写真と命と世界の理

医療系の研究施設で働いている。僕は短期転勤族だ。今の事業所は8ヶ所目。震災の影響でいろいろと大変だったが楽しく暮らしている。ライフワークとなっている写真も続けられているが、これはすこし迷走気味だ。撮り方も分からなくなっている。

『奇をてらう』。行きついた撮り方には、この言葉がよく似合っていた。もちろん、いいとは思えない写真ばかりを量産。単純作業な仕事中に考えることも、写真以外のものが多くなっていた。

職場には実験動物を真剣に考える人がいた。オーナー側の人で接点はあまりないが、おなじ上級資格の保有者ということで、何度かお話もした。

共感は出来なかったが理解は出来た。なにより熱意は高く、そんな彼女を僕は尊敬していた。そのためだろうか、ここの現場に来てから動物実験については、改めて考えることが多くなっていた。

実験動物の善悪に対する僕の考えは『人の価値観の多様性が発現しただけだと思う。それ以上でもそれ以下でもない』というもの。そこに善悪は無い。ただただそのような自然現象が起きていると認識している。それは変わっていない。

僕らはセントラルドグマの奴隷だ。多様性も僕らのためのものではない。彼らが存続するためのリスクヘッジなだけだ。価値観の多様性もそう。僕ら個体が争って悲しみを背負っても、彼らは1mmの罪悪感も抱かない。この世界はセントラルドグマを中心に回っているのだ。

僕ら人を中心に考えると非合理に思えることも、セントラルドグマという生命システムを中心に考えると、人の営みのすべてが合理的に思えてくる。だがここにも落とし穴があった。生命システムを中心に考えることもまた、世界を客観的に眺める際の邪魔な固定観念と言えるだろう。

生物の活動は酵素が担っている。この酵素だが勘違いをしてはいけない。あくまでも触媒だ。化学反応を起こすのではなく、化学反応のスピードを変化させる。それが触媒というものだ。つまり生物とは坂道を転がり落ちる石ころと変わらないのである。

もちろん、エネルギーを使って坂道を転がり上ることもあるが、そのエネルギーも元を辿れば太陽の核融合反応。他で坂道を転がり落ちる石ころのエネルギーを使っているのだから、やはり坂道を転がり落ちる石ころと変わらないと思える。

きっと世界は人が絶望するほどシンプルなのだろう。存在意義や自我、魂等、暖かく柔らかいと思っていたものも、実は冷たく硬いものなのかもしれない。けれどもそれらは美しいと思う。僕の追いかけている『僕の思う最高の1枚』は、そんな美しさを写したものになる気がした。

自然と人工に境界線は無い。すべてが自然だからだ。海や山を美しいと感じることと、都会の摩天楼を美しいと思えることに差異は無い。生成過程のロジックが少し違うだけだ。美しさの本質は変わらないのである。

そう考えれば今までに感じていた問いもすべてが腑に落ちる。僕はちゃんと同じものを撮っていた。北海道の風景も、動物園のトラも、白塗りの壁も、おいしそうな料理も、駐車場の落ち葉も、敷き詰められた石さえも。

この世界はシンプルだ。すべてはゼロになろうとする。設定値はこれだけなのだろう。ビックバンを起こせば自然と人みたいな複雑系も生まれる。だが、このイメージであっているかどうかは分からない。けれども今のところ腑に落ちるポイントは多い。「世界はこんな感じで動いているのかも」、それくらいの認識でいる。

僕の撮り方も間違っていなかった。万物のものが被写体になりうる。そのものの秩序の淡い部分を狙えばいい。世界の理が強く表れているからだ。そこに美しさがある。世間一般では美しくないと思われているものでも美しく撮れるはずだ。美しいと思われているものは、より美しく撮れると思う。押さえるポイントが分かっていれば、他の部分を排除して濃度を高くすることができるからだ。

そんな考えを胸に撮りに出かけた。お気に入りの1枚は増えたのである。何気ない住宅街、入道雲、静かな湖畔、森の中の滝、古びた新幹線、朝焼けの鉄塔、時速270km/hの列車、地平線から昇る太陽、歩道の砂。すべてが同じ美しさと思えた。

やはり写真はおもしろい。すこし迷走していたが脱せれたと思う。きっかけは実験動物。はじめて仕事と写真が繋がったのかもしれない。考えることの多い職業に就いていてよかった。

僕の写真は止まらないのである。


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