泉房穂さんが若者に語った「幸福論」
はじめに
田中渉悟と申します。30歳です。
ジャーナリストの田原総一朗さんと「田原カフェ」という会を開催しております。
10代から田原ファンで、猛勉強して田原さんの母校・早稲田大学に入学しました。在学中に田原さんが主宰されていた塾の門下生になり、現在は一緒にお仕事をさせていただいております。
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田原カフェは「田原総一朗がカフェの1日マスターに!」というテーマのトークイベントで、2022年の2月から始まりました。
早稲田の喫茶店「ぷらんたん」で、これまでに28回(2024年2月現在)開催しました。もうそんなに続いているのか、と我ながらおどろきます。
会の大きな特徴は「参加対象を若者に限定している」点です。10代から30代前半までの若者と、今年で90歳になる田原総一朗さん、そして様々な分野で活躍するゲストを迎えて、世代を超えた熱のある対話が交わされます。
泉房穂さん来たる
去る1月18日に開催された新年最初の田原カフェは、前明石市長の泉房穂さんをお招きしました。
泉房穂さんは2011年に兵庫県明石市長に就任、以後12年間にわたって保育費や医療費などの「5つの無料化」に代表される大改革を行います。
2019年、市の職員に暴言を吐いたことが地元の新聞に掲載され、辞職したものの、市民からの圧倒的な支持を受け、後の選挙で圧勝しました。
2023年4月に任期満了で退任。現在は連日のメディア出演をこなし、講演活動で全国を飛び回っています。
この日のテーマは「やさしい社会をつくるには?」でした。
泉さんはどうして、明石の街を改革できたのか。
市長を辞めた今、これからは何をしようとしているのか。
田原さん、会場に集まった30名の若者と交わした対話の様子をまとめました。よかったら最後までお付き合いください。
弟が溺れたとき、みんなが駆け寄る社会をつくりたかった
会の冒頭、まずは「どうして明石市長になったのか?」を私からうかがいました。
会場の参加者さんはすでに泉さんのご著書を読んで来られた方も多かったので、すでにご存知だったと思いますが、泉さんご本人からお話しいただきたいと思い、この質問をしました。
「一言で言うと『悔しかったから』。貧乏漁師の子倅で、貧しかった。おまけに4つ下の弟は障害がある状態で生まれて『一生歩けない』と言われて放置されようとしたところを、泣く泣く連れて帰ってきた」
泉さんが市長を志した原点は、貧しい漁師の家に生まれたという出自と、障害のある弟さんの存在でした。
当時は「優生保護法」という「不良な子孫の出生を防止する」ための法律があり、国をあげて障害がある人たちに不妊治療や中絶をさせていました。
さらに兵庫県では「不幸な子どもの生まれない県民運動」が展開されており、障害のある子どもは「不幸」であると決めつけられていました。
そんな時代背景もあり、弟さんが産まれた産婦人科の医師は「生まれなかったことにしよう」と判断し、放置しようとしたのです。
「その後、何とか歩けるようになったが、小学校に上がるころ、今度は行政から『地元の小学校ではなく遠くの養護学校に通え』と言われた。必死で両親が掛け合ったら、二つ条件がついた。一つは何があっても行政を訴えないこと。もう一つは送り迎えは家族が責任を持つこと。その条件でなんとか地元の小学校に入れた。本当に怒った」
泉さんが「社会を変えてやる」と誓ったのは10歳の頃でした。
「弟が一年生の時、学校行事で潮干狩りに行ったら、10センチほどの浅瀬で弟は溺れた。誰も助けてくれなかった。帰り道、弟の手を引きながら空を見上げて誓った。『こんな冷たい社会、生涯かけてぜったいに変えてやる』。それが10歳の頃です」
弟さんに対してどこまでも冷たかった明石を、やさしい街に変えたかった。そのための手段が市長になることだったのです。
それから37年後、2011年に明石市長選挙に立候補、初当選します。47歳の時でした。
当時の対立候補との差は69票差。
既存の政党や組合の支援を受けず、市民だけを味方にして選挙戦を闘い、下馬評を覆し見事に勝利したのでした。
選挙目当てで組織票を頼ると、本当に市民のための政治はできない。ならば初めから「支持母体は市民だけ」の状態で闘い、市民を味方につけた方が勝てると見込んでの戦略だったのです。
市長になる前から、市民派の弁護士として困った人たちに手を差し伸べてきたこと、もっと遡ると「社会を変える」と誓った10歳の頃から、街を変えたい思いを周囲の人たちに語っていたのも大きな力になりました。
「立候補した時、地元の友人たちが『ついに泉が立ち上がった』と応援してくれた」と語り、幼少期から「選挙対策」をしていたエピソードに温かい笑いが起きました。
やさしい社会をつくるためにやったこと
市長になってからの泉さんは、幅広い政策を実現していきます。
これらはほとんどが明石発。
現在では他の自治体にも広がっていますが、まずは明石で実現し波及していったのです。
それだけでなく、改革の結果、街全体を活気づけることに成功します。
会の中で泉さんは「子育て政策は経済政策」と繰り返し語っていました。
まずは子どもにお金を使うことで、子どもを育てる家族にも余裕が生まれ、お金の使い道が広がり、結果として経済が上向き、街が明るくなる。
この方針を12年間の市政で貫いた結果、明石市は人口が増加し、財政も黒字になったのです。
とはいえ、泉さんが本当に実現したかったのは、数字で表せる成果だけではありません。
かつて弟が潮干狩りで溺れた時に、みんなが駆け寄るような「やさしい社会」をつくりたかったのです。
そのためにこそ、市民が経済的な恩恵を享受できることが大事。
明石市が「やさしい街づくり」に成功した所以は、理想だけを語らない、シビアな暮らしの現実を忘れない政策が実を結んだ結果と言えるでしょう。
ルソーに学んだ学生時代
この日は学生さんもたくさん来てくれたので、泉さんの学生時代についても質問が出ました。
泉さんの出身大学は東京大学。
「東大に行けば、社会を良くしたいとの志を同じくするような仲間がきっとみつかるはずだ」と期待して入学したものの、全くちがう現実に大きなショックを受けます。
「なんで東大に入ったか、革命をするため。中学校の歴史で中大兄皇子が20歳で大化の改新をやったと学んだので『おれも20歳で革命をしよう』と思った。高校生の時に『東大に行ったら賢い人がいる』と思い、勉強して東大入ったけど、いなかった。みんな作業をやっているだけで、自分の目で見て耳で聞いて考えていなかった」
東大に期待したものの、裕福な家庭で生まれ育ち、教育に投資をしてもらってきた学生ばかりで、泉さんは物足りなさを感じました。
社会を変える志に燃えていた泉さんは、東大駒場寮の寮委員長選挙に立候補します。
それまでは共産党系の学生が仕切っていましたが、見事に圧勝しました。この時から泉さんは選挙に強かったのです。
後に寮費値上げに反対するストライキを起こすも失敗、責任を取って退学届を提出し家を引き払い、明石に帰ったこともありました。
ところが、当時のストライキにおける敵の親玉だった学部長から電話がかかってきました。
「恥ずかしくてもいいから東京に戻ってきなさい。君の退学届けは受理していない、君にはまだやるべき仕事がある」
敵だったはずの学部長に諭され、泉さんは復学します。
卒業後はNHKとテレビ朝日で働いたのちに、政治家の故・石井絋基さんの秘書を経て、司法試験を受けて弁護士として活躍します。
ところで、泉さんは東大の教養学部を卒業しています。
私はとても意外に思いました。泉さんは弁護士でもあるので、法学部卒にちがいないと決めつけていたら、そうではなかったのです。
泉さんの専門は教育哲学で、ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778)に大きな影響を受けました。
田原さんが「どうして泉さんのような改革を他の自治体の首長は出来ないのか?」と泉さんに質問すると、泉さんはルソーを引き合いにこう答えました。
「私は12年間、議会は全員が敵で、だから(明石)市議会議員はみんな怒っている。でも私はルソーだから、直接民主主義なので、ロック(ジョン・ロック)ではない。ルソーが言っているのは『(政治家は)選挙の時だけいい顔しているから信用ならない』ということなんです。ルソーの考えでいうと議会は『欲望の集まり』だから『合理的な判断』ではない。議会というのは不合理な存在だから議会に従っていたら街は壊れる。私はルソーから学んでいるから、議会は全員敵でいい。だけど市民からの圧倒的な賛成があるから、右翼から共産党まで予算案は全員賛成です。市議会議員も予算案に賛成せざる負えない」
ルソーといえば教育論『エミール』も遺しており、政治から教育まで幅広く自らの思想を築きました。「子ども」という概念をつくったのもルソーです。
泉さんの政治スタイルは、学生時代に学んだルソーが、しっかりと生きていたのです。
泉房穂さんの「幸福論」
ある参加者さんから公教育について質問がありました。
その方は地方の貧困家庭の出身で、都会と地方の間に教育機会や受験情報の格差があることに、強い問題意識を持っていました。
そのうえでの「どうすれば地方の貧しい子どもでもいい大学に行けるようになるか、公教育をもっと充実させるには」という質問でした。
泉さんは「今の大学入試は下駄を履いている人には有利」という前提で、こう返しました。
「みんながみんないい大学に行く必要ない。行きたい人は行けばいいし、行きたくない人は行かなくていい。いい大学に行かなくてもその人なりの人生が歩めたらいい。大学をゴールにする必要はないと思います」
この返答について、思うところがありました。
そうは言うものの、いい大学に行っていい会社に入るのが『幸せ』なのが今の社会ではないのか。
それなりに世間で名の知れた大学に入れば、高い所得を安定して得られる職に就くことができるし、それが社会の中での相対的なステータスの高さにもつながる。それこそが現代の幸せの形なのではないかと思っていました。
泉さんはこう返しました。
「私は今年還暦で、同窓会ラッシュなんです。(出身大学の)東大と(地元の)明石の貧乏漁師街の同窓会、どっちも参加すると感動するくらい差が激しい。地元の方はみんな中卒か高卒で、明るい自慢ばっかり。『孫が10人いる!』とか『今野球の監督やってる!』とか、みんな楽しそうにしている。東大の方はみんな言い訳ばかり。みんながみんな組織で出世できるわけではない、出世から外れると『負けた』と思っている。みんな『そうでなきゃいけない』という人生を歩んでいるのが、もったいない」
泉さんの同窓会にまつわる体験談から、田原さんがさらに話題を教育論に展開しました。
「今の大学生が就職したい企業は、倒産しない企業、給料がいい企業、残業が少ない企業で『何をやりたいか』がない。問題は教育にあって、教育というのは本来、一回しかない人生をどう生きるか、好きなものを見つけるためにある。だけど今の教育は正解がある問題ばかりを考えさせる」
この田原さんの意見に、泉さんも大きく頷いていまいした。
泉さんが「幸せ」について考える原点も、幼少期の弟さんとの思い出にありました。
弟さんが小学校2年生、泉さんが6年生の時、弟さんが「運動会に出たい」と言い出したことがありました。
泉さんは反対しました。潮干狩りで10センチの浅瀬で溺れそうになった弟さんが、運動会に出られるわけがない。「笑いものにされるだけ」と思ったそうです。
しかし、弟さんは聞き入れませんでした。泣きじゃくり、どうしても出たいと言い張るので、形だけ参加することになったのです。
当日の50メートル走。弟さんは他の生徒に大きく遅れをとりながらも、それまでに見たことがないような満面の笑みで、うれしそうに、ゆっくりと前に進んでいました。
そんな泉さんにとっての幸せとは何か。(以下あえて関西弁のままで書きます)
「私幸せ低いねん、朝起きたら幸せやねん!『まだ生きてるわ』って思って、こんなむちゃくちゃな人生歩んできたのに。自分は自分のしたい人生を歩んでいるから」
それに対して田原さんがすかさず「この人は好きなことやってんだから幸せに決まってるよ!」と笑いながらツッコミを入れると、会場からも納得したような笑いが弾けました。
泉さんは東京大学を出て、卒業後はNHKで働いたり、司法試験に合格したりと、世間的に見れば「エリート」でしょう。
しかしながら、実は迷いと失敗の連続であり、かなり遠回りな人生でもありました。
10歳の頃に誓った「やさしい社会をつくる」という目的を叶えるために、37年も時間を要しました。大学を卒業してから、パチンコ店でアルバイトをしていた時期もあったそうです。
だけど、それは自分がありたい自分であり続けるための努力をしてきただけで、社会の評価基準ではなく、自分がどうありたいかを問い続けてきたからこそなのではないでしょうか。
泉さんのように、誰もが心からありたい自分の幸せを実現できる社会にする。これも泉さんのミッションなのです。
まとめ
泉さんの怒涛の語り口に圧倒されたまま、あっという間にお開きの時間になりました。
最後に泉さんから若者へのメッセージをいただきました。
「私自身は私たちの社会の未来に期待している。私が年齢でいうと先に死ぬ。私が生まれ育ったこの社会の未来を(会場のみなさんに)よろしくお願いしたい。それぞれの場所で、自分のことも大事に、自分のまわりも大事に、よろしくお願いします」
今回の企画は、田原さんが泉さんにお声がけしたことで実現しました。
実は泉さんは大学卒業後、テレビ朝日で「朝まで生テレビ!」のディレクターもしていた時期がありました。番組が始まったばかりの初期の頃です。
「私、田原さんの大ファンなんです。かっこよかったよ田原さん、今もかっこいいけど。体張ってタブーに挑戦してる」
打ち合わせから本番まで、泉さんと田原さんのやり取りを真横で味わった私が思ったのは、お二人とも体を張って社会にぶつかっている猛獣、いや、「政治怪獣」のような存在だということでした。
泉さんは冷たい社会を憂いて、どうすればやさしい社会をつくることができるか、格闘してきました。矢継ぎ早に放たれる言葉の一つ一つに、真心があります。
まことしやかに「国政進出」もマスコミで取りざたされていますが、泉さんのエネルギーを受け継ぐ若い人が後に続くことこそが、今いちばんの泉さんの願いであり、やりたいことなのだと思います。
2024年1月18日の夜、二人の「政治怪獣」とこの場にいた30名の若者たちとの邂逅が、これまでの社会を壊す新たな力を生み出したにちがいありません。
泉さん、ありがとうございました。
追記(2024/2/24):会の前に田原さん、泉さんと打ち合わせを兼ねた会食の様子を『週刊FLASH』にて取り上げていただきました。
▼YouTube「田原総一朗チャンネル」でフル公開しています
「もしも田原総一朗が、カフェのマスターになったら...!?」
「田原カフェ」は、89歳の田原総一朗と10代20代の若者が対話する「日本一カオスなカフェ」。
早稲田の「喫茶ぷらんたん」で月に一回(たまに二回)開催中。
●イベント情報、参加お申し込みは公式X(旧Twitter)をご覧ください。
https://twitter.com/tahara_cafe
<参考文献>
泉房穂『社会の変え方』ライツ社、2023年
泉房穂『20代をどう生きたらいいのか』さくら舎、2023年
泉房穂『10代からの政治塾』KADOKAWA、2020年
<撮影>
Photo:Yosuke Sato・Tomoko Aoki
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