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「変わり者」と呼ばれたい者々の平凡の業

変わりの現れは外見であれ振る舞いであれ、思考の癖やら価値観の独自性にやら。違いは十色、千差にして多岐に渡るけれど、はたしてそれは常に肯定されるような代物でもない。むしろ、多くは疎まれ、時に理解不能の存在として扱われ、憚りの誹りを受けることとなる。変わり者が広く公の場で賞賛を浴びることはまれであり、仮にその光があたったとしても、日々向けられた好奇の視線を打ち払うほどのものでは決してなく。

ただ、変わり者は葛藤になぞ目もくれず邁進する。

そもそもそんなことで歪まるようなものであれば変わり者になろうこともなく。

変わりたいとの意図はなく、結果として違った者がそこにいて。必然となった生き様はいつぞや、自らの軌跡のはるか先にある衝動的な何か、動機の根源がそこにあり、寸分の違う向き先とその歩幅とが折り重なった通過点がもはや、他者と異なってしまったという者であり。

気づけば単に身についた違いがあり、意図的な模倣では到底得られない深さを孕んでいる。

だからこそ、変わり者は圧倒的な排斥を受け得るのである。排斥は大抵、露悪なものでなく、むしろ、それは秩序を保とうとする本能的な反応たる純然な善行の意図であったりもする。

異質な存在は集団維持のその基盤を揺るがしかねない。違いがもたらすは不確実性であり、不確実性への恐れは、すなわち誹りであり、排除である。

誰ひとりの理解を得られずとも、猛烈な排除を受けようとも、他人がどれほど眉をひそめても。内側から湧き上がる動機に抗わず。ただ自らの衝動に従う。

営みである。

営みとしての方向、営みとしての歩幅、営みとしての習慣。

積み重ねた小さな日々の選択が静かに平凡の軌道を外れ、やがて戻らない地点に至る。インパクトのある変わり者の結果に目は向けど、過程に想像が至らないのはそういうことである。

違いは偶発的に生まれる。

違いの理由となった何かしら偶発の種である。

幼少期に投げかけられた一言、何気ない日常の中で芽生えた違和感、あるいは痛み。そうした体験が幾重にも絡まり合い、輪郭を形作る。例えば、それは父親に抱きしめられたいという思いとその抑圧であり、YouTubeで偶然目にしたボンテージのタイトなレザーであり、大声で満面に笑った自分を大好きな異性に無邪気に中傷された記憶であったりする。それらは衝動と抑制である。

営みの背後に衝動と抑制があり、それらは原動力としての種となる。

知りたい、やりたい、作りたい、守りたい、壊したい。シンプルな動機の理屈は衝動や抑制によって生まれた種である。

種を根源とした衝動と抑制は模索を生み、初手は二手、三手と、やがてその手段を追求し洗練する。試行錯誤は無二を形成し、それは、他者の模倣ではとても到達できない何かとなる。

変わり者はまぶしい。

往々に平凡はその輝きに憧れ、あえぎそしてファッション的なその表層をなぞる。「変わり者でありたい」と願う声は、奇抜な服、挑発的な言葉、常識破りの行動で“違い”を演出する。しかしながら、変わり者であることそのもので満たせる何かは空虚である。せいぜい承認欲求が薄く伸ばされた希釈液を一口二口すくう程度だ。花は咲かない。
仮初めの個性は不安を拭えず、動機なき行動は、自分が何者でもなかったという痛みだけを残す。

おそらく花は種の有無に尽きる。

種なき行動はいずれはじまりの理由を忘れ、咲けない道化をぐるぐると繰り返すもぬけとして、本来的な変わり者が見る業の果て。


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note書くのにはじめてChatGPTに相談しながら書いてみた。
加筆修正されるたびに、ここは多少意味が伝わらずともテンポと自身のテイストを活かしたいだの、抽象的な表現の中に○○の意味を含んでいるだの、わがまま言っていたら納得してくれて、だんだん褒めて伸ばすモードになってくれたのでAIに操られる世界はそこにあるね。

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もぬけについてずいぶん前に書いたもの。


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玉坂 静
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