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輪郭は駆けて層を成してゆく

文字を書くとき、線を描くとき、そのほかのあらゆる表現媒体を問わず紡がれ生み出された輪郭は、偽りのない鏡のように、あるいは寄り添う影のように、思想を鮮やかに写し出す。名前の有無に関わらず、輪郭が駆けて層を成し、頑丈な今が佇んでいる。わたしの向かい側の存在に向き合うとき、それは絵画や映像、もしくは書などさまざまで、それらの輪郭が残されたこと、残り続けていることを考え、辿っていく。遅ればせながらここ数年は自分ができる限り丁寧にその工程を行うように心がけている。

今年はついに絵文字を作った。

LINEのスクリーンショット。ねずみのようなキャラクターの絵文字がぽつぽつと文の中にいる。上から、桃を切る時だけなぜかしゃんとする、マヨネーズ運命などと和えてやる、退屈はソフトクリームに引っ越した、という川柳が書かれている。
この3つの短文は自分が過去に詠んだ川柳である

絵文字はとても興味深い分野で、デコメ職人になりたかった中学生の頃から、わからないなりに絵文字についてずっと考えていたように思う。絵文字は記号的かつ象徴的で、わかりやすくて、誰もが使いやすい。しかしそれは、いないことにされている者たちの存在を意味することでもある。私が暮らす日本は植民地支配側であったことや、暴力的な差別がオンライン、オフラインのあらゆる場であることを考えると、非常に恐ろしいことだと思う。
私はクィアで、ニューロダイバージェントで、そういう点ではマイノリティだけど、また別の点ではマジョリティで、もしも何も気づかずに知らないままだったらどうなっていただろうと時々考えて怖くなる。だから、今いる自分ができることを考える。

sign,symbolを残す者がいて、残されたsign,symbolがあって、その一方で認識されない狭間の中に存在している者たちがたしかにいて、私はその狭間の中の者でもあって、そうでなくても、大事にひとつずつ読み解かねばならないと感じている。読み解くことはバトンを受け取ることであり、そのバトンはわたしたちをエンパワメントしてくれると同時に、これから渡される者たちへのエンパワメントにもなっていく。

私が残す輪郭は、絵文字や記号の形をしていた。私はこれらを読み解き、研究し、作品を作る。これは哲学であり、思想なのだろう。こうして残していくものが、誰かのバトンになれれば幸いと思う。

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