【感想文】余興/森鴎外
『カモメはカモメ。わたしはわたし。』
本書『余興』読後の乃公、愚にもつかぬ雑感以下に編み出したり。
▼あらすじ
懇親会に参加 → 余興の浪花節を見物 → 興ざめ → 余興終了 → 芸者の発言に傷心 → 自己嫌悪 → 【完】
▼雑感 ~「私」の苦悩について ~
本書末文において、語り手「私」は余興に対する自身の態度について自己嫌悪からなる自問自答を繰り返す。その苦悩の中心となるのは、
への憧れ、ひいては劣等感を覚えたことにある。
※1・・・得た知識が実践を伴っていること。学んだ事を実行できること。
ここで想起されるのは宴会幹事「畑」の態度である。畑は芸術を解さないにも関わらず、自分が良いと思ったもの(=浪花節)を宴会のドアタマで余興として披露し、同郷の青年を警醒しようとする。この力の入れようはまさしく、前述した <<知行一致の境界に住している人>> そのものであり、作中中盤で「私」は、このカタブツ少将のことを <<処女のように純潔無垢な将軍>> と称しているが、「私」は畑に皮肉を呈したのではなく、彼の知行一致した性質に惹かれているのである。これ、裏を返せば「私」は「知行一致の実践者」ではない。
なぜなら、作中の彼の態度はというと、「カスみたいな余興について素直に『カスみたいだね。ぼくは帰る。』という行動が取れない俺」「カスみたいな余興であったにも関わらず、見物者一同に流されて思わず拍手をしてしまった俺」といった様に、知行一致していないからである。ただ惜しいのは、芸者に「面白かったでしょう」と侮られ自尊心が傷ついたため反射的にこの女の持った徳利を避けた場面、これは知行一致している。しかし、一旦引いた手を再び出してしまう(≠知行一致)。この行動により「私」における「知」と「行」の乖離が浮き彫りとなり、末文における自己嫌悪が始まる。
よって、知行一致の精神に反した「私」はこの一点において苦しんだことになる。
▼余談 ~ 本書の持つ普遍性について ~
前述した「反・知行一致の精神」は現代においてもよくある話であり、ダメとは分かっていながらそこに突き進んでしまった経験なんかがまさにそうで、例えば、あなた方は「やっぱ●●なんて行くんじゃなかった……」と後悔した経験はないだろうか。で、自分のケースを紹介すると「やっぱメイド喫茶なんて行くんじゃなかった……」がまさにそうで、十代の頃、友人数名と秋葉原に遊びにいった折、自分以外の3名は「メイド喫茶に行きたい派」で自分はというと、「メイド喫茶なんて行きたくないけどそれが言い出せない派」であった。で、人間関係を重視した自分は仕方なくメイド喫茶に入店、「おいしくなあれ、萌え萌えキュンっ」などと嘯き、メイドと一緒に半笑いでチェキを撮影、スタンプカードを貰って真顔で退店、という体たらくであった。あのようなヲタクお誂え向きの荒唐無稽なメイドなぞ下品極まりないと蔑んでいた。しかし、店内ではそんな素振りをひとつも見せることなく自分はあの空間に確かにいた。この事実は自分を自己嫌悪に陥いらせた。「私」が語った <<己の感情は己の感情である>> とは、知行一致への反命題になり得ると思う。
といったことを考えながら、あの時の自分はメイド喫茶よりもスタミナ太郎に行きたかった。
以上
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