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パーティとチャペルの狭間で

深夜12時を回って、少しずつ夜も深まってきたテラスパーティ。スペインは22時ごろにようやく陽が沈む。日没から2時間が経ち、やっと夜が深まってきたころ、依然として34度の熱気に包まれた空に、クラシックギターのジャジーな音と、真赤なドレスの歌姫のハスキーなメロディが霧散する。旧市街の美しい街をバックに、ほろ酔いの男女はダンスをし始め、老夫婦はカクテルを酌み交わし、横に緩やかに揺れている。すぐ隣には、青年二人が意気投合して話し込んでいる。パフォーマンスを熱心にスマホで撮影している者もいれば、円卓を囲み、和気藹々と団欒しているグループもいる。
パエリア、マンチェゴチーズのピンチョス、海老とオリーブのテリーヌ、ガスパチョ。片手にはテンプラニーリョの赤ワイン。
美食の香りを纏ったからりとした風が肌を撫でる。

私は早々に熱気から逃れるべく、メインステージから少し離れた石塀に移動し、パーティの様子を見ていた。

宇多田ヒカルの『First Love』のMVは、こんな感じだった、とふと思った。

言わずと知れた失恋ソングだが、MVではクラブのような場所で、外国人たちがダンスをしていたり、チルアウトしている。なぜクラブなんだろうと、女子高生の時は不思議に思ったものだ。そのことを思い出した。

ネオンライトが煌々と輝いて、ステージを照らし出す。赤いタンゴドレスがひらりと舞っている片鱗が見えた。タップダンスの音がビートのように高鳴っている。喧騒と熱気のなかで、彼の背中が浮き出て、ステージライトが玉ボケのようにみえた。

彼はライブステージを私より数メートル先で見ていた。あまり動きのない背中だ。彼らしいなと思った。聴き入っているのかもしれない。隣には知らない外国人がいた。仕事の仲間なのかもしれない。たまに楽しそうにわらっている横顔が見えた。私と話すときより快活そうに見えた。

人の動きが激しく、この数メートルの視界をかんたんに遮っていく。私はブルーのシャツを見失わないように注力していた。

あの隣に当たり前のように立って、一緒にこのパーティを楽しめていたなら、どんなにしあわせだろうか。と思わずにはいられなかった。

数日間、マドリードで、仕事の都合で顔を合わせている。だが直接関わる機会は多くない。今日に至っては、パーティの最初に挨拶して、すこし話をしただけ。景観がとてもよかったことに託けて、カメラで彼の写真を撮った。私にしては勇気を出した。ブラフとして、仲の良い同僚たちの写真も何枚か撮ることも忘れなかった。2人で撮りましょう、とさそう勇気はさすがになかった。
いい感じに撮れたので、あとでメールで送りますね、と伝えたら、ありがとうございます、と爽やかな笑顔を返された。そのさらりとした返答に、私は自分の押し付けがましさを再認識して恥ずかしくなった。写真なんてよくある口実だ。そのような詰め方しか私にはできない。

その後、パーティの間、彼は他の人々と親睦を深めていた。私は私で、仕事の関わりのある人たちと話していた。話しながら、もしかしたら、彼は私のことを疎ましく思っているかもしれない、好ましくなく思ってるのかもしれない、という可能性について考えていた。まだ関係も浅く、まともにアピールすらできていない、知人レベルの間柄だ。目が合えば笑いかけ、別れ際には手を振る程度だ。でもそれ以上に、かたくガードを張られている気がする。
仕事の関わりだからこそ、私的な関係を仄めかされると警戒されやすいのかもしれない。普段は住んでいる国も違って、会うこともない距離だから、気持ちも焦る。そういう必死さが漏れ出ているのかもしれない。

ああ、ひさしぶりだなあ。この感覚。
恋ってこういうものだった。しばらく忘れていた。

私にとって恋は、届かない背中をじっとみつめて、そうして、「ああ、このひとのとなりに立てたらどんなに」と、胸を焦がすことである。昔からそうだ。でも久しく感じていなかった。

最近は、日本でマッチングアプリなどもやって、いろんな男性と会ってみた。周りがどんどん結婚していく年齢に差し掛かっている。私もそろそろ婚活しようと思った。それなのにいざ会ってみると、いっこうに恋愛モードになれず、途方に暮れた。もう私の恋愛的な感性は数年前の大失恋を最後に死んだらしい!と見做すに至った。見做してからは楽になった。恋愛しなくては、と無理に思わなくなった。人生で一度は結婚を経験してみたいが、そのために恋愛を必須と思うことはやめた。一緒に住むのに苦労しないような、感覚の合う友人を探すのが良さそうだ、と思い始めた。恋愛対象でないと性愛には至らないが、まあそれでも良い、むしろ楽かもしれない、と。
日本には、恋愛として好きではないが、とても優しくて私のことを好きだといってくれる人がいて、告白を保留にしている。昔の私なら迷いなく断っていた。でもこのような変化の中で、私はこの長期出張が終わったら、彼に応えることになるのかもしれない、とうっすら感じていた。

そんな私が、まさかまたこんなふうに、急に、情熱の国で、こんなにすんなりと、恋心なるものを抱いている!旅先マジックが作用しているのだろうか。いや、違う。以前ロンドンで会った時も、私は彼のことが気になって、でもむりだからと諦めた。正直、また会えるとは思っていなかった。

彼は私より10近く歳上で、仕事の関わりで知り合った。私とは程遠く優秀だ。だが、マッチングアプリでいうような、ステータスに惹かれたわけではない。

出会ったときから、なんだか雰囲気が好きだった。寡黙で我が道をいくような意志の強さを感じた。何かをかくして明るく振る舞うような部分が気になった。話してみたら、やさしく、物腰柔らかくて、関わるほど素敵だった。
もっと知りたくて、もっと知りたくて。
でもいざ話せるチャンスがくると、何を聞いたらいいのかわからなくなってしまう。知らないことばかりなのに、クリティカルな質問が何もできないまま、ふわっとした会話を重ねた。
私も彼も饒舌とはいえないし、面白いタイプではない。私は、感じの良い自分を演じて明るく振る舞って、「義務コミュニケーション」をするタイプだ。彼からは似たスタンスを感じる。
結果として、私は彼とあまり本質的な会話ができず、愛想笑いの世間話になってしまうのがもどかしい。

一度じっくり、腰を据えて、二人きりで話してみたいのに。あがってしまい、心を開ききれないし、そもそもその機会が殆どない。

いつか、また会えるんだろうか、
また他愛のない会話を交わせたらいいなあ。
また手を振って、にこりと、わらいかけてもらえたらいいなあ。

とても単純で、安い気持ちで、我ながらわらってしまう。小学生だってもっとマシな恋心を持つだろう。でも仕方ない。私は、この気持ちを持つことがそもそも稀なのだ。この、あまりに単純で幼稚な感情が、心が震えるくらいに大切なのだ。持ちたいと切望しても持てるものではないことを、もう何度も試して検証している。

もうこのパーティもこのままおわりか、そうしたらもうすぐ帰国だ、彼とも別れることになる。あっけないな、と思って、終盤に差し掛かったメロウなギターの旋律に耳を傾けながら、石の塀に腰掛けていた。
正直疲れた。慣れない土地で仕事の人々とずっと関わる生活も、そもそもたくさんの人が集まるパーティも、得意ではない。

でも、この街に来れたことはよかった。山なりに連なる石畳の街。学生の時にいた大好きな街に似ている。街の中心にうつくしい大聖堂があるところも、少し歩けばジェラートスタンドがあるところも、丘から一望できる雲ひとつない空も気に入った。
人生でもう来ることはないだろう。もっといたかった。

「素敵な曲でしたね」

突然の声に驚いた。彼が、すぐ隣に腰掛けてきた。
私はさっきまで前方にいたのに、ぼんやりしている間に、ずいぶんと時間が経っていたようだ。
さっきまで前のほうにいましたよね、いつのまに、と言いかけて、口を噤んだ。ずっと見つめていたことを自爆してしまいそうだった。

「すてきでしたね」と返すことしか、できなかった。

彼はそれから、iPhoneを取り出して、「目の前で見てきたから、たくさん写真撮れました」と、パフォーマンスの写真をたくさんみせてくれた。鮮明に、ダンスやらギター演奏やらの様子が収められていた。こんなパフォーマンスをしていたのか、と、今更ながら思った。

同時に、どうやら嫌われてはいないらしい。とも思った。
もし私のことを疎ましく思っているなら、わざわざパーティの酣で、こんなふうに話しかけてこない…はず。たぶん。
いや、仕事の関わりだからと、サービス精神が旺盛な場合は、ありえるか。
でも、ずっと歳下で権威もない私にサービスする必要はないはず…となると、たいして意味はないのかもしれない。うん、気まぐれだろう。
ぐるぐる考えていたら、彼が、「ここ、結婚式場にもなっていて。隣に立派な教会があるそうですよ」と言った。
旧市街の教会…。大聖堂と同じならバロック様式かもしれない。きっと荘厳だろう。
あたりをくるりと見渡していると、「ちょっと行ってみますか」と彼がその方向を指した。
おどろいて、「行きましょう」としか言えなかった。

すこし歩くと、チャペルがあった。誰もいないのに、煌々とライトが灯されていて、自由に入ることができた。
深夜の結婚式場は打って変わってシンとしていた。洗練された真白なチャペルだった。ネオンライトより眩しいほどの、白。
やはりバロック様式で、曲線的な装飾とキリスト教の絵画で壁面が彩られていた。真正面には巨大な宗教画があった。天空には神々しく天使と女神が描かれ、ひとびとが見上げている様子が描かれていた。この絵画の下で誓う愛なんて、いったいどれほどのものだろうか、とたじろいだ。

「綺麗ですね」と、カメラで内装の写真を撮った。彼も、「きれいですね」と写真を撮っていた。

いいなぁ。

この人とこんな場所で、結婚できる世界線とかないのかなあ。と、柄にもなく思った。
結婚願望なんて特にないはずの私がそんなことを当たり前のように思っていることにもう1人の自分が驚いて、呆れたように笑って、当の私は、泣きそうだった。

しずかで綺麗で、夢境のような空間に、とても気が紛れない、と思った。ふわふわとした気持ちで、音を立てずチャペルを歩いた。
時が止まっているようだった。このまま止まっていて欲しいと思った。一方で、まださっきのカオスなパーティ会場のほうが幾分かましだと思った。『First Love』のMVの舞台が、チャペルでなくクラブなのは至極もっともだ、と思った。

そのとき話し声がして、そちらを見ると、さっきの歌姫が、教会の外を通っていくのが見えた。ステージパフォーマンスが終わったようだ。

「きれいなドレスですね」

真赤でセクシーなカットの入ったサテンドレスを纏った歌姫を見て、私が言った。背が高くブロンドの小麦肌の美女だからこそ着れるドレスだ、と思った。
彼は、そうですね、と頷いた。

「今日のドレス、きれいですよ」

驚いた。お世辞だとしても、この人がそんなことを言ってくれるとなると、いよいよ夢かも。もうこれでじゅうぶんかも。と私は思った。

その後、私たちに気がついてやってきた他の同僚たちと合流した。もうすこしだけ時間をくれたらよかったのに。と思った。

最後に別々のタクシーに乗る時、手を振った。
今回も私たちは手を振って出会って、手を振って別れるのか。
でも、もしかしたらこれがほんとうに最後かもしれない。

このプロジェクトはいったん終わりなので、次に直接会う具体的な目処はまだ立っていない。それに私はそのうち転職するだろう。
もう仕事で彼のいる国に行くことは、そうそうないだろう。もし彼が日本に帰ってきたとしても、私とはもう関わりがなくなるだろう。
そうこうしている間に、彼はだれかと結婚するかもしれないし、私も、だれかと結婚してしまうのかもしれない。
仕事の事情を抜きにしても、日本に戻ったら、私はまた幾分か生きづらくなり、無意識的にリアリストを気取り始める可能性だってある。婚活をまたやるのかもしれない。

そうしたらもう、今日の記憶は遠い昔の夢想みたいなものになるだろう。一瞬にしてそうなるだろう。だから今のうちに記しておく。

現に、この場所に来る前は、結婚なんて共同生活ができる人となら良いと、恋愛感情などもう抱かなくても良いと思っていた。
でも、そうして得る結婚生活と、この数日間の夢想の続きの可能性、
いったいどちらが私にとって、「生まれてきてよかった」の瞬間となりえるだろうか。私の人生にとって忘れ難い一瞬となりえるだろうか。


そこまでのことをかんがえて、別れを噛み締めて、手を振った。ありったけの明るさでニコリと笑ったつもりだ。
彼は「またね」と、私の大好きな笑顔で手を振り返してくれた


伝えることもできない。でも、こんな気持ちになったの、ほんとうにひさしぶりだったから、嬉しかった。

私はいま私にできることをするしかない。
孤独を追い込み、私自身の夢を叶えて、磨いて、もっと自信をもてる私になっていたい。
どのような形であれ。
あとはもう神のみぞ知る、だろう。
もしもう会えなくても、いつかつながりの中で、名前をきくことはあるかもしれない。

きっとわすれないだろう。
あの熱気も疎外感も孤独も、切なさも切望も、叶わない恋心も及ばないことへのやるせなさも、焦れも諦観も、すべてがごっちゃになった掃き溜めのようなカオスで。
さまざまな異国語と、外国人たちの楽しげな話し声が入り混じるなかに、私はなぜか異質に存在して、何故ここにいるんだろうという率直な疑問や、これから何処へいけばいいんだろうという純粋な迷いが浮かんでは消えて、でもそんなあれこれすべてがかき消されて、やっぱり少し前にちらつく彼の背中ばかりが輝いて浮き出て見えたこと。

目の奥があつくなって、胸がいたくて、
じわりと、たまボケのような美しいネオンライトが、まばたきのたびにきらめいて、次の瞬間、絵画に囲まれた2人きりの教会で、一睡の夢のような静寂に包まれたこと。


次にもしまた出会えたら、
このカオスと夢想の間を埋めるように、
もっとたくさん、たくさん、お話がしたいです。

もし時間を許してくれるなら、ふたりきりで、いろいろなお話をしたいです。

こんな特別な場所でなくても、地球の片隅の、ありふれた喫茶店で、コーヒー片手に、ラフな格好で、真昼のカフェとかでかまわない、むしろそちらのほうが、いいかもしれないです。

そのときまでに私もっと、もっとがんばるので。自分と向き合って、たくさん学んで、深めて、きっとあなたの興味をひけるひとになるので。

結局、私は今回も憧憬に生かされる。
今も昔も、私は夢想家だった。思い出した。

私にとっては、この飯事みたいなちゃちな恋心が生きる原動力だから、なによりも価値があるものなのだ。

景色、湿度、音楽、言葉、機微、そういう無形の構成要素すべてが、私の「生きていてよかった」の瞬間に、なってくれるだろう。

忘れがたい情景に出逢いにいこう。
人生は旅のようなものだ、と星野道夫氏は言ったが…
まさに、生きることは旅することだ。

私にとってのセレンディピティに出逢う旅の途中。

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