないと、絵の楽しみ方はわかりようがない。
神話の世界を描いた歴史画で登場する神々をアトリビュート(持ち物)から判別できたり、そもそもの神話を知っていないと、ヴィーナスがマルスと浮気をしていようと、求愛するアポロンから逃れようとダフネが自らオリーブの木になることを選ぼうと、ダナエの寝ているところに黄金の雨になったゼウスが降りかかろうとしても、気づきようがないし、気づかなければ面白いはずもない。
いま何故仕事をするのか、どんな仕事をするのかということを考える場合でも、同じように知識がいる。しかも、たいていの場合、仕事に必要な知識というのは、その仕事の領域の外にこそある。
先の西洋絵画の知識も含めて、その仕事どころか、仕事とはまったく無関係に思える知識こそ、面白い仕事をつくるのには有益だったりする。リベラルアーツなんてものが大事だと言われるのと同じことだ。
また、いまこの時代に何が問題であり、その問題はどういう問題で、何故問題になるような状態を作っているのか、何故問題が解決に向かわないのかといったことを知ることがないと、なかなか仕事に興味を持てないであろうし、その仕事に取り掛かる際にどんな風にすれば、結果やプロセスが面白いものになるかも考えようかないだろう。いまこの時代にあるべき仕事はなにか?という視点はとても大事で、だからこそ、どんな視点で「いまこの時代」を見るか?をそれぞれが自分で見つけることも大事になっている。
僕自身でいえば、半年前くらいから、思弁的実在論やオブジェクト指向存在論、新しい唯物論やアクターネットワーク理論などの最近の哲学や、それと無関係ではありえない人新世の環境(人体そのものも含む)を科学する本などを通じて、ポストヒューマニズム的なことの知識が増えたことで、やはり仕事をどう面白くするかという観点が変わってきている。
いま読みはじめたイタリア生まれ、オーストラリア育ちのフェミニズム研究家にして哲学者のロージ・ブライドッティが書いた『ポストヒューマン』という本で、彼女が書く、こんな一説も最近の僕自身の興味につながって、これを日常の仕事にどう落とし込むと面白くなるだろうかと考えていたりする。
わたしの立場は、複雑性を支持しラディカルなポストヒューマン的主体性を押し進めるものであり、次章でみるように、それは生成変化の倫理にもとづいている。それに応じて焦点は、単一的な主体性からノマド的な主体性に転換しており、ゆえに高尚な人文主義(ヒューマニズム)やその現代的な変種を逆撫ですることになる。この観点は、個人主義を拒否するのみならず、相対主義やニヒリスティックな敗北主義からも同じく明確に距離をとることを主張している。それによって促される倫理的絆は、古典的な人文主義において正典となった系譜において定義されるような個々の主体の自己利益とはまったく異なる種類のものである。非単一的な主体のためのポストヒューマン的倫理は、自己中心的な個人主義という障害を排除することによって、自己と他者--非人間ないし「地球〔=大地〕」の他者を含む--の拡大された意味での相互連結を提示するのである。
ようは、人間中心主義に対するポストだし、男性中心主義、西洋中心主義に対するポストである。人間というものが問い直されると同時に、新しい主体のあり方、説明責任のあり方が問われている。
僕はこういうことを自分が面白いと思うことを知っている。いや、実際に読んでいるなかで面白いと思ったことで知った。それは読まないとわからないことだったわけで、だから僕はとにかく少しでも気になる本は読もうと思っている。
「人間の相互作用をポストヒューマン的に再編成するというわたしの提案は、脆弱性という反動的な絆とは同一のものではなく、多数の他者との関係の流れのなかに主体を位置づけるアファーマティヴな絆である」とする彼女の主張に僕は興味があるし、こういうことを自分の関わるプロジェクトのなかで何かしらの形で落とし込み、自分なりに実験してみたいと思う。
そこに前からもっている西洋絵画やギリシアやローマの神話に関する知識を織り込んだりもする。最近のプロジェクトでもオウィディウスの『変身物語』(と円城塔の『エピローグ』)から「アラクネ」を召喚したりもした。
僕の場合であれば、こんな風に知識をベースに、プロジェクトを面白くする手立てを考えたりしているが、どういう知識を何から得るか、どういう体験を通じて得るかに違いはあっても、結局、自分のなかにある程度いろんな知識がたまり、そのなかのどういうものに自分の心が動いて楽しめるのかが自覚できていて、それらの知識をある程度自在に使えるようになっていた方が、かかわる仕事を面白いものにできる幅は広くできるということには、そんなに違いはないはずだ。
もっと主観的に、もっと主体的に、いろんなことを学んだり、挑戦したりすることに、もっと時間を使えるように自分の生活におけるタイムマネジメントを考えてみることは大事だと思う。
時間がないなんて話はまったくの嘘だ。
優先順位をつけてタイムマネジメントしているかの話であって、時間が作れてないだけだと思う。
こんな風にそれなりに本を読んでて、noteもこの頻度で書きつつ、この10ヶ月くらいは日々の家庭の夕飯づくりも週に5-6日くらいはしていて、普通にロフトワークというそれなりに忙しい会社で日々複数のプロジェクトに関わりつついろんな仕事もやってる僕が言うのだからまんざら無茶苦茶な話でもないと思う。
ようは優先順位を考えてメリハリをつけること、やるべきタスクに目星がついていてそれぞれのタスクにどれだけの時間がかかるかの目処もついていれば、それらの仕事をマネジメントするのは本当はそんなにむずかしいことではないはずだ。
まあ、もちろん、その目星や目処をつけたりするのに、そもそも知識や経験が必要だという話ではあるけど。
というわけで、なんとなく自己紹介的なことも兼ねた200本目のnoteになったのたではないか。
とまあ、お後がよろしいようで。
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