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【感想文】離合/川端康成

『一級落語セラピストが「離合」を読むと……』

本書『離合りごう』の後半では、久子の父と五年前に死んだ母による奇妙な会話が繰り広げられるが、母の <<あなたのいらっしゃるところ>>、<<私のいる国>> という発言から察するに、我々が今生きているこの世界の他に「死者の世界」が暗示されており、(ややこしい言い方になるが)どうやら母は死を生きている模様である(※1)。とすれば、父と母が会話をしている久子のアパートは生と死が共存する空間という見方ができるのだが……あ!そういえば僕は難関資格「一級落語セラピスト」の試験に合格したんだった!

というわけで、一級落語セラピストであるこの私に言わせれば、本書『離合』というタイトルは今すぐ『粗忽そこつアパート』に改名すべきである。
その理由を古典落語『粗忽長屋そこつながや』を用いて以下に説明する。

▼『粗忽長屋』のあらすじ

粗忽者が多いとある長屋には八五郎(=八)と熊五郎(=熊)が住んでいた。ある日、八は行き倒れに遭遇、その死体を見ると同じ長屋に住む熊であった。熊は昨晩の時点ですでに死んでいたという。しかし、八は「俺は今朝、長屋で熊に会ったのだ」と言い張り、真相を確かめるべく長屋に戻ると、そこにはたしかに熊が居た。そこで八は熊に対し、「お前は行き倒れで死んだのだ」と説き伏せて熊もそれに納得、八と熊は現場に戻った。そして自分の死体と対面した熊は戸惑いつつも死んだ事実を認める。しかし、自分の死体を抱きかかえて持って帰ろうとする熊にふと疑問が湧いた。「今、抱かれてるのは俺なんだろ?」「ああそうだ。」「じゃあ抱いてる俺は一体誰なんだ。」とサゲて噺は終わる。

▼粗忽長屋における対立/離合との共通点

あらすじの通り、客はこの不条理さを笑うだけでなく「粗忽」が常識を覆えす、というそのあまりのバカバカしさに笑うのである。それにしても、「生者・熊」と「死者・熊」が同時に存在しているのは不気味だが、その理由は前述した通り、熊が粗忽者(=うっかり者、あわて者)だからであり、さらに、熊の相棒である八も粗忽者なので彼も「二人の熊」の存在を信じて疑わない。生きている熊と死んでいる熊、この二項対立が常に成立するためには「粗忽」という要素が不可欠であり、元をたどれば「粗忽者が住む長屋」に起因した結果ともいえる。ということは、熊(=生死混交)が成立するこの長屋は、冒頭の※1を踏まえると『離合』における「久子のアパート」に相当する。では一方で、肝心の「粗忽」という要素が『離合』では何に相当するのかというと、それは生と死が存在する空間の発端となった家主の「久子」だろう。つまり、久子ありきで『離合』の不条理は成立している。ところで、熊は二人存在するが久子の母は一人である。この相違から、そもそもの前提条件が違うではないかと疑問を抱く者がいるかもしれない。しかし、熊も母も死を生きているため、両者の置かれた境遇は物理的には違うが「論理的」には同じである。

したがって、『離合』というタイトルは『粗忽アパート』に改名しても問題は…………ない。

といったことを考えながら、『粗忽長屋』は哲学における存在論や認識論においても援用する者が居たりと、形而上的な事柄を扱う際に意外と使えるような気がする。

以上

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