ワクワクリベンジ読書のすすめ~『闇の絵巻』梶井基次郎著~
死と隣り合わせの人生を、「闇」をキーワードに夜の外観と重ね合わせている。
と言っても強い悲壮感はない。死に対する不安や恐怖を感じつつも、自らの死を俯瞰して見ているところがおもしろい。特に五感に基づいた表現は意味深い。
そもそも「闇」は「死」を意味しており、視覚の無い状態。であるがゆえに、たびたび登場する聴覚や臭覚の表記は、この作品の奥深さを演出している。
「またあるところでは渓の闇に向って一心に石を投げた。(中略)石が葉を分けてカツカツと崖に当たった。ひとしきりすると闇のなかからは芳烈な柚子の匂いが立騰って来た」(新潮文庫P266)
「下流の方を眺めると、渓が瀬をなして轟轟と激していた」(P267)
こうした客観的な表現に、死を受容した基次郎の心の平静さを垣間見ることができる。
一方、闇の中でも時々あらわれる「光」(視覚)。ここの表現にも、詩的な心にくい演出がある。
「その途中にたった一軒だけ人家があって、楓のような木が幻燈のように光を浴びている。(中略)街道もその前では少し明るくなっている。しかし前方の闇はそのためになお一層暗くなり街道を吞み込んでしまう」(P269)
要は部分的な明かりがあるがゆえに、他の闇(暗さ)が強まるということだろう。松尾芭蕉の句「古池や 蛙飛び込む 水の音」(静寂な古池に飛び込む蛙の音が反響し、一層静寂さを意識させる、という意味と考える)と酷似している。
「他人が人生を謳歌している姿は、自分の死への思いを強めることになる」ということか。
死を受け入れてはいるものの、やはり一抹の不安はあるのだろう。
そして「消えてゆく男の姿」に対するコメントは、この作品のテーマであると
いえる。
「『自分も暫くすればあの男のように闇のなかに消えてゆくのだ。誰かがここに立って見ていればあんな風に消えてゆくのであろう』という感動なのであったが、消えゆく男の姿はそんなにも感動的であった」(P269)
死の受容と揺れる心。
それを卓越した表現で演出する。
ごく短い作品の中に、改めて梶井基次郎の魅力を感じた次第である。