ドリップ、石を穿つ
40年間生きていると、勝手にそうなった、みたいなことがある。
最近でいうと、コーヒー豆を焙煎して、自家製のドリップパックが出来上がったときのこと。
テーブルに置かれたドリップパックの姿を見て、ふと「なんだこれ?」となった。
もちろん、勝手に「出来上がった」わけではない。だが、決して最初からコレをつくることを目指していたわけではない。
思えば最初にコーヒー豆を買って、家でペーパードリップで淹れ始めたのは、9年前…2015年のこと。
そのきっかけは、神戸のUCC博物館に行ったときに、コーヒーのドリップセミナーへ参加したことだった。
さらにそのずっと前の出来事として、2010年に大学時代の友人がアウトドアで、挽き立てコーヒーを淹れてくれたことがあり、それがとても美味しかったという思い出がある。
それまで私はコーヒーに関して、缶コーヒーくらいしか飲まない人間だったが、コーヒーを淹れるのっていいなぁ、とそのとき初めて思った。
(コーヒーにカンして、カンコーヒーくらい…)
家でドリップを始めた頃は、特にコーヒー豆にこだわりなく、クルクルと手回しミルで豆を挽いて、ケトルの注ぎ口からクルクルと粉にお湯を注ぐ所作が、ただ楽しかった。
2016年の春。
ブルーボトルコーヒーなどで知られるアメリカの西海岸から始まったとされる「サードウェーブ」、「スペシャリティコーヒー」、「シングルオリジン」などと呼ばれる浅煎り系のコーヒーに出会う。
大阪の『Mel Coffee Roasters』で初めて飲んだニカラグアのアイスコーヒーが衝撃的だった。なぜこんなにフルーティーなのか??それまで私が抱いていた「コーヒー」という概念がひっくり返された。
コーヒーは「果実」だ!!
そこから本格的にコーヒーにハマり出し、色々な豆に興味を持ち始めた。
そして、その年の秋。
前職の社員旅行(有志のキャンプ)で、ひとり一つ何か飲食物を持ってくるという企画があった。そこで私は「モーニングコーヒー」をやろうと思い、ハンドミル、ドリッパー、ケトル、紙カップやメニューボードなどを仕込んで、なんちゃってコーヒースタンドをやった。ロゴマークはそのときに架空のコーヒーショップをイメージして作った。
大人のごっこあそびだったが、皆には楽しんでもらえたような記憶がある。
その一年後、2017年末には、コーヒーを飲む回数が増え、手動で豆を挽くのが面倒臭くなってきたため、ミルを手回しから家庭用電動グラインダーへアップグレードさせた。
そして去年(2023年)、ついに焙煎機に手を染めた…。
電動ミル購入から焙煎機購入まで約6年経過している。
それはまさに、
「焙煎機には手を出すまい」
「そこに手を出したら沼」
と自制をかけてきたからである。しかし、それでも購入した理由は、どうしても飲みたいコーヒーが「生豆」での販売しかなかったため…。(とてもシンプルな理由)
ただ焙煎機といっても、ショップにあるようなデカいものではなく、家庭用のものである。
もちろん購入の際には、色々リサーチした。
・マンションのキッチンで使用可能な小型のもの
→ 投入可能豆200g以下のもの
・焙煎時に豆のチャフ(皮)がなるべく飛び散らないもの
→ 家族に迷惑をかけないもの(ココ重要)
・浅煎りに適したもの
→ 直火式ではなく半熱風式
そして今年、2024年。
焙煎して余った豆でドリップパックをつくっている…。
『雨垂れ石を穿(うが)つ』という言葉がある。
ドリップパックは「大きなことを成し遂げた」という感じではないが、テーブルに置かれた自家製ドリップパックの姿は、どこかこの「穿った瞬間」に思えた。
なぜそうなったのかを思い返しても、特に明確な理由はない。
好奇心の赴くまま、思いつくまま、好きにやっていた、ただそれだけ。
大体の興味(好奇心)は、「青天の霹靂」みたいなものでもない限り、小さなところから始まると思う。私でいうそれは、きっと2010年のアウトドアでのコーヒーだったのだろう。
何かに興味を持ったとき、
それをやるか、やらないか。
ほんとこれに尽きると思う。
やれば、次の景色が見えてくる。
やらなければ、何も景色は変わらない。
ただ、その前進または後退が、自らの「意思」と呼ばれるものなのか、未知性に満ちたその時の「環境」(めぐり合わせ等)によるものなのか分からない。
そこはタイミングを見極め、どこかであと「一押し」を加えることで、意志と環境のミラクルフュージョンが起こるのだろうと思う。
振り返ると、私はきっとそういう風に無意識にこれまでの人生をつくってきたのかもしれない。
絵やプラモデル、ものづくりが好き
→ いつのまにか建築をやっている
高校生の頃からラルクが好き
→ いつのまにか妻と出会い、結婚している
どれも限りなく「自己洗脳に近い好奇心みたいなやつ」で。
好きでやってたら、いつの間にかそうなってた、ってやつで。
そしてその出来事の要所要所に「意志と環境のミラクルフュージョン」が起こっていた。
例えば、カレーをつくるために玉ねぎを切ることは過程であって目的でない。そこで玉ねぎの切り方を知らなくても、なんやかんやして、玉ねぎはいつの間にか切れるようになっている、という感じ。
そして改めて、そういう好奇心を育むイメージトレーニング、こどもが自然とやっている「ごっこあそび」や「見立てるあそび」は、バカにできないなぁと思う。
ちなみに出来上がったドリップパックは、会社でコーヒーが切れた時に使う自分用であるが、たまに誰かに譲ったりする。
もちろん私はお店をやってないし、食品衛生責任者の資格もない。それを了承の上、渡せる人は親しくかつコーヒーが好きな人。超限定的である。
よく不定期で限定的にネットでケーキやお菓子を販売しているショップがあったりするけど、そういうものよりももっと限定的。
畑で多めに採れた野菜を近所の人にシェアするみたいな世界。経済とは無縁の、物々交換の、どこかプリミティブな世界。
私の場合、あくまでコーヒーは自分用。
これは大前提。
コーヒーに関することは、すべては「自分が楽しいから」やっている。軸は自分にあり、他人ではない。つまり誰かを喜ばせたいとか、商売をすることが根本の趣旨ではない。
でももし、そういうことができると思えたなら、余力があるなら、そういうこともやればいいのじゃないか、という感じ。ただ、やはりそれは主ではない。だからこそ私はコーヒーを継続できている。
これを『自己サスティナブル』とでも言おうか。
(世に蔓延るSDGsと称される思想は、これを忌み嫌いますが…)
コーヒーを通じて、こうやって副産物的にコーヒー以外の学びもあったりする。
時々、木の根っこが地面のアスファルトやブロックを突き破って出てきているのを見かけたりする。根っこサイドとしては、別にアスファルトを突き破ろうと思ってやったわけではないだろう。はち切れんばかりの生命力が故に、自然とそうなった。
このドリップパックには、物質的なコーヒーだけでなく、そういう私の生きる生命力も真空パックされている。
あのコーヒーショップのドリップパックにも、きっと。