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ヴァーチャルと!フィジカルの境界線

 私たもんはヴァーチャルの存在で、Xのアカウントや、このnote(実はblueskyも使ってる)を使っているはのは、ヴァーチャルな存在として。でもその裏側にフィジカルな存在がいるわけで、フィジカルな存在から見ればヴァーチャルはちょっとした理想郷の私🍑

最初の頃は、その境界線って明確になっていたんだけど、2年以上もこの状況を続けてきていると、そこの境界線が曖昧な状態になっているな〜って思ったんですよね。フィジカルな自分の中にヴァーチャルな自分を生活させてきていて、(私の場合はフィジカルとヴァーチャルはちょこっとだけ別人格になっているかな)それぞれが別の考え方を持っていて、私の中でそこは切り替わっているから、それが混同することはないんですよね📏

最初のうちは、ヴァーチャルな存在はヴァーチャル世界へ行った時(具体的にはアプリを起動してログインした時や、HMDを被った時という言い方がいいかもしれない)のみヴァーチャルな存在に入り込む感じで、そこを離れた瞬間にフィジカルな存在に戻るという感じでした。

ただね、ヴァーチャル世界以外、Xやnoteでね行動するとこれは、ヴァーチャル存在の拡張と言える状況なんですよね。そういう時間が増えていくにつれて、ヴァーチャルな存在の私がフィジカルな世界を自由に泳ぐことができるようになってきたと言えるなって思っています。(ちなみに、ここが不思議でアバターでない状況で人と会っている時はきちんとフィジカルな私ですね。でも会った人からはいつものたもんさんだって言われるけど・・・😁)

こういう二つの感覚を持てるのってちょっと面白いなって思ったりします。私は、自分が色々と知ることをメインにしているので、Xやインスタグラムもヴァーチャルとフィジカルでそれぞれアカウントを持っているんだけど、それぞれのTLに流れてくる情報が全く異なっていたりとかね〜最初の頃は、ちょっと他人のTLをのぞいている感じにも近かったんだけど、今ではすっかりそれぞれの存在として見ているからすっとわたしのTLってなってしまっているのも面白いけどね🌍

そういう、フィジカルとヴァーチャルな存在を行ったり来たりしていて、ふと、私の活動テーマってなんだろうなって振り返ってみると、ヴァーチャルとフィジカルの境目がこれからどうなっていくのかってことについて考えていることが結構あるなってるなって最近よく感じるんですね。

だから、私の書くnoteやつぶやきってフィジカルとヴァーチャルを対比したものが多いって感じました‼️

産業革命以降は移動手段を人間が取得して、世界中どこにでも時間をかければ行けるようになりました。それによって、文化の混ざり具合も進化してきていますよね。

情報革命以降は、瞬時に情報を共有できるようになってきました。だから、世界中どこにいても生の情報を得られるようになったと言えるよね。

でもでも、物理的な存在の制約というのはまだあるのが今だと思う🤔

ヴァーチャルというのが、そこを破りつつあるのが今だけど、(そうそ、AIも一種の仮想的な存在と言えるなって思っている。だって、AIもプログラミングでそれぞれの世界を作って出しているんだもんね)この先がユートピアなのかデストピアなのかがわかるのってまだまだ時間がかかる話だとおもているし、それを操作していくのって一人の力じゃなくて、これからこの世界を利用していく人間(ようするに私たち)なんだろうなって👫

昔から発明は遊びの中から生まれていくものだとおもっています。動物が発明できないのは食べることにものすごい時間をかけているので、遊ぶ時間がないからという話も。

人間は遊ぶことができる生き物なので、ヴァーチャル世界がゲーム的なところから始まっているのも頷ける。今は、遊び要素が強いように思われる(メタバースをゲームに位置付ける人も多いよね)けど、その世界に出入りしている私たちは、ちょっとずつ、この世界で文化が育まれているのを知っているんですよね。だから、もっと知ることは大切だなって思っているし、実験してみたいなって思っています。

今日は、ちょっとそんなことを考えてみたのでした〜✨

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