【感想文】蔦の門/岡本かの子
『かの子珍談三題』
本書『蔦の門』読後の乃公、深更の御酒に次ぐ御酒の果てに、確実、精細、広汎な知識に根差さぬ愚にもつかぬ料簡三題、以下に捻出せり。
▼珍談 一:
老婢まきとひろ子の孤独が蔦を通して解消されていく展開は清々しい。これは三島由紀夫『潮騒』も同様、直球の筋にも関わらずそれでいて陳腐に堕ちない理由はやはりある様に思う。著者・岡本かの子の場合、それは詩性とでもいおうか、文章の主成分に鋭敏な感性が織り込まれている印象を受ける。例えば以下三点、一見して不明瞭の感があるがなぜか惹きこまれる文章である。
<<焦立つ気持ちをこの葉の茂りに刺し込んで、強ひて蔦の門の偶然に就いて考へてみることもある。>>
<<蔦なき門の家に住んでゐたときの家の出入りを憶ひ返し、丁度女が額の真廂をむきつけに電燈の光で射向けられるやうな寂しくも気うとい感じがした。>>
<<緑のゴブラン織のやうな蔦の茂みを背景にして背と腰で二箇所に曲つてゐる長身をやをら伸ばし、箒を支へに背景を見返へる老女の姿は、夏の朝靄の中に象牙彫のやうに潤んで白く冴えた。>>
▼珍談 二:
あらゆる文章の成り立ちは、まず自己の内に生じる意志および感情に端を発してそれを言語化の上で文章に書きあらわすといった段階を踏む。上記三点の引用についても、心象→言語→文章という同様のプロセスを経て作成されたには違いないが、岡本かの子の場合、感受性を言語に移す工程(心象→言語への変換)が非常に洗練されている様に思う。だから彼女の文章には作為の感があまり無く、物語に知らず知らず惹きこまれていくのかもしれない。
▼珍談 三:
私事恐縮だが、以前の私は日本文学をほぼ読まなかった。難解な表記に対し大いに戸惑うからである。しかし、かつて受験した大学入試において、幸田文という作家の小説が出題されたことでその戸惑いは一新された。やはり非常に難解な文章の集合体ではあったものの、不思議なことに物語に惹きこまれたのである(試験という事もあり集中していたせいか)。私はこの体験を通して、著者ならではの感性を「分かりにくい」と切り捨てるのではなくそこを吟味すればするほど面白さへと移行する、ということを見出した。以来、私は日本の小説を読み始め、女流作家といえば幸田文とばかり思っていた。が、読書会を通じて岡本かの子の作品を読むにつけ彼女の感性、表現力は幸田文に引けを取らない並み外れた人物だということに気付かされたのである。
といったことを考えながら、でもやっぱり「コジコジ」が一番おもしろいなあと思った。
以上
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