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書評、誤読のおもしろさ。
書評を読むことにはまっている。きっかけは古賀史健さんのnoteだった。
書評を読んでいて最初に感じたのは、自分の知らなさ。
根本的な自分の知識不足を痛感した。
知識を持っている人が読むと、同じ本でも見える世界がこんなにも異なるのかと驚く。
また書評の内容の違いもだが、語彙量の差も痛感する。
読めない漢字や意味のわからない言葉があまりに多い、多すぎる。
中には「え、そんな内容の本だった?!」と思うほど深い考察を書かれている書評もあった。
そこで思い出すのは、Voicyパーソナリティーの荒木博之さんが「誤読」というワードをよく使っていたこと。
まさに誤読の究極が書評なのではないか。
読書会や個人の読書記録アプリ、ブログなどもそれぞれの個性がありおもしろい。
しかしながら、著名人や作家の書評は読了本の世界をさらに拡張させてくれる深さがある。
わたしは子どものころから「変わっている」と親や教師から、はたまた勤め先の人やバイト仲間からも言われた。
いまでも集団に所属するたびに、ほぼ確実に言われることばだ。
どうも大多数の人と視点が異なるらしい。
けれどこんな書評を読んでいると、大多数とは存在するのか、とすら感じる。
人の数だけ視点があり、その違いが興味深く、たのしい。
個人の感性はもちろん、学び得ている知識や生きてきた環境、出会った人によって同じになんてなりえない。
変わっている、という発言をすることが視野の狭さや無知さを象徴、露呈しているようにも思える。
まだまだ世界には、わたしの「知らない」がたくさんある。
わたしの「知らない」を知っている人たちが、見せてくれる人たちが、伝えてくれる人たちが、この世界には溢れている。
それはあまりに尊く、よろこばしく、しあわせなことなのだ。