【感想文】闇の絵巻/梶井基次郎
『梶井基次郎の顔面における芸術作品としての価値とその測定方法に関する考察』
という表題の修士論文を提出したら今年も留年が決まったが、それはさておき、本書『闇の絵巻』は難解な作品である。というのも「主人公は闇に不安を覚えるが己の意志を捨てると不安は安堵へ変化するそうで、闇に消える他者の姿に <<異様な感動>> をしたそうで、谷沿いの闇には再び不安を覚えたそうで、旅館の電燈に安堵したけど都会の電燈は <<薄っ汚なく>> 思っている」という複雑な心境だからである。
主人公にとって「闇」とは何を意味するのか。
私の能力では読み解くことができなかったため、身近な有識者二名に相談したところ、以下の回答を得ることができた。
西武池袋線の椎名町駅に降りると目前には「〽頬を刺す 朝の山手通り 煙草の空き箱を捨てる」でお馴染みの山手通りが広がっており、その高架下を抜けたところに妙蓮湯はあった。のれんを潜って湯殿へ進むと通常の風呂の他に、泡風呂、薬風呂、水風呂と続いてあったあった、お目当ての電気風呂が。幸いにも電気風呂を使用している者は誰もおらず、むしろ電気風呂以外の風呂には必ず誰かが入っていた。効能を見ると「電流によって肩こりや神経痛を緩和する効果が期待できる」との事なので期待できる。しかしどこか不安が残る。それは私が電気風呂の未経験者だからか。恐る恐る湯船に足をつけようとしたところ周囲の視線を背後に感じた、がしかしここで退いては男がすたる、思い切って電気風呂に飛び込んだ瞬間──電流が足のつま先から腰を駆け抜けて脳天に至り、その衝撃たるや感電という生易しいものではなく、これぞまさしくゼウスの怒り、あるいはピカチュウ百匹分に相当する電撃とでもいおうか、とにかくゼウスとピカチュウで全身痙攣を起こした私は這這の体で電気風呂から退散したのである。
で、ふと気付いた。「妙蓮湯の電気風呂」および「闇」、両者はどちらも経験が可能である。だから経験の際に不安や安堵といった心の動き、つまり「感動」が生じる。では我々人間にとって経験できないことは何かというとそれは「死」である。死は、行動それ自体として体験は可能だが、行動の結果として認識するといった経験は不可能であり、したがって死とは身近でありながら誰も知りえない謎といってよく、それだから安堵は無く不安だけが残る。以上を踏まえると、まるで本書の主人公は闇に死を重ねているかのようであり、それは「死」なるものに意味を与えようとする試みといえるが経験に至る訳がない。そのため、漠然とした感動の交錯に終始するのは当然ではあるが、主人公はこうした「死を生きる現実」を痛切に感じていたものと思われる。
といったことを考えながら、この読書感想文は「夜泣き」「かん虫」「乳吐き」を緩和する効果が期待できる。
以上