勝手にひっそり無力でも「サポーター」
小学校に上がって、娘が学校に行きたがらなくなって、
休みがち、イヤイヤ登校、たびたび保健室で過ごしながらだった1,2学期を乗り越え、3学期はまるまる休んだ。
たまたま近くにできたフリースクール的な場所
(欠席扱いにはなるけれど)に通うようになった。
休みだして、しばらくの間、親として何ができるかを悩んだ。
気持ちを受け止めた上で、不登校は悪くない、そう本音で言えるようなところまではたどり着いた。
結局、しばらくの間休んだのがよかったのか、二年生になってけろりと「学校へ行く」と言い出した。
クリアしたようにみえて、残った違和感は、
”学校の教室か、家しか居場所がない”(ように見える)ってことだった。
先生や保護者と話す中で、「学校これてない子は数人です」「あんまりいないからね」そういう言葉がでてくる。
それって健全じゃあないよなっていう気持ち。
最近、木村泰子さん(大空小学校初代校長)の言葉ひとつひとつがえらい沁みてくる。ちょっとだけ社会のせいにしていた自分がいたのを気付かされる。
そういう母ちゃんは、自分の子が行っていない学校に、自分が学びに行くんです。それで周りの子どもたちに何か、自分がやれることがないかなって、サポーターになってどんどん入る。先生じゃない大人が、子どもたちの中で「おばちゃん、何かやることない?」みたいに居ると、子どもはね、そこに安心する居場所を見つけることが出てくるんですよ。「しんどいねん」なんていう相談を受け始める。
そういう子どもたちと、(通えない)自分の子どもは、結果的につながっていくんです。だから自分の子どもを学校で安心して学ばせたかったら、自分の子どもをほっといて、周りの子どもを育てにそこの学校に行き、と言います。
(引用元:不登校新聞)
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さて、自分にできることはなんだろう。
自分や、自分の子ども、だけに矢印を向けていては何も変わらない。
周りを見渡しても、誰も困っていないように見えたとしても、
生きていたら困ることってみんなある。
それを放置しない、見て見ぬふりせず、自分に与えられるものはあるだろうか。自分の力がない、と思わずに。
人はだれでも、そばにいてくれたり、いつもいてくれたり、ちょっと存在を認めてもらえる、それだけで心温かくなり、安心を手に入れることもあるのだから、小さな、ほんのひとりの困った人がもしかして見ているかもしれないなんてことを思って
特にたいそれたことはできないけれど、放課後校庭でこどもたちとたまに過ごす。
転校した子が遊びに来ていて、「学校嫌やねん。3人しか友達おらんのや」とぼそっと言う
「そうか、いやなんか。学校始まってすぐ休みになっちゃったもんね。3人いるんやね」
「うーん、やっぱ四人やった!」
なんていう会話。
気持ちを話してくれるのはとても嬉しい。
”文句をどう、自分のなかで意見に変えるのか。ここに地域や社会を変える力があると思います”
(引用元:https://kokocara.pal-system.co.jp/2017/06/19/minna-school/)
へっぽこで、何もできない。
そう思っていたかあちゃんだけど、
力をもらえるようなきっかけを娘はいつもくれる。
ありがとう。
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みなさんの社会との関わり方、なんですか?