写真と構図と秩序と混沌
医療系の研究施設で働いている。僕は写真が好きだ。休みの日は撮りに行くことが多い。先日は鉄道工場の一般公開へ行ってきた。
会場内の景色を構築するパーツは人工的で冷たい。にも関わらず、ファインダー越しの世界は暖かくも感じる。屋内の光は柔らかかった。おそらくそれが暖かく感じさせた理由だろう。
工場内は"鉄"が多い。置かれている機械もそうだが、建物の柱や梁もすべて"鉄"だ。故に景色は『直線』が基本パーツ。曲線があたったとしても、それは美しい円や楕円、放物線。カオス的な造りは見当たらない。そのためか写真の構図作りが楽しかった。練習には最適の被写体と思えたのである。
構図はおもしろい。それを調整するだけで感じ方が変わるからだ。おそらくはバランスなのだと思う。均衡のとれたものに人は心を奪われる。人も物も景色もだ。
巷には「写真の撮り方」なるものが溢れている。その中には構図うんぬんの話も多い。有名なところでは「三分割法」というものがある。僕はこれに疑問を抱いている。たしかに方法通りに撮れば映える写真になるだろう。けれども分割が3では足りない場合もあると思っている。
そもそも背景のグラデーションや色によっても、被写体のベストな位置はズレてくる。それを踏まえてドンピシャな構図を求めると3分割にならないのだ。全体のバランスを考えて撮ると、結果的に3分割の構図に近くなるだけで、最初から3分割の構図を狙いに行くと微妙な写真になってしまうのである。
バランスが大事。おそらく人はそこに秩序めいたものを感じているのだろう。一瞬の肉眼ではカオスに見える景色も、写真では構図を工夫して秩序ある規則正しい景色へと表現できる。つまり僕らは秩序に心奪われているのかもしれない。
僕ら生物は秩序の塊だ。そんな僕らが意図的に作り出したものにも秩序は宿る。写真を撮った鉄道工場もそのひとつだろう。この秩序はどこから生まれたのか。力学的に考えれば、他所の秩序から混沌への流れの余波で生まれたのであろう。地球上の秩序でいえば、概ね太陽のそれとによって生まれたのだ。
そう考えれば身の周りのもので混沌じみたものは無い。すべてが秩序ある存在と言えよう。つまり万物のものが被写体になり得ると思う。構図を工夫して秩序あるように撮るのではなく、秩序ある存在と分かる部分を撮ればいいのかもしれない。
あとは写真を見る者の視点に委ねる。この日に撮影した何気ない鉄道工場内の写真も、視点によっては自然味あふれる風景写真にも見えてくる。閲覧者は僕だ。僕がその視点で見ればいいのである。
僕の目標は『僕の思う最高の1枚』を撮ることだ。最近になってその輪郭が見えてきた気がする。被写体選びの基準は定まった。秩序から混沌への流れが感じれられるもの。つまりは秩序の淡い部分がそれだと思っている。
構図の考え方も定まって来た。個性の無いオーソドックスなもの。変化球はいらない。その精度を高めていけばいい。まだまだ見えないものの方が多いが、着実にゴールへは近づいていると思う。