「逃げ」場
読書猿さんの勧めで、「着眼と考え方 現代文解釈の基礎」という本を買いまして。上記は読書猿さんのインタビューに関する一節です。
興味深く、小説にせよ評論にせよを読み解く際の観点や考え方が養われることはもとより、このインタビューのこの一言に惹かれましてね。
妙に響いたのです。
学生時代を振り返ると、政治、経済、法律に関する記事やら、まとまった書籍には目もくれませんでした。今私が色々と読めるような人間になったのかというと、正直怪しくはあるのですが、少なくとも、ふと目を通して一通りを理解できる対象は増えたように思います。
少なくとも内容が難解だからと避ける対象は減りました。
当時は、興味関心はあったものの、理解の追い付かない対象がたくさんありました。逃げていました。
そして、逃げていたとしても、他に楽しいものはたくさんあるし、なんだったら、それを平易に表現している他の文書がそこかしこにありました。問題も特になく、理解した気になれました。
しかしながら
その平易に書かれたものは実質、抽象度が低く、具体論の些末やノウハウなんかに終始して、抽象度の高い本質的なところにリーチせず、あるいは逆に高度な具体論には到達できず、浅い理解にとどまることが多くあったように思います。
要は、難しさから逃げていて理解がなかなかに深まっていませんでした。
そして難点は、それに気づけていなかったことにありました。
蛙的な話です。
難しさに到達せねば、その大切さは理解しづらいです。
そして、逃げる癖がついていると、自身が逃げる癖がついていることに気づけない場合があるということもまた一つ。癖は無意識なので。知らぬ間に難しそうな文書から距離を置くようになります。
これはとても大きな問題です。
改善点は認知しているからこそ改善の試みが打てるんであって、認知していなければ、改善の動機づけさえ起こりません。
それに気づいたのがおそらく30歳を超えたくらいだったかですかね。
興味があるならば、逃げずに立ち向かえと。
逃げ場があることに胡坐をかくなと。
逃げ場はやさしい。
世の中はたくさんの逃げ場であふれていますから。ついついそこにずぶずぶと。
だからこそ、時に厳しさを自身に向ける必要があるのです。
何か求める自分があるならば。
興味があるけれど読めないものをしっかり目の前に来るような仕組みを作って、それに目を通す習慣をつくる。
ニュース記事のヘッドラインに芸能ばかり並ぶようにするんじゃなくて、しっかりと興味関心のあるものが優先して上がるような設定にするだとか。尊敬する人の発信を某かの方法でフォローするだとかね。そういう簡単な事でもいいのです。とにかく逃げない。逃げることより、興味関心を優先する。
興味関心を優先するってね、動きはじめるまではストレスなんですよ。
あかちゃんがおっぱい飲みたいけれど、飲むためには母親を振り向かせなくてはならない。だから泣く、みたいな。
こどもが理解できないものと対峙した時に癇癪起こして怒る感じ。
興味関心があってもそれを満たす方法がわからなかったら、いつまでもそれが満たされなかったとしたら、ストレスを感じて逃げようとするんですよね。泣いたり癇癪起こしたりし続けるのは大変ですから。興味関心にふたをするようになる。
動いて興味関心に貪欲になることで、少しずつ少しずつ、逃げていた自分に気づいて、さらにさらに、成長を手にするようになる。
読めるためには逃げないように。逃げないようには読めるように。
なんだか、そういうことを今一度思い起こさせる一言だったのです。
「着眼と考え方 現代文解釈の基礎」
逃げなくなるのに、お勧めですよ。
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