仕事引き継がない世界があるんだ。。
昨年から今年にかけて、アメリカのITテック企業で大量の人員解雇が行われています。
アメリカの企業の解雇と言うと、昔は「朝会社に来たら引き出しなどに鍵がかかっていてそのまま退出することになった」だったし、最近のIT企業では「解雇の通知の20分後にに社内システムのアプリからシャットアウトされた」みたいな話がいろいろ聞かれます。
突然の解雇で、解雇された方の心労を考えると本当に同情するところなのですが、さらに、会社に残る方の方も、ある日突然同僚がいなくなって仕事をどう受け取る、どう引き継ぐのだろう?と考えていました。
仕事引き継がないんだ。。
そうした折、日本の外資系企業に勤めていた方から以下のような話を伺いました。
その方の経験だと
ということでした。
人が異動したり、減ったりしてもやり方を変えないのが日本式。だから人が減ると立ちいかなくなる。外資は人がいなくなるとやり方を変えて対応するそうです。
なるほどー、と思いました。やり方を引き継がない、そういう選択肢があるんだ。
異動や退職時には引き継ぎ書を作って、しっかり引き継がねばならない、という世界観で生きてきた私からすると、目からウロコです。
外資系企業など、ある日突然解雇などを実施しても、会社が回る(回している)のはそういう考え方、やり方だったのですね。
実際には、マニュアル文化だったり、いろいろな情報を社内システムに打ち込ませたり、システム通りに業務を進める必要がある、とかあると思いますが、基本的な発想はとても驚きものでした。
改めて日本的な仕事のやり方を考える
改めて日本における業務を考えると、確かに、業務(手順)の継続性ってとても重視されます。担当が変更になった場合、一番信頼されやすいのは「前任の担当の役割、知識を早く、正確にキャッチアップして、人の変更を感じさせないこと」であると思います。
引継ぎとは、まさに前任者の「型を引き継ぐ」「型を再現できるようにする」そのための、情報共有、手順の共有です。
誰が来ても、同じ業務が再現される、これが日本的な意味での究極の引継ぎなんでしょう。
逆に言うと、後任には誰が来てもよくて、ともかく、仕事の型、手順が人よりも何よりも優先される、アメリカの企業とは違った意味で、人は組織の中の一部品として扱われる、ということなのだと思いました。
ある役職以上、決めることが多い役職や、何かの選択に関わる役職では人事はとても重要なのですが、オペレーションが重視される分野ではともかく業務の方が優先される、型やオペレーションに対して信頼する、そういうところは強いのだと思います。
日本の教育とも親和性ある
「型を引き継ぐ」ことの重要性と言うと、日本的な教育ってまさにそういうことなんだと思います。勉強とは「(解き方を)学ぶ」「正解がある」。基本的には手順を学んで再現できる、それがいい成績を取るうえで重要。
自分なりのやり方をやるのはダメで、あくまで正解をなぞるのが必要。
学校に入って受ける教育から、会社の業務手順まで、僕らは長い期間、「型を学ぶ」「正解を学ぶ」「手順を再現する」これを重視されている。
一部の人が、それではいかん、と新しいやり方を考案して世の中を進めていきますが、変り者扱いされる。
逆に言うと、いつも変わらない再現性を自分たちが要求するからこそ、自分たちも再現性を要求される、そういう関係性です。
型がある、ということ
型や手順がある、というのは予測可能性が高い、ということだし、そのことによって人々の活動が効率的にできる、というところはあります。が、逆に、予測不能なことを嫌う、変化を嫌う、という考え方につながります。
日本の場合、外圧で社会情勢が変わると、革命でも起きたかのように一気にモードチェンジしていきますが、通常状態で変わっていく、変えていくのは不得意なのかもしれません。
自分たちが尊んでいる、仕組みや手順の正確性、継続性が、変化をする上で大敵となっている事、変化と正確性や継続性のバランスを再度見直す必要があるのだろうな、というのが思うところです。
これが、例えば誰か一人、創業者や特定のトップだけではなくて、多くの社員の人が変化と正確性・継続性のバランスを考えて変えていける、変わることを受け入れていける、というのが必要なのかもしれない、そう思いました。
「失われた〇年」という言葉をよく聞きます。日本は変わらない、と。状況が悪くなっても変わらないことを要求しているのは自分自身かもしれません。
行く先々で自分の想定外の対応を受けたり、業務状況が発生しても「ま、それもありかも」と思えるようにしないと、本当に変わるのは難しいかもしれません。
おわります。
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