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平和首長会議ー中村哲さんと平和行政

平和首長会議で中村哲さんの思いをつなぐ。

東京都武蔵野市で平和首長会議の国内加盟都市の総会が開催されました。政治の究極目標は世界平和。古賀市は近年、平和行政を強化しており、今回の総会では光栄にも登壇の機会をいただきました。

戦争の記憶を風化させないことが、私たちの世代の重要な責務と考えています。44歳の私の世代は、祖父母の多くが先の大戦を体験し、おそらく、日常生活の中でもその体験を「追体験」できてきた「最後の世代」ではないか。
古賀市の平和行政の理念と具体的な取り組みを報告する中で、中村哲さんが青少年期を過ごした故郷として、その志と功績を市民の皆さんと共に次代につないでいることを柱に据え、お伝えしました。

母校の古賀西小学校では総合的な学習の時間を活用し、児童が絵本をつくりました。クラウドファンディングで多くの皆さんのご支援をいただき印刷・製本し、市内の学校の平和学習で使われています。会場には現物を展示し、多くの皆さんが読んでくださっていました。

ペシャワール会にご協力いただき、顕彰シンポジウムをワールドカフェ形式で開催し、市内外の多くの世代の参加者の皆さんが中村哲さんへの思いを語り合う機会もつくっています。こうした積み重ねが大切と考えています。
小中学校の修学旅行では被爆地の長崎や広島を訪れ、必ず平和学習を行っていること、そのほかにも「じんけん平和教室」として長崎でフィールドワークを実施していること、市独自の人権教育副読本「いのちのノート」で福岡大空襲や原爆、特攻をテーマに学習していることをはじめ、様々な取り組みを展開していることを報告しました。

さらに、私が政治家として平和に取り組む原点も申し上げました。

私の祖父は、旧陸軍に召集された父親が戦時失踪宣告、遺骨は存在しません。「シベリアに連れていかれた」との話もあります。祖父は「おやじは生きている」と信じ続けて、生きてきました。

祖母は、家族で現在の北朝鮮にいましたが、ソ連の侵攻から逃れながら38度線を越えました。祖母の姉はその途上で亡くなりました。祖母は生前、「赤ちゃんの泣き声は平和な証」と語っていました。半島から日本に帰国する船の中では、子どもが泣くことがありませんでした。

新聞記者時代、映画監督の吉田喜重さんを取材したのも貴重な経験です。吉田さんは12歳で福井空襲を体験。原爆の悲劇に翻弄される3世代の女性を描いた2003年公開の映画「鏡の女たち」を制作するにあたり、「福井空襲の恐怖と原爆。“内なる福井”と広島のイメージが重なった」としながらも、「亡くなった人にしか本当のことは分からない。自分に描く権利があるのか」と葛藤したとのお話が印象に残っています。

そして、映画で原爆投下の瞬間や惨状を描かなかったことについて、12歳で体験した福井空襲の恐怖が悲劇の再現を拒んだとしたうえで、「観客が自らの想像力で原爆の悲劇を作り上げる」「広島に近づこうとしても永遠に近づけない。すれすれの物語を描いた」と話されていました。

「一隅(いちぐう)を照らす」

2016年8月6日、古賀市の「みんなの人権セミナー」で中村哲さんにご講演いただき、「一隅を照らす」という言葉を遺していただきました。「私にとっての一隅はアフガンだった。世界中の人がそれぞれの一隅を見つけて、その一隅を照らせば、世界中が照らされる。それが、きっと世界平和につながる」とのメッセージを、私たち古賀市民はしっかりと受け取っています。

現代は、先の大戦の体験者から話を聴き、その本質を知る機会が急速に失われており、戦争体験を追体験し、平和で安定した社会を築いていくことが、私たち戦後世代の責務です。みんなで頑張っていきたい。そうした思いを共有させていただきました。

講演後、多くの前向きな反応をいただきました。「本質的、かつ力強いご報告に感銘しました」とのご感想にも勇気づけられました。これからも皆さんと共に世界平和をめざしていきます。ご指導のほどよろしくお願いします。今回はこうした機会に恵まれ、本当によかったと思います。心から感謝申し上げます。

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