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「生きるに値しない命」とは誰のことか

「失禁や嚥下障害が生じ、オムツを着けて寝たきりの状態になったら、生きていたくない。周囲の人や自分のことまでわからなくなったら生きていても仕方ない。だから死なせてほしい。できればそうなる前に安楽死したい」。
91歳のある老人の訴えである。「老人の自分は役に立たない」という思い。著書にも記載があったがこうした「役に立たない誰か」という発想は、6年前の相模原事件(津久井やまゆり園)の犯人の考え(優生思想)にもつながるという。
 
この著書は、100年前にドイツで書かれた安楽死合法化を分析するものであるが、特に著者の一人である森下氏が「老政学」という視点から「命の選別について」分析している点が実に興味深い。
そもそも「老成学」とは「超高齢社会の課題に応える総合的な学問であり、老いの深まりに応じた成熟のモデルを探求する」ものとのこと。老成学をもとにした生き方・老い方・死に方を論じた内容は個人的に大きく賛同する。
「死に方」つまり「人生の最期の迎え方」においては「老い方(=人生後半の生き方)」が切り離せない。生き方の延長線上に最期の迎え方が位置しているというのが老成学の考え方でもある。
森下氏は「生き方とは他人との関わりであり、関わりとは役割をともなうコミュニケーションである」としている。さらに、そうするならば「人生のどんな状態にあっても、人の生き方には一定の役割がともなうはずである。生きていても死んでいても、若くても老いても、ボケてもボケなくても、寝たきりでも寝たきりでなくても、会話ができてもできなくても、その姿を他人に見せる、あるいは他者から見てもらうという役割である」としている。
ある意味で、ICF(国際生活機能分類)の「参加」「活動」「環境因子」をイメージさせる。
 
さらに森下氏の、91歳のある老人に対する答えは、心温まるものとして印象深く思う。
「老いを生きてみせよう。老いの深まりに応じて生きてみせよう。もちろんボケない工夫と努力は重ねる。しかしボケたらボケたで仕方がないではないか。今度はボケてみせよう。見事にボケてみせよう。家族がいてもいなくても、友人や知人、介護ビジネスやデジタル技術を活用しながら、なんとか在宅ホスピスで乗り切ってみせよう。そして人生の最期、親しい人たちに見守られながら、生命維持装置を装着せず、痛みや倦怠感には鎮静剤で対処し、「生きてきてよかった」と周囲に感謝しつつ、穏やかに自分の生を終えよう」と。
 
「生きるに値しない命」などない。老若男女、障害の有無に関係なく、どんな状況にある人間も、自分の人生をどう生きるか、そして自分の生きざまを多くの人にどう感じてもらうか!
そんな超高齢社会、地域共生社会における生き方のヒントを森下氏の老成学に学ぶことができた。

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