見出し画像

日本建築が好きということで本当は評価したいが、結局は抽象的で不完全な論理 - ブルーノ・タウト『建築とは何か』 : まったり建築論批評 #5

まったり建築論批判の第五弾は、ブルーノ・タウトの『建築とは何か』である。

個人的なブルーノ・タウトの印象は、なんか熱狂定期に好きな人がたまにいるな、だ。コルビュジェやミースと比べればそんなに数がいるわけではないが、タウトを好きという人はその度合いが強い。しかし、そうなると今までこの建築論批判でやっているように、信奉者は自分の神様が言っていることは何でも信用してしまう危険性がある。この点で、タウトはこのまったり建築論批評で扱うのに適している人材だと言える。

さらに、前回扱った長谷川堯の『神殿か獄舎か』でも、実はタウトについて言及されているのだ。

「タウトがやってきたことは、明治維新以来日本において進行する建築の神殿的思惟の一元化の中で衰弱の一途を辿っていた獄舎空間についての感受性が正当に評価できずに見落としていたものを、<都市>に憧憬する西欧人の「眼」の中で再び見出し、本来あるべき姿において、人びとの目に見せた、ということにすぎない。」

長谷川堯『神殿か獄舎か』鹿島出版会、2007(p. 202)

「〜にすぎない」とはなかなかの批判である。やはりただ書かれたものを読んでそれが素晴らしいというのではなく、物事を批判的に見る目は持っておくべきだ。それも、そもそもタウトは日本の建築を評価しており、この頃の日本人としてはそれは誇らしいものであったに違いない。それなのにある種このような批判的とも取れる反応はなかなかできるものではない。ちなみに長谷川堯はこの著書の解説も書いており、ちゃんと自身でかなり調査し、考察してこの批判をしているところも正直素晴らしい。

そう、タウトは基本的に日本に好意的な印象を抱いているのだ。というのもタウトは日本に滞在していた期間もあり、日本建築、特に桂離宮を褒めちぎっている。この『建築とは何か』でも日本建築を時々例に出しており、先ほど述べた桂離宮や、他にも伊勢神宮などを紹介し、その良さを伝えている。ありがとう。しかし批評はさせてもらう。

いきなりちょっと批判になってしまうが、そもそもこの題名『建築とは何か』はさすがにデカすぎるテーマだ。このような本が面白かったためしがない。だいたい主観的で納得できず、ふんわりと全てが語られ、たまにダラダラと細かな部分のみがなぜそんなに大切っぽいのかもわからず説明されるのだろう。そんなことない!いい題名じゃないか!と思う学生がいるのなら、卒論のテーマとして『建築とは何か』という題名で書こうと思ってるんです、って教授に話してみてほしい。必ず否定される。ちなみに本人もその日記にて、

「建築の本質を究明しようとする<大著>に着手した、題して<建築に関する考察>という。」

p. 225

としているため、でかいことをやろうということが見て取れる。まったくこれは確信犯的であったのだ。

ちなみにブルーノ・タウトは1880年生まれ、ドイツで建築を学び、1909年に事務所を設立し建築家として仕事を始めた。1933年に「日本インターナショナル建築会>の招集により日本の滞在をはじめたものの、設計の仕事はあまりなかったようだ。ただ、その時にこの「建築に関する省察」などの著書を遺しており、1938年に亡くなっている。

同時期のタウトの著作には、

  • 「建築に関する省察」1935年

  • 「すぐれた建築はどうしてできるか」1936年

  • 「建築芸術論」1936年

があるが、このSD選書には最初の二つが翻訳され収容されている。そして実はこの著書の題名にもなっている『建築とは何か』というのは最初の「建築に関する省察」の第1章なのである。ということで今回のまったり建築論批評では、最初の「建築に関する省察」のみを取り扱うこととする。

それでは早速だが集中的に批評をしていこう。これまでもそうであったがこの批評や批判をするというこのシリーズの特性上、これ以降は有料とさせていただく。特にタウトは本当に好きな人がいるのでしょうがない。ただ好きな好きな人にこそより読んで欲しいという矛盾は残るのだが。

この書評は、篠田英雄訳の『建築とは何か』SD選書095、1974年第一刷、2013年第一二刷、鹿島出版会 を文献とする。本文中において引用ページしか書かれていないものについては、全てこの本からの引用である。


ここから先は

12,647字 / 1画像
この記事のみ ¥ 300
期間限定!PayPayで支払うと抽選でお得

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?